北海道新聞07/02 05:00

知里真志保の母ナミの衣服(登別アイヌ協会蔵)=登別アイヌ協会提供
今年は、登別で生まれ東京で亡くなった知里幸恵(1903~22)の没後100年です。登別市には「知里幸恵 銀のしずく記念館」もありますし、「アイヌ神謡集」(岩波文庫)を遺(のこ)した彼女のことを知っている人は多いと思います。
旭川でキリスト教の伝道を行っていた伯母(母の姉)の金成マツ(1875~1961)と、祖母の金成モナシノウクとは、家庭の事情により6歳の時から一緒に暮らすことになります。3人の間ではアイヌ語で会話していた様子を、言語学者の金田一京助がエッセー「近文の一夜」に記しています。
幸恵には、高央(1907~65)と真志保(1909~61)という二人の弟がいました。高校の英語教諭となった高央にも、アイヌ語研究に関心があったことが金田一京助宛ての書簡からわかっています。
真志保は11歳の時に姉の幸恵がいる旭川に引っ越して同居しながら学校に通います。その後、北海道庁立室蘭中学校(現在の室蘭栄高校)、旧制第一高等学校、東京帝国大学と進学していきます。英語が得意で、単語を覚えるそばから辞典を食べていたのではないかと、うわさされたほどでした。旧制中学生だった18歳のころにはアイヌ語の説話をまとめて発表していますので、いずれにしても語学の才能があったようです。
大学院を経て、樺太庁豊原高等女学校教諭、北海道大学教授などを歴任しました。真志保がまとめた「分類アイヌ語辞典」や「地名アイヌ語小辞典」は、現在でも多くの人が活用している重要な文献です。
国立アイヌ民族博物館で始まった特別展示で、知里真志保の生涯と、彼が遺したアイヌ語やアイヌ文化に関する業績について、約200点の資料や映像から紹介しています。(文・田村将人=国立アイヌ民族博物館資料情報室長)
◇
第4回特別展示「CHIRI MASHIHO 知里真志保―アイヌ語研究にかけた熱意―」は、国立アイヌ民族博物館特別展示室で、8月21日まで開催されています。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/700858


知里真志保の母ナミの衣服(登別アイヌ協会蔵)=登別アイヌ協会提供
今年は、登別で生まれ東京で亡くなった知里幸恵(1903~22)の没後100年です。登別市には「知里幸恵 銀のしずく記念館」もありますし、「アイヌ神謡集」(岩波文庫)を遺(のこ)した彼女のことを知っている人は多いと思います。
旭川でキリスト教の伝道を行っていた伯母(母の姉)の金成マツ(1875~1961)と、祖母の金成モナシノウクとは、家庭の事情により6歳の時から一緒に暮らすことになります。3人の間ではアイヌ語で会話していた様子を、言語学者の金田一京助がエッセー「近文の一夜」に記しています。
幸恵には、高央(1907~65)と真志保(1909~61)という二人の弟がいました。高校の英語教諭となった高央にも、アイヌ語研究に関心があったことが金田一京助宛ての書簡からわかっています。
真志保は11歳の時に姉の幸恵がいる旭川に引っ越して同居しながら学校に通います。その後、北海道庁立室蘭中学校(現在の室蘭栄高校)、旧制第一高等学校、東京帝国大学と進学していきます。英語が得意で、単語を覚えるそばから辞典を食べていたのではないかと、うわさされたほどでした。旧制中学生だった18歳のころにはアイヌ語の説話をまとめて発表していますので、いずれにしても語学の才能があったようです。
大学院を経て、樺太庁豊原高等女学校教諭、北海道大学教授などを歴任しました。真志保がまとめた「分類アイヌ語辞典」や「地名アイヌ語小辞典」は、現在でも多くの人が活用している重要な文献です。
国立アイヌ民族博物館で始まった特別展示で、知里真志保の生涯と、彼が遺したアイヌ語やアイヌ文化に関する業績について、約200点の資料や映像から紹介しています。(文・田村将人=国立アイヌ民族博物館資料情報室長)
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第4回特別展示「CHIRI MASHIHO 知里真志保―アイヌ語研究にかけた熱意―」は、国立アイヌ民族博物館特別展示室で、8月21日まで開催されています。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/700858