七夕も近いので、今日は中国の七夕伝説をひとつ紹介させていただく。私は2008年から2010年にかけて中国の上海師範大学で日本語を教えた。民俗学に興味のあった私は、中国で『中国風俗伝説故事』(1992年・陝西人民出版社)という本を入手した。その本に載っていたのが本日紹介する「七夕乞巧」である。
乞巧キッコウというのは「巧みを乞う」という意味で、技術が巧みになるよう願うこと。七夕乞巧とは、7月7日にはた織りや裁縫の技術が上達するようにねがうこと。すなわち、織姫と彦星に願い事をする七夕の行事をいう。この本の内容は日本では紹介されていないタイプの話であり、内容も非常におもしろいので日本語に翻訳してみることにした。完成してから、日本語の主任教授であった王軍彦先生に見ていただくと、何カ所も訂正していただいた。そのおかげで、自分でもかなり良い翻訳になったと思っている。日本へ帰ってから、あるサイトにこっそり載せていたが、そのサイトは私がプロバイダを変えたため消滅した。今回、その再録である。(石沢誠司)
七夕乞巧
むかし昔のおはなしです。ある貧しい家に二人の兄弟がいました。兄はすでに結婚してお嫁さんがいました。弟は聡明でよく働く正直でおとなしい子どもでした。この弟は伏牛山に一頭の黄牛が寝ていると聞き、その牛を連れ帰って田畑を耕すのに使おうと思い、ある日、伏牛山に入って行きました。九十九の峠を越えて山道を登り、九十九の谷川を渡って行くと、大きな平らな岩の上に牛が臥せていました。牛は痩せこけて骨が浮き出ています。彼は牛の前に跪き両手を地について大きなお辞儀をし、「牛おじさん」と呼びかけ、自分と一緒に行くように牛を誘いました。
老いた黄牛は力なく目を開けましたが、何も言わずにまた眼を閉じました。彼は老牛が元気なく精彩を欠いているのを見て、この牛はお腹がすいているのだと感じました。そしてすぐに草を摘んで牛に与えました。このようにずっと3日間、牛に草を食べさせると、牛はお腹がいっぱいになり、ようやくゆっくりと頭を上げて、彼に話しました。
「子どもさん、わしはもともと天に住んでいたんじゃ。盤古(中国神話で天地開闢の祖と言われる人)が天地を開いたとき、この地上には五穀がなかったので、わしはこっそり天の倉から五穀の種を盗み、地上に撒いたのじゃ。天帝に怒られ、天の庭から蹴り落とされたので、わしは天から落ちて足を打ち、動くことができない。わしの傷は百花の露で百日間洗ってもらってはじめて治るんだが…… 」
子どもはそれを聞くと、すぐに老牛と一緒にいることにし、毎日朝早く起きて百花を摘みに行き、花の露を老牛に付けて傷を洗ってあげました。まるまる百日間、老牛は彼の心からの世話により奇跡的に回復しました。そして彼に連れられて一緒にその家へ帰りました。
子どもは老牛をたいへん大事にしました。昼間は牛をつれて放し飼いに行き、夜は牛のそばで寝ました。人々は彼を牛郎と呼びました。老牛もまた牛郎を大変親切に扱いました。牛郎の兄嫁が家でこっそり食事をするたびに、老牛はいつも牛郎を呼んで、家に戻って食事をするよう言いました。
時間の経つのは早いものです。牛郎はだんだんと大きくなりました。兄嫁はすぐに牛郎を分家させようとしました。牛郎の兄は、血を分けた弟に対する愛情も深かったのですが、狡賢く意地悪な兄嫁は理不尽にも何も牛郎に分け与えようとしませんでした。牛郎もまた彼らと相争うことはせず、ただ壊れかけた車と、ぼろの皮箱をもらい、老牛をひいて村のはずれに行き、草葺きの小屋を作って住みました。
ある日、老牛は口の中から茶豆を吐き出して、牛郎にうなずきました。牛郎はその動作で牛の気持ちを理解し、茶豆を家の前に播くと、二日目には土から芽が出てきて、三日目には芽がのびてきたので、牛郎は棚を作りました。幾日もしないうちに棚は茶豆のつるでいっぱいになりました。
老牛は言いました。「夜になったら茶豆の棚の下にそっと忍びこんでいると、天上の娘たちが見えるよ。天の娘たちも君を見ることができる。もしも誰か七日の間、いつも君をぬすみ見るものがいれば、それは君の妻になりたがるものだ。わしは車に君を乗せて引いて天に昇り、彼女をこの人間界に連れ帰り、君と結婚させよう」
夜になり、牛郎は茶豆の棚の下にもぐり込んで天を見上げました。すると一群の天女たちがちょうど天の池で入浴しているのが目に入りました。牛郎が棚を出ようとしたとき、一人の天女が下を見て彼をちょっと盗み見しました。
二日目の夜、その天女が一人で池のほとりに来たのが見えました。彼女は大胆に彼を見ました。
三日目の夜、牛郎を見て微笑みました。
四日目の夜、牛郎に向かってうなずきました。
五日目の夜、一籃(かご)の蚕を持ってきました。
六日目の夜、そっと一台のはたおり機を持ってきました。
七日目の夜、機織りの杼を持ち、牛郎に向かって手まねきしました。
牛郎と織女は、一人は地上で一人は天で、七日間の夜、目と目を交わしたのです。牛郎は織女が下りてくることを望みました。織女は牛郎が早く嫁取りにきてほしいと思いました。
7月7日のその日、天から一羽のカササギが飛んで来て老牛の頭の上にとまり、チッチッチと鳴いて「織女が私を遣わしました。あなたに早く嫁取りに来てほしいと言っています。早く嫁取りに、早く嫁取りに」。
老牛は牛郎に向ってうなずきました。牛郎は車を牛につなぐと乗りこみました。老牛は四本の蹄を動かして空へ勢いよく昇って行きました。まもなく天の池に着きました。牛郎は車をおり、織女と二人で力を合わせはたおり機を車の上に載せました。織女は蚕の入った籃(かご)を腕に下げると車に乗りました。牛郎もまた車に飛び乗り織女と一緒に座りました。老牛は雲や霧のなかを四つの蹄を動かして舞い飛び、走り降り、あっという間に家に着きました。
村人や隣人親戚たちは牛郎が所帯を持ったことを知り、皆お祝いに来ました。織女は持ってきた天の蚕を姉妹たちに分け与え、皆に養蚕を教え、マユから糸を繰ることを教え、絹織物の織り方を教えました。
三年目の7月7日、織女は一度に一男一女を生みました。まるまるとして可愛い赤ちゃんで、大変人を楽しませました。牛郎は田畑を耕し、織女は布を織り、この小さな家族は健やかで楽しい睦ましい日々を過ごしていました。娘たちや少年たちは大変羨ましがって、二人がどのように知り合ったのか聞きました。牛郎は茶豆棚を指差してそのいきさつを子細に話しました。
茶豆が熟する時期になると、娘たちや少年たちは争ってそれを摘み、自分の家の庭に播きました。そして彼らもまた茶豆の棚の下にそっと忍びこんで、天を見上げました。少年たちは彼らをそっとぬすみ見する天女が出てくるのを望み、娘たちは彼女たちをそっとぬすみ見る天童が出てくることを望みました。若者たちは茶豆の棚の下に潜り込んでみな胸をときめかして甘美な夢に浸っているのでした。
また数年が過ぎました。ある日、牛郎がちょうど犂を曳いていると、晴れた空から一陣の雷鳴がとどろきました。老牛は立ち止ると、牛郎を見て涙を流しながら言いました。「わしは織女を天からさらってきて、天の規律を犯した。(裁判の結果を知らせる)天の太鼓(雷)が鳴った。わしは生きておれん。わしが死んだら、西王母はきっとあなた方夫婦を離ればなれにするだろう。よく覚えておきなさい。わしの皮を剥いで肉をたべなさい。そうすれば人間から仙人になれる。剥いだ皮で靴を作りなさい。それを履くと雲の上に飛ぶことができ天へ登れる」。そう言うと老牛は倒れて死にました。牛郎はひとしきり泣きましたが、老牛の話を思い出しその通りにしました。
7月7日のことです。牛郎が鋤で草取りをしているところへ、二人の子供たちが泣きながら走ってきました。彼らが言うには、知らないばばあ一人がやってきて、機織りをしていたお母さんを連れ去ったというのです。牛郎はすぐに鋤を投げ出し、子どもたちの手をとって空高く昇り追いかけました。
見る間に追いつこうとした時、西王母は頭に挿していた金のかんざしを抜いて足元をさっと擦って区切りました。すると渦を巻いて滔々と流れる一本の大きな河が現れました。牛郎は子供たちの手を引きながら川辺に立って泣きました。泣き声は天帝を驚かせました。天帝は二人の子供を見ると、なんとも可哀そうだと思って彼らの家族を毎年7月7日に一度だけ会えるようにさせてやりました。その時はカササギが橋を架けるようにしました。
牛郎一家が見えないので、人々はおかしいと思い、晩になって茶豆の棚にもぐり込んで天を仰ぎ見ました。すると一条の大河が滔々と流れており、織女が河のあちらで泣いており、牛郎が河のこちら側で子供の手を引きながら泣いているのが見えました。人々は事の次第を知り、涙を拭きながら茶豆の棚から出て天空を見上げました。そして幾多の星がきらめく天空に一条の広くて長い銀の帯が出現しているのを見つけ、これを天の川と呼びました。天の川の一辺には一つの星が増えており、もう一辺には三つの星が増えていました。すなわち織女星と牛郎星です。
のちに7月7日が来るたびに人々は牛郎と織女を思い起こし、一部の好奇心のある男女は、茶豆の棚の下にひそんで天を望み、牛郎と織女をぬすみ見ます。多くの婦女たちはまたこの日の晩、瓜と果物をお供えして織女星にむかって祈るのです。彼女たちの機織りや刺繍の腕前が上達するようにと。これが乞巧なのです。
※茶豆 『蘇州植薬誌』に「茶豆は扁豆の異名」とある。
乞巧キッコウというのは「巧みを乞う」という意味で、技術が巧みになるよう願うこと。七夕乞巧とは、7月7日にはた織りや裁縫の技術が上達するようにねがうこと。すなわち、織姫と彦星に願い事をする七夕の行事をいう。この本の内容は日本では紹介されていないタイプの話であり、内容も非常におもしろいので日本語に翻訳してみることにした。完成してから、日本語の主任教授であった王軍彦先生に見ていただくと、何カ所も訂正していただいた。そのおかげで、自分でもかなり良い翻訳になったと思っている。日本へ帰ってから、あるサイトにこっそり載せていたが、そのサイトは私がプロバイダを変えたため消滅した。今回、その再録である。(石沢誠司)
七夕乞巧
むかし昔のおはなしです。ある貧しい家に二人の兄弟がいました。兄はすでに結婚してお嫁さんがいました。弟は聡明でよく働く正直でおとなしい子どもでした。この弟は伏牛山に一頭の黄牛が寝ていると聞き、その牛を連れ帰って田畑を耕すのに使おうと思い、ある日、伏牛山に入って行きました。九十九の峠を越えて山道を登り、九十九の谷川を渡って行くと、大きな平らな岩の上に牛が臥せていました。牛は痩せこけて骨が浮き出ています。彼は牛の前に跪き両手を地について大きなお辞儀をし、「牛おじさん」と呼びかけ、自分と一緒に行くように牛を誘いました。
老いた黄牛は力なく目を開けましたが、何も言わずにまた眼を閉じました。彼は老牛が元気なく精彩を欠いているのを見て、この牛はお腹がすいているのだと感じました。そしてすぐに草を摘んで牛に与えました。このようにずっと3日間、牛に草を食べさせると、牛はお腹がいっぱいになり、ようやくゆっくりと頭を上げて、彼に話しました。
「子どもさん、わしはもともと天に住んでいたんじゃ。盤古(中国神話で天地開闢の祖と言われる人)が天地を開いたとき、この地上には五穀がなかったので、わしはこっそり天の倉から五穀の種を盗み、地上に撒いたのじゃ。天帝に怒られ、天の庭から蹴り落とされたので、わしは天から落ちて足を打ち、動くことができない。わしの傷は百花の露で百日間洗ってもらってはじめて治るんだが…… 」
子どもはそれを聞くと、すぐに老牛と一緒にいることにし、毎日朝早く起きて百花を摘みに行き、花の露を老牛に付けて傷を洗ってあげました。まるまる百日間、老牛は彼の心からの世話により奇跡的に回復しました。そして彼に連れられて一緒にその家へ帰りました。
子どもは老牛をたいへん大事にしました。昼間は牛をつれて放し飼いに行き、夜は牛のそばで寝ました。人々は彼を牛郎と呼びました。老牛もまた牛郎を大変親切に扱いました。牛郎の兄嫁が家でこっそり食事をするたびに、老牛はいつも牛郎を呼んで、家に戻って食事をするよう言いました。
時間の経つのは早いものです。牛郎はだんだんと大きくなりました。兄嫁はすぐに牛郎を分家させようとしました。牛郎の兄は、血を分けた弟に対する愛情も深かったのですが、狡賢く意地悪な兄嫁は理不尽にも何も牛郎に分け与えようとしませんでした。牛郎もまた彼らと相争うことはせず、ただ壊れかけた車と、ぼろの皮箱をもらい、老牛をひいて村のはずれに行き、草葺きの小屋を作って住みました。
ある日、老牛は口の中から茶豆を吐き出して、牛郎にうなずきました。牛郎はその動作で牛の気持ちを理解し、茶豆を家の前に播くと、二日目には土から芽が出てきて、三日目には芽がのびてきたので、牛郎は棚を作りました。幾日もしないうちに棚は茶豆のつるでいっぱいになりました。
老牛は言いました。「夜になったら茶豆の棚の下にそっと忍びこんでいると、天上の娘たちが見えるよ。天の娘たちも君を見ることができる。もしも誰か七日の間、いつも君をぬすみ見るものがいれば、それは君の妻になりたがるものだ。わしは車に君を乗せて引いて天に昇り、彼女をこの人間界に連れ帰り、君と結婚させよう」
夜になり、牛郎は茶豆の棚の下にもぐり込んで天を見上げました。すると一群の天女たちがちょうど天の池で入浴しているのが目に入りました。牛郎が棚を出ようとしたとき、一人の天女が下を見て彼をちょっと盗み見しました。
二日目の夜、その天女が一人で池のほとりに来たのが見えました。彼女は大胆に彼を見ました。
三日目の夜、牛郎を見て微笑みました。
四日目の夜、牛郎に向かってうなずきました。
五日目の夜、一籃(かご)の蚕を持ってきました。
六日目の夜、そっと一台のはたおり機を持ってきました。
七日目の夜、機織りの杼を持ち、牛郎に向かって手まねきしました。
牛郎と織女は、一人は地上で一人は天で、七日間の夜、目と目を交わしたのです。牛郎は織女が下りてくることを望みました。織女は牛郎が早く嫁取りにきてほしいと思いました。
7月7日のその日、天から一羽のカササギが飛んで来て老牛の頭の上にとまり、チッチッチと鳴いて「織女が私を遣わしました。あなたに早く嫁取りに来てほしいと言っています。早く嫁取りに、早く嫁取りに」。
老牛は牛郎に向ってうなずきました。牛郎は車を牛につなぐと乗りこみました。老牛は四本の蹄を動かして空へ勢いよく昇って行きました。まもなく天の池に着きました。牛郎は車をおり、織女と二人で力を合わせはたおり機を車の上に載せました。織女は蚕の入った籃(かご)を腕に下げると車に乗りました。牛郎もまた車に飛び乗り織女と一緒に座りました。老牛は雲や霧のなかを四つの蹄を動かして舞い飛び、走り降り、あっという間に家に着きました。
村人や隣人親戚たちは牛郎が所帯を持ったことを知り、皆お祝いに来ました。織女は持ってきた天の蚕を姉妹たちに分け与え、皆に養蚕を教え、マユから糸を繰ることを教え、絹織物の織り方を教えました。
三年目の7月7日、織女は一度に一男一女を生みました。まるまるとして可愛い赤ちゃんで、大変人を楽しませました。牛郎は田畑を耕し、織女は布を織り、この小さな家族は健やかで楽しい睦ましい日々を過ごしていました。娘たちや少年たちは大変羨ましがって、二人がどのように知り合ったのか聞きました。牛郎は茶豆棚を指差してそのいきさつを子細に話しました。
茶豆が熟する時期になると、娘たちや少年たちは争ってそれを摘み、自分の家の庭に播きました。そして彼らもまた茶豆の棚の下にそっと忍びこんで、天を見上げました。少年たちは彼らをそっとぬすみ見する天女が出てくるのを望み、娘たちは彼女たちをそっとぬすみ見る天童が出てくることを望みました。若者たちは茶豆の棚の下に潜り込んでみな胸をときめかして甘美な夢に浸っているのでした。
また数年が過ぎました。ある日、牛郎がちょうど犂を曳いていると、晴れた空から一陣の雷鳴がとどろきました。老牛は立ち止ると、牛郎を見て涙を流しながら言いました。「わしは織女を天からさらってきて、天の規律を犯した。(裁判の結果を知らせる)天の太鼓(雷)が鳴った。わしは生きておれん。わしが死んだら、西王母はきっとあなた方夫婦を離ればなれにするだろう。よく覚えておきなさい。わしの皮を剥いで肉をたべなさい。そうすれば人間から仙人になれる。剥いだ皮で靴を作りなさい。それを履くと雲の上に飛ぶことができ天へ登れる」。そう言うと老牛は倒れて死にました。牛郎はひとしきり泣きましたが、老牛の話を思い出しその通りにしました。
7月7日のことです。牛郎が鋤で草取りをしているところへ、二人の子供たちが泣きながら走ってきました。彼らが言うには、知らないばばあ一人がやってきて、機織りをしていたお母さんを連れ去ったというのです。牛郎はすぐに鋤を投げ出し、子どもたちの手をとって空高く昇り追いかけました。
見る間に追いつこうとした時、西王母は頭に挿していた金のかんざしを抜いて足元をさっと擦って区切りました。すると渦を巻いて滔々と流れる一本の大きな河が現れました。牛郎は子供たちの手を引きながら川辺に立って泣きました。泣き声は天帝を驚かせました。天帝は二人の子供を見ると、なんとも可哀そうだと思って彼らの家族を毎年7月7日に一度だけ会えるようにさせてやりました。その時はカササギが橋を架けるようにしました。
牛郎一家が見えないので、人々はおかしいと思い、晩になって茶豆の棚にもぐり込んで天を仰ぎ見ました。すると一条の大河が滔々と流れており、織女が河のあちらで泣いており、牛郎が河のこちら側で子供の手を引きながら泣いているのが見えました。人々は事の次第を知り、涙を拭きながら茶豆の棚から出て天空を見上げました。そして幾多の星がきらめく天空に一条の広くて長い銀の帯が出現しているのを見つけ、これを天の川と呼びました。天の川の一辺には一つの星が増えており、もう一辺には三つの星が増えていました。すなわち織女星と牛郎星です。
のちに7月7日が来るたびに人々は牛郎と織女を思い起こし、一部の好奇心のある男女は、茶豆の棚の下にひそんで天を望み、牛郎と織女をぬすみ見ます。多くの婦女たちはまたこの日の晩、瓜と果物をお供えして織女星にむかって祈るのです。彼女たちの機織りや刺繍の腕前が上達するようにと。これが乞巧なのです。
※茶豆 『蘇州植薬誌』に「茶豆は扁豆の異名」とある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます