北海道新聞07/17 17:30 更新
登別川のほとり、住宅地を抜けた森のなかに「知里幸恵 銀のしずく記念館」はある。ここは「銀の滴降る降るまわりに…」の一節で知られる「アイヌ神謡集」の著者、知里幸恵(1903~22年)の生地だ。

19歳で夭逝(ようせい)した明治・大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(手前左)の歩みをたどる「知里幸恵 銀のしずく記念館」(植村佳弘撮影) 幸恵は6年間を登別で過ごし、アイヌ語話者の祖母モナシノウクから壮大なカムイユカラ(神謡)を聞いて育った。6歳で旭川へ移り、アイヌ語を探究していた言語学者の金田一京助と15歳で出会って、ユカラ(口承文芸)の研究に一生をささげると決めた。
アイヌ神謡集の出版のため、病を押して18歳で上京した幸恵は校正を終えた日の夜、永眠する。19歳だった。直前に著し、神謡集の序文にあたる「序」には、近代化でアイヌ民族の暮らしや言葉が失われていく悲しみと、アイヌの物語を伝え残したいという強い思いがにじむ。
幸恵の遺志はやがて、めいの横山むつみさん(故人)に引き継がれる。横山さんは2002年に草の根の募金を始め、8年後、登別市登別本町に銀のしずく記念館を建てた。胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の開業よりも10年早い。
初代館長となる横山さんと手を携え、ボランティアが運営する記念館の設立に尽力した北大名誉教授の小野有五さん(74)は言う。「建ってからも記念館が草の根の活動を貫いているのは、幸恵の生涯に共感し、心を寄せた人たちの手でアイヌ文化を継承したいと思うからなのです」
アイヌ神謡集の序は、記念館の呼びかけに応じるなどした人たちによって英語やフランス語、ヒンディー語など31の言語に翻訳された。そのなかには、自らの言葉や文化が近代化で失われつつある先住民族もいる。
幸恵が亡くなって今年で100年になる。その願いと思いは記念館に宿り、時を超えて語り継がれている。
■生きた証し 豊富な史料で
(写真説明)胆振管内白老町の木彫家能登康昭さんが制作した、高さ140センチほどの幸恵の等身大の木像。2010年の「銀のしずく記念館」の開館を祝って寄贈された。能登さんはアイヌ神謡集の「序」を読み、生涯をかけてアイヌ文化の継承に尽くした幸恵に強く共感。旧アイヌ民族博物館から譲り受けた丸木舟用のセンノキの廃材を用いた。着物や帯の精巧さ、思慮深く表現された瞳が特徴で、10カ月の制作期間の半分以上を顔に費やしたという。
(写真説明)自然豊かな北海道とアイヌをたたえた「序」から始まり、壮大な物語13編を収めた「アイヌ神謡集」の初版本は125ページの文庫本サイズで1923年(大正12年)、東京の郷土研究社から刊行された。言語学者の金田一京助、民俗学者の柳田国男、実業家の渋沢敬三の後押しを受けた。ユカラ(口承文芸)の研究に身をささげると決めた幸恵は神謡集の編集のため、18歳で金田一京助を頼って上京する。「私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを、書かねばならぬ」(22年6月1日)と日記にしたため、その3カ月後の9月18日、校正を終えた日の夜に亡くなった。
「知里幸恵 銀のしずく記念館」は延べ約2500人からの寄付3200万円により2010年に誕生した。NPO法人知里森舎(ちりしんしゃ)が営み、登別や室蘭から手弁当で通うスタッフが幸恵の思いや人となりを伝えている。
黄色い壁に覆われた木造2階建ての外観は、アイヌ民族の伝統的家屋「チセ」がモチーフになっている。登別に近い室蘭工業大で学んだ建築士、小倉雅美さん(札幌市)らが手掛けた。
延べ178平方メートルの小さな記念館には、アイヌ神謡集の初版本、口承文芸のカムイユカラ(神謡)をローマ字で書きとめたノートの復刻版のほか、幸恵が金田一京助や両親に宛てた手紙、幼いころの写真など、幸恵の声が聞こえてきそうなゆかりの品も合わせて100点以上が収められている。
6月下旬、檜山管内今金町から訪れた下田屋(しもたや)守さん(61)は幸恵の手紙をじっと眺めていた。「ひとりの少女が、たしかに生きていたんだと感じられます」。幸恵の弟でアイヌ語学者だった知里真志保、幸恵の遺志を継いでアイヌ文化の継承に尽くした伯母金成マツらも館内で紹介されている。
記念館が建つ森には幸恵の生家跡があって、樹齢100年を超えるクリ、イチイの大木など約150種の植物が茂る。いくつかの木にはアイヌ語と和名を併記した札が添えられている。記念館に入ってすぐの大きな窓からも見えるその森は、幸恵の生きた世界とアイヌ民族の暮らしの豊かさを教えてくれる。
(写真説明)記念館の窓から望む「知里森舎の森」には約150種類の植物が育ち、幸恵の生家がある。オヒョウやギョウジャニンニクなどアイヌ民族が親しんだ植物のほか、エゾリスや鳥、シカなど野生動物も顔を見せる。造園業を起こした幸恵の父高吉が植えた本州原産の樹木もある。森と記念館は不可分の存在で、自然と生きたアイヌ文化を知るための森のフィールドワークも行われている。
(写真説明)幸恵の肖像が飾られた記念館の一角には、ときおり光の滴が降り注ぐ。高窓に対面する壁に丸い反射シールを張り、しずくの形に光を落とす。「アイヌ神謡集」の一節の「銀の滴降る降るまわりに」をイメージした仕掛けで、季節や時間によって出現するタイミングはまちまち。スタッフは「光のしずく」と呼んでいる。10~12月の午前中が見ごろ。
◇ 「知里幸恵 銀のしずく記念館」の3代目館長で幸恵の親類にあたる木原仁美さん(47)と、記念館を運営するNPO法人知里森舎理事長の松本徹さん(68)に幸恵の魅力やアイヌ民族の文化を残す決意、記念館を支える人たちの思いを聞いた。
■アイヌ文化広く発信 銀のしずく記念館館長・木原仁美さん >
登別に生まれ、東京で育った私は、銀のしずく記念館の初代館長で母親の横山むつみ(故人)に連れられて6歳から関東ウタリ会(東京)の集まりに参加していたので、自分がアイヌ民族であることは当たり前の感覚でした。
母が2016年に亡くなり、ともに記念館の設立に尽力した父も19年に他界しました。両親がいなくなった記念館は「支え」を失ってしまうのではないかと心配していましたが、運営するNPO法人知里森舎側から3代目館長になることを勧められ、「できることをやろう」と決めました。
アイヌ文化の振興は、アイヌ民族自身が関わることが理想です。知里幸恵のめいの娘の私が記念館の館長になることで活動に説得力が生まれるでしょう。ただ、私は幸恵さんについてまだまだ知らないことも多く、懸命に勉強中です。
近年は人気漫画やアニメの影響もあって、アイヌ民族や文化について前向きなイメージをもつ人が増えており、アイヌ民族も自信を取り戻しています。実物史料が豊富な記念館を訪れてもらったり、私たちが記念館の魅力を発信したりすることで、アイヌ文化に興味を持つ人をもっと増やしたいですね。
<略歴>きはら・ひとみ 1974年、登別市生まれ、東京育ち。専修大を卒業してアイヌ文化交流センター(東京)に勤め、2016年からセンター所長代理。今年5月、所長代理との兼任で銀のしずく記念館長に就任した。
■担い手の輪、血縁越え NPO法人知里森舎理事長・松本徹さん
口承で受け継がれた13編のカムイユカラ(神謡)をローマ字で記し、日本語に訳した「アイヌ神謡集」は、知里幸恵さんの才能を見いだした言語学者の金田一京助氏が「とこしえ(永久)の宝玉である」と表現したように、アイヌ語話者が残した最良のテキストとして評価されています。
神謡集の「序」のなかで幸恵さんは、アイヌ文化の次なる担い手が現れることを望んでいます。幸恵さんは19歳で亡くなりましたが、伯母の金成マツ、幸恵さんの2人の弟高央(たかなか)と真志保が思いを継いでアイヌ語の伝承や研究に力を注ぎます。高央の娘の横山むつみさん(故人)が銀のしずく記念館を開き、その娘の木原仁美さんが今年5月、3代目の館長に就きました。
幸恵さんの思いに共感する人たちは血縁者にはとどまりません。記念館を運営する知里森舎は50人の、「銀のしずく記念館 友の会」は600人のそれぞれ会員がいます。2代目館長の金崎重弥さん(77)もその一人です。
私も11年から記念館にかかわっています。心の芯から興味深い、すてきだと思える魅力がアイヌ文化にはあるから、活動が続くのだと思います。(渡辺愛梨、高木乃梨子)
<略歴>まつもと・とおる 1954年、登別市生まれ。弘前大を卒業後、高校の社会科教諭となり、登別や室蘭などで勤務。2011年から記念館の活動に携わる。22年5月から現職。
◆「カムイユカラ」のラは小さい字

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/706882
登別川のほとり、住宅地を抜けた森のなかに「知里幸恵 銀のしずく記念館」はある。ここは「銀の滴降る降るまわりに…」の一節で知られる「アイヌ神謡集」の著者、知里幸恵(1903~22年)の生地だ。


19歳で夭逝(ようせい)した明治・大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(手前左)の歩みをたどる「知里幸恵 銀のしずく記念館」(植村佳弘撮影) 幸恵は6年間を登別で過ごし、アイヌ語話者の祖母モナシノウクから壮大なカムイユカラ(神謡)を聞いて育った。6歳で旭川へ移り、アイヌ語を探究していた言語学者の金田一京助と15歳で出会って、ユカラ(口承文芸)の研究に一生をささげると決めた。
アイヌ神謡集の出版のため、病を押して18歳で上京した幸恵は校正を終えた日の夜、永眠する。19歳だった。直前に著し、神謡集の序文にあたる「序」には、近代化でアイヌ民族の暮らしや言葉が失われていく悲しみと、アイヌの物語を伝え残したいという強い思いがにじむ。
幸恵の遺志はやがて、めいの横山むつみさん(故人)に引き継がれる。横山さんは2002年に草の根の募金を始め、8年後、登別市登別本町に銀のしずく記念館を建てた。胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の開業よりも10年早い。
初代館長となる横山さんと手を携え、ボランティアが運営する記念館の設立に尽力した北大名誉教授の小野有五さん(74)は言う。「建ってからも記念館が草の根の活動を貫いているのは、幸恵の生涯に共感し、心を寄せた人たちの手でアイヌ文化を継承したいと思うからなのです」
アイヌ神謡集の序は、記念館の呼びかけに応じるなどした人たちによって英語やフランス語、ヒンディー語など31の言語に翻訳された。そのなかには、自らの言葉や文化が近代化で失われつつある先住民族もいる。
幸恵が亡くなって今年で100年になる。その願いと思いは記念館に宿り、時を超えて語り継がれている。
■生きた証し 豊富な史料で
(写真説明)胆振管内白老町の木彫家能登康昭さんが制作した、高さ140センチほどの幸恵の等身大の木像。2010年の「銀のしずく記念館」の開館を祝って寄贈された。能登さんはアイヌ神謡集の「序」を読み、生涯をかけてアイヌ文化の継承に尽くした幸恵に強く共感。旧アイヌ民族博物館から譲り受けた丸木舟用のセンノキの廃材を用いた。着物や帯の精巧さ、思慮深く表現された瞳が特徴で、10カ月の制作期間の半分以上を顔に費やしたという。
(写真説明)自然豊かな北海道とアイヌをたたえた「序」から始まり、壮大な物語13編を収めた「アイヌ神謡集」の初版本は125ページの文庫本サイズで1923年(大正12年)、東京の郷土研究社から刊行された。言語学者の金田一京助、民俗学者の柳田国男、実業家の渋沢敬三の後押しを受けた。ユカラ(口承文芸)の研究に身をささげると決めた幸恵は神謡集の編集のため、18歳で金田一京助を頼って上京する。「私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを、書かねばならぬ」(22年6月1日)と日記にしたため、その3カ月後の9月18日、校正を終えた日の夜に亡くなった。
「知里幸恵 銀のしずく記念館」は延べ約2500人からの寄付3200万円により2010年に誕生した。NPO法人知里森舎(ちりしんしゃ)が営み、登別や室蘭から手弁当で通うスタッフが幸恵の思いや人となりを伝えている。
黄色い壁に覆われた木造2階建ての外観は、アイヌ民族の伝統的家屋「チセ」がモチーフになっている。登別に近い室蘭工業大で学んだ建築士、小倉雅美さん(札幌市)らが手掛けた。
延べ178平方メートルの小さな記念館には、アイヌ神謡集の初版本、口承文芸のカムイユカラ(神謡)をローマ字で書きとめたノートの復刻版のほか、幸恵が金田一京助や両親に宛てた手紙、幼いころの写真など、幸恵の声が聞こえてきそうなゆかりの品も合わせて100点以上が収められている。
6月下旬、檜山管内今金町から訪れた下田屋(しもたや)守さん(61)は幸恵の手紙をじっと眺めていた。「ひとりの少女が、たしかに生きていたんだと感じられます」。幸恵の弟でアイヌ語学者だった知里真志保、幸恵の遺志を継いでアイヌ文化の継承に尽くした伯母金成マツらも館内で紹介されている。
記念館が建つ森には幸恵の生家跡があって、樹齢100年を超えるクリ、イチイの大木など約150種の植物が茂る。いくつかの木にはアイヌ語と和名を併記した札が添えられている。記念館に入ってすぐの大きな窓からも見えるその森は、幸恵の生きた世界とアイヌ民族の暮らしの豊かさを教えてくれる。
(写真説明)記念館の窓から望む「知里森舎の森」には約150種類の植物が育ち、幸恵の生家がある。オヒョウやギョウジャニンニクなどアイヌ民族が親しんだ植物のほか、エゾリスや鳥、シカなど野生動物も顔を見せる。造園業を起こした幸恵の父高吉が植えた本州原産の樹木もある。森と記念館は不可分の存在で、自然と生きたアイヌ文化を知るための森のフィールドワークも行われている。
(写真説明)幸恵の肖像が飾られた記念館の一角には、ときおり光の滴が降り注ぐ。高窓に対面する壁に丸い反射シールを張り、しずくの形に光を落とす。「アイヌ神謡集」の一節の「銀の滴降る降るまわりに」をイメージした仕掛けで、季節や時間によって出現するタイミングはまちまち。スタッフは「光のしずく」と呼んでいる。10~12月の午前中が見ごろ。
◇ 「知里幸恵 銀のしずく記念館」の3代目館長で幸恵の親類にあたる木原仁美さん(47)と、記念館を運営するNPO法人知里森舎理事長の松本徹さん(68)に幸恵の魅力やアイヌ民族の文化を残す決意、記念館を支える人たちの思いを聞いた。
■アイヌ文化広く発信 銀のしずく記念館館長・木原仁美さん >
登別に生まれ、東京で育った私は、銀のしずく記念館の初代館長で母親の横山むつみ(故人)に連れられて6歳から関東ウタリ会(東京)の集まりに参加していたので、自分がアイヌ民族であることは当たり前の感覚でした。
母が2016年に亡くなり、ともに記念館の設立に尽力した父も19年に他界しました。両親がいなくなった記念館は「支え」を失ってしまうのではないかと心配していましたが、運営するNPO法人知里森舎側から3代目館長になることを勧められ、「できることをやろう」と決めました。
アイヌ文化の振興は、アイヌ民族自身が関わることが理想です。知里幸恵のめいの娘の私が記念館の館長になることで活動に説得力が生まれるでしょう。ただ、私は幸恵さんについてまだまだ知らないことも多く、懸命に勉強中です。
近年は人気漫画やアニメの影響もあって、アイヌ民族や文化について前向きなイメージをもつ人が増えており、アイヌ民族も自信を取り戻しています。実物史料が豊富な記念館を訪れてもらったり、私たちが記念館の魅力を発信したりすることで、アイヌ文化に興味を持つ人をもっと増やしたいですね。
<略歴>きはら・ひとみ 1974年、登別市生まれ、東京育ち。専修大を卒業してアイヌ文化交流センター(東京)に勤め、2016年からセンター所長代理。今年5月、所長代理との兼任で銀のしずく記念館長に就任した。
■担い手の輪、血縁越え NPO法人知里森舎理事長・松本徹さん
口承で受け継がれた13編のカムイユカラ(神謡)をローマ字で記し、日本語に訳した「アイヌ神謡集」は、知里幸恵さんの才能を見いだした言語学者の金田一京助氏が「とこしえ(永久)の宝玉である」と表現したように、アイヌ語話者が残した最良のテキストとして評価されています。
神謡集の「序」のなかで幸恵さんは、アイヌ文化の次なる担い手が現れることを望んでいます。幸恵さんは19歳で亡くなりましたが、伯母の金成マツ、幸恵さんの2人の弟高央(たかなか)と真志保が思いを継いでアイヌ語の伝承や研究に力を注ぎます。高央の娘の横山むつみさん(故人)が銀のしずく記念館を開き、その娘の木原仁美さんが今年5月、3代目の館長に就きました。
幸恵さんの思いに共感する人たちは血縁者にはとどまりません。記念館を運営する知里森舎は50人の、「銀のしずく記念館 友の会」は600人のそれぞれ会員がいます。2代目館長の金崎重弥さん(77)もその一人です。
私も11年から記念館にかかわっています。心の芯から興味深い、すてきだと思える魅力がアイヌ文化にはあるから、活動が続くのだと思います。(渡辺愛梨、高木乃梨子)
<略歴>まつもと・とおる 1954年、登別市生まれ。弘前大を卒業後、高校の社会科教諭となり、登別や室蘭などで勤務。2011年から記念館の活動に携わる。22年5月から現職。
◆「カムイユカラ」のラは小さい字

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/706882