北海道新聞07/11 05:00

学生時代の知里の写真と直筆のノートや原稿
登別で生まれ育った言語学者の知里真志保は、1930年(昭和5年)から40年にかけて東京で学生時代を過ごします。国立アイヌ民族博物館で開かれている特別展示では、学生時代の日記や、調査研究に使用したノート、著作物の原稿、地元を中心に収集した民具などがあり、当時の知里の調査研究の礎となった貴重な資料を多く展示しています。
知里は30年に旧制第一高等学校に合格し、上京します。33年に東京帝国大学に、37年には同大学院に進学しました。展示パネルでは学生時代の知里の写真を紹介しています。大学院在籍中には、金田一京助が企画した国語辞典「辞海」の編集のために、大学院に籍を置きながら三省堂にも勤務していました。
知里はこの頃に多くの民俗学者と出会い、自身の研究への想(おも)いを深めるようになります。37年刊行の「アイヌ民譚集」に、アイヌ自身の視点でアイヌ文化を研究することの重要性について記しており、実際に地元の幌別(現在の登別市)を中心としたアイヌ文化やアイヌ語研究に本格的に取り組んでいます。知里がまとめたアイヌの説話は、「ドルメン」などの雑誌に投稿されていますが、今回出品した直筆のノートや原稿は、これらの元となった資料です。
知里はアイヌの説話だけでなく、民具の収集も行っていました。知里は、渋沢栄一の孫で民俗学者であり実業家でもある渋沢敬三が設立した「アチック・ミューゼアム」にアイヌ民具を36点寄贈しています。寄贈時期は34~36年で、ちょうど渋沢と出会ったころになります。ちなみに、寄贈した資料の中にはかんじきがあり、知里が執筆しアチック・ミューゼアムから出版された「アイヌ民俗研究資料1」には、動物の脚をかんじきに見立てた説話が収録されています。
特別展示「CHIRI MASHIHO 知里真志保―アイヌ語研究にかけた熱意―」(8月21日まで)の第2章では、1930年から40年は知里がアイヌ語研究を行うことに意義を感じ、同時に自身がその研究を担うという決意をした時期であると紹介しています。(文・写真 赤田昌倫=国立アイヌ民族博物館研究交流室研究員)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/704021


学生時代の知里の写真と直筆のノートや原稿
登別で生まれ育った言語学者の知里真志保は、1930年(昭和5年)から40年にかけて東京で学生時代を過ごします。国立アイヌ民族博物館で開かれている特別展示では、学生時代の日記や、調査研究に使用したノート、著作物の原稿、地元を中心に収集した民具などがあり、当時の知里の調査研究の礎となった貴重な資料を多く展示しています。
知里は30年に旧制第一高等学校に合格し、上京します。33年に東京帝国大学に、37年には同大学院に進学しました。展示パネルでは学生時代の知里の写真を紹介しています。大学院在籍中には、金田一京助が企画した国語辞典「辞海」の編集のために、大学院に籍を置きながら三省堂にも勤務していました。
知里はこの頃に多くの民俗学者と出会い、自身の研究への想(おも)いを深めるようになります。37年刊行の「アイヌ民譚集」に、アイヌ自身の視点でアイヌ文化を研究することの重要性について記しており、実際に地元の幌別(現在の登別市)を中心としたアイヌ文化やアイヌ語研究に本格的に取り組んでいます。知里がまとめたアイヌの説話は、「ドルメン」などの雑誌に投稿されていますが、今回出品した直筆のノートや原稿は、これらの元となった資料です。
知里はアイヌの説話だけでなく、民具の収集も行っていました。知里は、渋沢栄一の孫で民俗学者であり実業家でもある渋沢敬三が設立した「アチック・ミューゼアム」にアイヌ民具を36点寄贈しています。寄贈時期は34~36年で、ちょうど渋沢と出会ったころになります。ちなみに、寄贈した資料の中にはかんじきがあり、知里が執筆しアチック・ミューゼアムから出版された「アイヌ民俗研究資料1」には、動物の脚をかんじきに見立てた説話が収録されています。
特別展示「CHIRI MASHIHO 知里真志保―アイヌ語研究にかけた熱意―」(8月21日まで)の第2章では、1930年から40年は知里がアイヌ語研究を行うことに意義を感じ、同時に自身がその研究を担うという決意をした時期であると紹介しています。(文・写真 赤田昌倫=国立アイヌ民族博物館研究交流室研究員)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/704021