知人の家族が、子のなき声がうるさいと苦情をうけ、
急いで引っ越したことがあった。
おさな子がげんきに泣くのは当たりまえだし、
苦情の主もまた、当時は泣きわめいていたに決まっている。
それでもまわりの大人たちは、分けへだてなく
子どもに愛情をそそいで見守ったことだろう。
誰かに小言をもらす心理は、よわい者いじめに通じる。
攻撃しやすい立場にある者に対して、ひごろのうっぷんや
イライラ、劣等感もまとめてぶつけようとするわけだ。
袋にたまった汚物が、弱いところに穴があいて噴出するようなもの。
正当な言い分を用意しようとも、どこか憂さ晴らしの
尊大な意識になっていないか、冷静にかえりみる必要があろう。
それができない、自分を客観的にみつめられない
余裕のない人間が、近所の赤ちゃんのなき声に大げさにいらつくのだろう。
核家族がふえ、母親はただでさえ寝る間もない忙しさ。
その上、隣近所からの苦情やとりこし苦労がかさなれば、
心痛やあまりある。
そこに想いをめぐらせ、むしろ積極的に寛容の意をしめしても
よいところだ。
苦情がなくても、まわりが黙っているままでは、
本当は激烈たる怒りを抑えているのではという
疑心暗鬼を生じさせるから、すすんで味方になりたい。
だけど、そんなことで敵味方ということ自体が異常でもある。
いま、自分たちが息をしているのは、はるか昔から
大人が子どもをいのちがけで守りぬいてきた結果であるというのに。
怒りの感情じたいは大切なものだが、向けるべき対象を
見きわめないと。
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