NHK 2019年10月28日(月)午前11時20分 更新
「民族共生象徴空間」=ウポポイのオープンまであと半年。今回は、アイヌ民族とサケについて考えます。 「儀式に使うサケぐらいは自由に」というアイヌの人たちの願いの一方、サケ漁は今もなお、道の許可が必要な状態が続いています。先住民としてのサケ漁の権利をどうするのかは意見が分かれています。この問題、取材を進めると、十勝に興味深い史料が残されていました。記されていたのは明治初期の一時期、アイヌの人たちと入植してきた和人が協力し合ってサケ漁に取り組んでいた歴史でした。(2019年10月24日 放送)
【“神の魚” アイヌとサケ】
北海道は秋になると多くのサケが川に遡上してきます。アイヌの人たちにとって、サケは特別な存在です。アイヌ語でカムイチェプ「神の魚」とも呼ばれ、伝統の儀式にも使われてきました。かつてサケとともに暮らしていたアイヌの人たち。しかし、明治以降、自由に漁をすることはできなくなりました。その状況はことし5月にアイヌ民族を「先住民族」と明記した新たな法律「アイヌ施策推進法」が施行されても変わっていません。この現状について、元北海道ウタリ協会理事長の笹村二朗さんは、「法律で先住民族として認めたのだから、儀式に使うサケぐらい自由にとらせるべきじゃないのか」と話しています。
【アイヌと和人がともに…十勝組合】
アイヌの人たちが今では自由にとることができなくなっているサケ。しかし、かつて十勝では、アイヌと和人が協力しあってサケ漁に取り組んでいました。その場所は十勝川の河口に近い豊頃町大津。十勝開拓が始まった「十勝発祥の地」とされています。「北海道殖民状況報文 十勝国」という公文書には、当時の状況について、「『アイヌ』と共同して十勝組合を設く」「其名義は和人六名『アイヌ』七名なり」と記されています。明治8年に結成されたのがアイヌと和人による漁業組合「十勝組合」でした。組合は40か所以上の漁場を経営。その利益はアイヌと和人で分け合っていました。
【消えたアイヌのサケ漁】
しかし、こうした状況は長くは続きませんでした。政府が、多くの利益が出るサケ漁を和人にも広く認めるため、十勝組合は解散に追い込まれたのです。さらに明治16年には、資源保護を理由に十勝川でのサケ漁は禁止になりました。道内各地で行われていたアイヌのサケ漁はこの時期に消えていったのです。
【アイヌ社会を変えたサケ漁禁止】
突然、先住民としての権利を奪われたアイヌの人たち。生活の糧だったサケを失い、困窮を極めました。帯広市に当時の状況を伝える文書が残されていました。十勝に入植した開拓団「晩成社」の記録です。
幹部の日記には、「飢餓の状を見回る」「救助願をしたためまた米を与う」という記述がありました。道内各地のアイヌの集落が飢餓に苦しみ、死者も出たといいます。サケ漁の禁止は、狩猟や採集で暮らしてきたアイヌの社会を大きく変えることになります。アイヌの人たちは雇われて農作業などにあたるようになったのです。帯広百年記念館の大和田努学芸員は、「金銭で雇用されるような近代の体制に組み込まれていってしまった。元来はどこに行って何をとろうと自由な人たちだったが、いろいろ制限される中で伝統的な生活が難しくなっていった」と話しました。
【どうなるウポポイの展示】
「ウポポイ」の準備室では、これまで全道各地からアイヌに関する資料を収集してきました。しかし展示方法については「アイヌ民族の視点で」とされているものの、具体的な内容はまだ明らかになっていません。
先住民の権利に詳しい鹿児島純心女子大学の廣瀬健一郎准教授はウポポイの果たすべき役割について、「なによりもアイヌ民族と和人の関係の歴史を正確に発信する場であってほしい」と話しています。
歴史には多くの見方があり、アイヌの歴史をどのように記述するかは、先住民としての権利につながるだけにデリケートな問題です。しかし、ウポポイの完成を控えた今だからこそ、その議論をできるだけオープンにして、アイヌの歴史や先住民としての権利について認識を深めていくことが重要ではないでしょうか。
(帯広放送局 佐藤恭孝記者)
https://www.nhk.or.jp/sapporo/articles/slug-n0400a963673c?fbclid=IwAR27qRlhZN9RW8IQXCLS_ph-DOl4IZVocIjGBI4rg0pjLux3P9NtqrtJNb0
「民族共生象徴空間」=ウポポイのオープンまであと半年。今回は、アイヌ民族とサケについて考えます。 「儀式に使うサケぐらいは自由に」というアイヌの人たちの願いの一方、サケ漁は今もなお、道の許可が必要な状態が続いています。先住民としてのサケ漁の権利をどうするのかは意見が分かれています。この問題、取材を進めると、十勝に興味深い史料が残されていました。記されていたのは明治初期の一時期、アイヌの人たちと入植してきた和人が協力し合ってサケ漁に取り組んでいた歴史でした。(2019年10月24日 放送)
【“神の魚” アイヌとサケ】
北海道は秋になると多くのサケが川に遡上してきます。アイヌの人たちにとって、サケは特別な存在です。アイヌ語でカムイチェプ「神の魚」とも呼ばれ、伝統の儀式にも使われてきました。かつてサケとともに暮らしていたアイヌの人たち。しかし、明治以降、自由に漁をすることはできなくなりました。その状況はことし5月にアイヌ民族を「先住民族」と明記した新たな法律「アイヌ施策推進法」が施行されても変わっていません。この現状について、元北海道ウタリ協会理事長の笹村二朗さんは、「法律で先住民族として認めたのだから、儀式に使うサケぐらい自由にとらせるべきじゃないのか」と話しています。
【アイヌと和人がともに…十勝組合】
アイヌの人たちが今では自由にとることができなくなっているサケ。しかし、かつて十勝では、アイヌと和人が協力しあってサケ漁に取り組んでいました。その場所は十勝川の河口に近い豊頃町大津。十勝開拓が始まった「十勝発祥の地」とされています。「北海道殖民状況報文 十勝国」という公文書には、当時の状況について、「『アイヌ』と共同して十勝組合を設く」「其名義は和人六名『アイヌ』七名なり」と記されています。明治8年に結成されたのがアイヌと和人による漁業組合「十勝組合」でした。組合は40か所以上の漁場を経営。その利益はアイヌと和人で分け合っていました。
【消えたアイヌのサケ漁】
しかし、こうした状況は長くは続きませんでした。政府が、多くの利益が出るサケ漁を和人にも広く認めるため、十勝組合は解散に追い込まれたのです。さらに明治16年には、資源保護を理由に十勝川でのサケ漁は禁止になりました。道内各地で行われていたアイヌのサケ漁はこの時期に消えていったのです。
【アイヌ社会を変えたサケ漁禁止】
突然、先住民としての権利を奪われたアイヌの人たち。生活の糧だったサケを失い、困窮を極めました。帯広市に当時の状況を伝える文書が残されていました。十勝に入植した開拓団「晩成社」の記録です。
幹部の日記には、「飢餓の状を見回る」「救助願をしたためまた米を与う」という記述がありました。道内各地のアイヌの集落が飢餓に苦しみ、死者も出たといいます。サケ漁の禁止は、狩猟や採集で暮らしてきたアイヌの社会を大きく変えることになります。アイヌの人たちは雇われて農作業などにあたるようになったのです。帯広百年記念館の大和田努学芸員は、「金銭で雇用されるような近代の体制に組み込まれていってしまった。元来はどこに行って何をとろうと自由な人たちだったが、いろいろ制限される中で伝統的な生活が難しくなっていった」と話しました。
【どうなるウポポイの展示】
「ウポポイ」の準備室では、これまで全道各地からアイヌに関する資料を収集してきました。しかし展示方法については「アイヌ民族の視点で」とされているものの、具体的な内容はまだ明らかになっていません。
先住民の権利に詳しい鹿児島純心女子大学の廣瀬健一郎准教授はウポポイの果たすべき役割について、「なによりもアイヌ民族と和人の関係の歴史を正確に発信する場であってほしい」と話しています。
歴史には多くの見方があり、アイヌの歴史をどのように記述するかは、先住民としての権利につながるだけにデリケートな問題です。しかし、ウポポイの完成を控えた今だからこそ、その議論をできるだけオープンにして、アイヌの歴史や先住民としての権利について認識を深めていくことが重要ではないでしょうか。
(帯広放送局 佐藤恭孝記者)
https://www.nhk.or.jp/sapporo/articles/slug-n0400a963673c?fbclid=IwAR27qRlhZN9RW8IQXCLS_ph-DOl4IZVocIjGBI4rg0pjLux3P9NtqrtJNb0