ニューズウィーク2022年07月29日(金)17時15分


撮影は、標高5000メートル以上のアンデス高地で行われた。オスカル・カタコラ監督『アンデス、ふたりぼっち』
<雄大なアンデス高地を舞台に、アイマラ族の老夫婦が営む伝統的な生活と彼らが直面する過酷な現実が描き出される>
ペルー映画で初めて全編アイマラ語で制作されたオスカル・カタコラ監督の長編デビュー作『アンデス、ふたりぼっち』では、雄大なアンデス高地を舞台に、アイマラ族の老夫婦が営む伝統的な生活と彼らが直面する過酷な現実が描き出される。カタコラ監督が2021年11月、2作目の撮影中に早世したため、本作は彼のデビュー作にして遺作となる。
その題材になるアイマラ族については、いくらか説明が必要になるだろう。本作を観て筆者が思い出したのは、だいぶ前に読んだ山本紀夫編『アンデス高地』のことだ。そこには、アイマラ族のことも紹介されていた。
アンデスの先住民も、かつてスペイン人の侵入と彼らが持ち込んだ疫病によって壊滅的な打撃を受けたが、アンデス高地には現在にいたるまで多くの先住民が暮らしている。
「とくに、ペルー南部からボリビアにかけての高地部では今も住民の大半が先住民である。たとえば、ペルーやボリビアの渓谷地帯を中心とする山岳地帯には一般に「インカの末裔」として知られるケチュア族が多く、その人口は数百万に達するとされる。また、ティティカカ湖畔周辺の高原地帯には、インカ時代も最後まで征服を拒み、現在もアイマラ語を話す一〇〇万人以上のアイマラ族が暮らしている」
カタコラ監督もアイマラ族の出身
カタコラ監督もアイマラ族の出身で、彼が幼少期に標高4500メートルのプーノ地方の高地で、父方の祖父母と過ごした日々が、本作のもとになっているという。本作の登場人物は、その祖父母をモデルにしたウィルカとパクシのふたりだけだ。
ウィルカをカタコラの母方の祖父が、パクシを友人が紹介してくれた女性ローサ・ニーナが演じている。ちなみに彼女は映画を観たこともなく、「何のことかよく分からないが、協力します」と言って出演を了承したという。撮影は、標高5000メートル以上のプーノ県マクサニ地区で行われた。
ウィルカとパクシは、高地にぽつんと建つ家に、数匹の羊と羊を守る老犬、荷物を運ぶリャマと暮らしている。ふたりにはアントゥクという息子がいるが、都会に出ていったまま音信が途絶えている。
前掲書には、アイマラ族が「一年という時の流れの中で自然の周期に見あったいろいろな儀礼をおこなっている」とあるが、本作の前半部は、そんな儀礼を意識した構成になっている。物語は、ウィルカとパクシが祭りを行う場面から始まり、毎年繰り返されてきたであろう農作業が描かれ、新年を迎えるもうひとつの祭りが大きな分岐点となる。
老夫婦が最初に行う祭りは、前掲書の以下の記述と符合する。
「家畜の囲い場の中で執りおこなわれる祭りである。この祭りでは、いろいろな色の花々でヒツジを飾りつける。同時にいろいろな色の花々を地面にまきちらしていく。母なる大地『パチャママ』が、あふれんばかりの命と水を、そして、家畜の繁殖と繁栄をもたらしてくれるように祈りをささげる」
彼らが暮らす高地では、寒さのせいでトウモロコシは栽培できないので、寒冷地に適したじゃがいもやキヌアを育てている。ウィルカは、野天に放置してあったじゃがいもを集めて小山にし、それを足で踏んで水分を抜き、チューニョと呼ばれる乾燥じゃがいもをつくる。収穫したキヌアは、吹き抜ける風で脱穀する。風が止むと手を休め、パクシが風に呼びかけるとまた吹き出し、作業を再開する。
新年を迎える祭りでは、聖なる大地や山の神々、先祖たちに供物を捧げ、「新しい年も我々と我々の作物や家畜をお守りください」と祈る。そこでウィルカは自分たちの運勢を占ってみるが、不吉なメッセージを受け取る。彼は、「今年は不幸が起こり、死が私たちにはりついているそうだ」と語る。
それが先述した大きな分岐点であり、老夫婦が営む伝統的な生活は、連鎖反応を起こすように崩壊へと向かっていく。但し、彼らの置かれた状況が急に変化してそれが起こるわけではなく、兆しは前半から見え隠れしていた。
外から持ち込まれたものによって変化する
じゃがいもを足で踏むウィルカは、ひどく疲れたと漏らす。息子が戻ってくれば、無理をせずにすむはずだが、パクシはかつて息子から、「アイマラ語を話すのは恥ずかしい」と言われたことを思い出す。そんなやりとりからは、カタコラ監督のメッセージを読みとることができるが、そんな台詞や言葉に頼らなくても、アイマラ族に対する彼の想いはひしひしと伝わってくる。
たとえば、ウィルカとパクシが行う祭りだ。本作の原題"WIÑAYPACHA"は「永遠」を意味するが、それと儀礼は無関係ではないだろう。儀礼は生活が続く限り永遠に繰り返されていくが、老夫婦には祭りを継承する者がいない。彼らが家畜の繁殖や繁栄を祈っても、やがて世話をすることができなくなる。家畜を守っているのも老犬で、代わりはいない。
また、彼らの生活もすべてが昔のままというわけではなく、外から持ち込まれたものによって変化している。それがマッチだ。本作で、パクシがかまどに火を入れたり、ランプに火を灯すためにマッチをする様子が印象に残るのは偶然ではないだろう。カタコラ監督は、マッチを「グローバリゼーションの産物」と表現している。
本作では、そのマッチが崩壊のきっかけとなる。パクシはマッチを使い切る。マッチを手に入れるためには遠く離れた村まで行かなければならないが、足腰が弱ってきたウィルカは躊躇する。それでも村に向かうが、たどり着けずに倒れてしまい、そこから老夫婦は次々と悲劇に見舞われていく。
では、これは悲劇なのかといえば、おそらくそうではない。高地に暮らすアイマラ族は、生きるために必要なものをすべて失っても、還るべき場所があり、それが示されることでアイデンティティが鮮明になる。都会に出ていった息子は、言葉だけでなく、還るべき場所を失ったともいえる。
本作は、アイマラ族の伝統的な生活と彼らが直面する問題を描きながら、いつしかリアリズムを超えて神話的な物語に見えてくるところに大きな魅力がある。
『アンデス、ふたりぼっち』予告編
https://www.newsweekjapan.jp/ooba/2022/07/post-109.php