朝日新聞 2017年2月27日 文・八木寧子
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/c8/cf9b2b0b7e54b684980b0b6b9f20f14f.jpg)
父の書棚にあった『沈黙』をはじめて読んだとき
遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)を買っていかれるお客さんが多い。40代、50代くらいが主だが、若い人もよく手にとっている。マーティン・スコセッシ監督による映画公開の影響によるものだが、昭和41年に刊行された小説が50年を経てふたたび読まれはじめたことはとても意義深い。
『沈黙』は、キリシタン禁制がもっとも厳しかった島原の乱後の日本に潜入したポルトガル司祭の目を通して、日本の社会と日本人信徒が強いられていた苦難を描いた重厚な作品だ。おぞましいほどの弾劾(だんがい)を受けながらも信仰に対して一途な信徒たちの姿を見て、深く苦悩する司祭ロドリゴ自身も最後には背教を迫られるのだが、神は沈黙しており、殉教者たちの祈りは歴史の波間に沈みゆくばかりだ。
父の書棚にあった『沈黙』をはじめて読んだとき私は高校生だったが、信仰の何たるかも知らず、歴史の教科書に記されない悲痛な真実のひとつの側面を描く小説のすごさに圧倒されたことだけを覚えている。
2人の女性が抱き続けた「祈り」『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』
くしくも、2016年に没した津島佑子の“最後の長編小説”となった『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』もまた、信仰とは何かという、人間にとっての根源的な問いを提示している。こちらの主人公は、1620年ごろの北海道・松前にアイヌ人の母親と日本人との間に生まれた少女チカ(チカップ)。彼女は、父を知らず幼くして母と死別したのちキリシタン一行に拾われて長崎からマカウ(マカオ)を経て、最後はバタビア(現在のインドネシア・ジャカルタ)に行き着く数奇な生涯をたどる。彼女が生きた時代は、ちょうど『沈黙』と重なっている。
チカがキリシタン一行と共に日本を離れたのは成り行きであり何より生きるためであったが、兄のように慕う少年・ジュリアンのまっすぐな信仰を目の当たりにして、自らの「信仰」について考えはじめる。パードレ(司祭)を目指すジュリアンはそのための学校に入り、やがてチカとは違う道を歩み始めるのだが、キリスト教ではなく自らの出自である「アイヌ」に思いをはせ、記憶に残る母(アイヌ)の言葉(歌)を終生よりどころとしていくチカのひたむきさに心打たれる。
そして、『ジャッカ・ドフニ』にはもうひとり、幼い息子を事故で亡くした女性が登場する。彼女は息子が幼い頃に共に北海道を訪れており、そのときに出会ったアイヌの男性や現地のガイドから聞いたアイヌの言葉、歌、思想を胸に抱き続ける。2011年、1985年、1967年とこちらは年代をさかのぼって、結果的に喪失に至る主人公の軌跡がつづられる。
ふたつの時代に生きた女性たちは時空を超えて出逢うわけでもなく、互いを知らぬままそれぞれの「生」を生きる。ただ、ふたりとも、自らが信じるものを信じ、愛するものへの想いを抱き続けたのだ。それは、信仰というよりはむしろ、祈りに近い感情だったのかもしれない。
津島佑子はもちろん太宰治の娘であり、実際に幼い息子を事故で亡くしている。津島文学の核である「父の不在」「喪(うしな)われた子」という主題はこの作品でも強く奏でられており、その張り裂けるような哀しみが文字の連なりからにじむ。
ふたつの小説が、ひとつの書店のなかで遠くない場所に置かれていることの奇跡をあらためて思う。
視点や書き口や主人公の在り方などは違うが、信仰の対象が何であるかということ以上に、何かを一心に信じることのつよさを、ふたりの作家は書きたかったのかもしれない。
ちょうど『ジャッカ・ドフニ』を読んだあと、偶然テレビのドキュメンタリー番組で「カムイ・ユカラ(アイヌ語で神の歌の意)」を耳にした。その澄んだ歌声は私が想像していた以上におおらかで、はるかな祈りとなって画面の奥、青空のかなたに消えていった。
http://www.asahi.com/and_w/articles/SDI2017022296941.html
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父の書棚にあった『沈黙』をはじめて読んだとき
遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)を買っていかれるお客さんが多い。40代、50代くらいが主だが、若い人もよく手にとっている。マーティン・スコセッシ監督による映画公開の影響によるものだが、昭和41年に刊行された小説が50年を経てふたたび読まれはじめたことはとても意義深い。
『沈黙』は、キリシタン禁制がもっとも厳しかった島原の乱後の日本に潜入したポルトガル司祭の目を通して、日本の社会と日本人信徒が強いられていた苦難を描いた重厚な作品だ。おぞましいほどの弾劾(だんがい)を受けながらも信仰に対して一途な信徒たちの姿を見て、深く苦悩する司祭ロドリゴ自身も最後には背教を迫られるのだが、神は沈黙しており、殉教者たちの祈りは歴史の波間に沈みゆくばかりだ。
父の書棚にあった『沈黙』をはじめて読んだとき私は高校生だったが、信仰の何たるかも知らず、歴史の教科書に記されない悲痛な真実のひとつの側面を描く小説のすごさに圧倒されたことだけを覚えている。
2人の女性が抱き続けた「祈り」『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』
くしくも、2016年に没した津島佑子の“最後の長編小説”となった『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』もまた、信仰とは何かという、人間にとっての根源的な問いを提示している。こちらの主人公は、1620年ごろの北海道・松前にアイヌ人の母親と日本人との間に生まれた少女チカ(チカップ)。彼女は、父を知らず幼くして母と死別したのちキリシタン一行に拾われて長崎からマカウ(マカオ)を経て、最後はバタビア(現在のインドネシア・ジャカルタ)に行き着く数奇な生涯をたどる。彼女が生きた時代は、ちょうど『沈黙』と重なっている。
チカがキリシタン一行と共に日本を離れたのは成り行きであり何より生きるためであったが、兄のように慕う少年・ジュリアンのまっすぐな信仰を目の当たりにして、自らの「信仰」について考えはじめる。パードレ(司祭)を目指すジュリアンはそのための学校に入り、やがてチカとは違う道を歩み始めるのだが、キリスト教ではなく自らの出自である「アイヌ」に思いをはせ、記憶に残る母(アイヌ)の言葉(歌)を終生よりどころとしていくチカのひたむきさに心打たれる。
そして、『ジャッカ・ドフニ』にはもうひとり、幼い息子を事故で亡くした女性が登場する。彼女は息子が幼い頃に共に北海道を訪れており、そのときに出会ったアイヌの男性や現地のガイドから聞いたアイヌの言葉、歌、思想を胸に抱き続ける。2011年、1985年、1967年とこちらは年代をさかのぼって、結果的に喪失に至る主人公の軌跡がつづられる。
ふたつの時代に生きた女性たちは時空を超えて出逢うわけでもなく、互いを知らぬままそれぞれの「生」を生きる。ただ、ふたりとも、自らが信じるものを信じ、愛するものへの想いを抱き続けたのだ。それは、信仰というよりはむしろ、祈りに近い感情だったのかもしれない。
津島佑子はもちろん太宰治の娘であり、実際に幼い息子を事故で亡くしている。津島文学の核である「父の不在」「喪(うしな)われた子」という主題はこの作品でも強く奏でられており、その張り裂けるような哀しみが文字の連なりからにじむ。
ふたつの小説が、ひとつの書店のなかで遠くない場所に置かれていることの奇跡をあらためて思う。
視点や書き口や主人公の在り方などは違うが、信仰の対象が何であるかということ以上に、何かを一心に信じることのつよさを、ふたりの作家は書きたかったのかもしれない。
ちょうど『ジャッカ・ドフニ』を読んだあと、偶然テレビのドキュメンタリー番組で「カムイ・ユカラ(アイヌ語で神の歌の意)」を耳にした。その澄んだ歌声は私が想像していた以上におおらかで、はるかな祈りとなって画面の奥、青空のかなたに消えていった。
http://www.asahi.com/and_w/articles/SDI2017022296941.html