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ニュージーランド公立小の"自由で刺激的"な日常 移民大国で根付く「ダイバーシティ教育」の実際

2025-01-11 | 先住民族関連

 

東洋経済2025/01/10 08:00

ニュージーランド公立小の"自由で刺激的"な日常

(東洋経済オンライン)

いま、子どもたちの教育現場では、暗記偏重の「勉強」が敬遠され、「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)にみられるような「学び」という言葉が積極的に取り入れられています。しかし、現代社会で使われる「学び」を大人たちはどこまで理解し、実践しているのか。勉強が役に立たないというのは本当なのかーー。

教育者であり、福岡で学習塾を経営する鳥羽和久さんの新著『「学び」がわからなくなったときに読む本』は、「学び」という言葉への疑わしさの感覚を出発点に、本来の「学び」を自らの手に取り戻すためにどのような取り組みが有効なのか、そのことを知るために、学びの現場にいる人たちに話を聞きにいった、その対話の記録です。

同書から一部を抜粋、編集し3回に分けてお届けします。

2回目となる今回は、芸術学者の平倉圭さんとの対談です。

前回記事『「暗記勉強は無意味」では全くないと断言できる訳』

ニュージーランド公教育の現場から

鳥羽:平倉さんに直接お目にかかりたくて、単身でニュージーランドまでやってきました。

平倉:はるばる来てくださってありがとうございます。正直、びっくりしました。

鳥羽:横浜の大学で芸術論を教えていた平倉さんですが、いまはサバティカルでウェリントンにいらっしゃると知って。いやー、遠いなぁと思ったのですが、やはり平倉さんとは面と向かってお会いしないと、というか、からだを向き合わせて喋らないと対談の意味が薄まってしまうような気がしたんです。これは、平倉さんのこれまでのお仕事に対する僕なりの1つの答えです。

今朝、平倉さんのお子さんたちが通ってる小学校を見学させていただきましたね。とても刺激を受けました。硬直化したカリキュラムではなく、自由度の高いフレキシブルな学習をしているのがすぐに感じられました。

さらに、自由でありながらも、子どもたちに伝えるべきことはちゃんと伝えるぞ、という先生たちの気概も同時に感じられました。実際にお子さんを通わせて、こちらの学校にどんな印象を抱きましたか?

平倉:子どもたちは地元の公立校に通っているのですが、とにかく自由でリラックスしています。教室では、床に座っても椅子に座ってもいい。靴を履いていても履かなくてもいい。先生たちもくつろいでいて、子どもにも保護者にも気さくです。決まった教科書はなく、子どもたちは先生が用意する課題や実践をきっかけに、各自のペースと興味関心に沿って探究を広げていく。その自由さがいいなと思いました。

子どもたちはこちらの学校を気に入っていて、日本に戻れるか心配なくらいです。先生は1つの教室に2、3人体制で、子どもたちと一緒に活動することもあれば、教室の隅にいて、必要なときだけサポートをすることもあります。

1クラス複数体制

鳥羽:先生たちはあくまでも補助なんですね。それにしても、1クラスに複数の先生が常駐しているのは贅沢です。

平倉:そうですね。子どもたちが通っている小学校は、少人数ということもあって2学年で1クラスになっています。さっき小学校を訪問した際に、鳥羽さんが校長先生に質問されましたよね。「自由に育てている分、リスクも生じると思うけど、自由とリスクのバランスはどうやって取っていますか?」と。それも「1クラス複数体制」につながる話でした。

鳥羽:それは、自由にはリスクが付きものだから、先生が1クラスに複数いることで安全が担保され、そのおかげで自由な空間が実現できている、という意味でしょうか。

平倉:ええ。規律で管理せずに子どもの自由にさせる──と言葉で言うのは簡単ですが、とりわけ低学年では、自由は思いがけない危険と隣り合わせになる。

鳥羽:このときに校長先生が「すべては予算の問題なんだ」と、はっきりおっしゃっていたのが印象的でした。

生きた環境に触れる授業

平倉:先生を複数つけられるのも、実験的な教室空間をつくれるのも、あくまで予算があってのこと。ちょうど、これから学校の教育方針を教育省に伝えて予算を取りに行くところだ、と話されてましたね。

鳥羽:ニュージーランドでは、校長の裁量が大きく認められているんですか。

平倉:そのようです。教育省が設定した目標を、各学校がそれぞれの仕方で解釈してカリキュラムを組む。同じ公立校でも、もっと整然と配置された机に向かって勉強するところもあり、学校ごとに異なる個性があります。それは各学校の伝統であると同時に、地域の特徴も反映している。地域の平均的な経済水準や、エスニシティー(民族)構成によって、学校の特色は変わってきます。私の子どもたちが通っている学校では、生徒の多様性と、カリキュラムの柔軟性・横断性に大きな特色があります。

鳥羽:具体的にはどんな授業が行われているんですか。

平倉:授業については、子どもたちの話を通して断片的に知るだけなのですが──印象的だったものにこんな授業がありました。

低学年の移民生徒向けの英語の授業で、ニュージーランド固有種の鳥についての本を読んでいたとき、先生が教室から中庭に出て、鳴き真似を始めたそうです。すると実際にその鳥が飛んできたんです! 子どもたちはそこで、言葉の勉強から、生き物の観察へと連続的に移行します。本に書かれていた言葉が、生きた世界のなかで命を得る。

さらに授業を重ねると、ニュージーランド固有の生態系とそれを生んだ地理、島にやってきた人と人が連れてきた哺乳類によって生態系が破壊されていること、先住民マオリにとっての鳥の重要性などへと学習が広がっていきます。生きた環境に触れながら、言語・生物・地理・歴史・文化など、特定の教科にとどまらない学びの場がつくられている。

高学年になると、ガーデニング(園芸)とビーキーピング(養蜂)が中心的なプロジェクトになります。学校に隣接した畑で野菜を育て、収穫して調理する。巣箱でミツバチを育ててハチミツを採り、ラベルをデザインして販売する。ここでも生きた環境のなかで、複数の教科にまたがる実践が行われています。

子どもたちは自分たちで試し、観察し仮説を立て、またDIY精神に富んだ地域の大人たちから技を学び、成長していく。どの場面でも、大人も子どもたちもリラックスしていて、とにかく楽しそうなんですよ。もう一つ大きな特徴を挙げるとすれば、学校の理念に「どうやってレイシズム(人種主義)を乗り越えるか」という視点が入っていることです。

鳥羽:それはすごいな。日本ではなかなか考えられないことですね。

平倉:ニュージーランドは移民大国なので、当然生徒にも移民ルーツの子が多い。私の子たちの通う小学校では、40カ国くらいの異なるルーツの子が集まっています。それぞれ異なる文化で育ち、いろんなバイアスを持っている。学校では、そのバイアスを頭ごなしに否定するんじゃなくて、互いのバイアスを持ち寄り比べてみようと。そういう機会がカリキュラムに組み込まれています。私たちも移民として来ているので、1年間だけですが、そういう環境で学べるのはラッキーですね。

問題は具体的な予算と人員

鳥羽:本当にいい経験になりますね。日本では多様性(ダイバーシティ)という言葉が実質をともなっていません。この言葉は、いまや中学公民の教科書にも太字で載っていますが、子どもたちだけでなく、教える側の大人さえも、その言葉の本体のようなものがわからないままに多用している。多様性というのは混沌とした収まりがつかないものなのに、それが単なるイマどきの言葉として消費されている。

それに比べて、この地でダイバーシティ教育が根付いていることは羨ましいし、子どもたちにとってはシンプルに刺激的だろうなと想像します。

平倉:先ほどの予算の話にもつながりますが、ダイバーシティの実現のためにも予算が必要です。多様性という言葉には、国籍や民族的ルーツだけでなく、個々人の心身のさまざまな特性も含まれます。

例えば、授業中にバーッと外に飛び出していってしまうような落ち着きのない子が、同じ空間で学ぶためにはどうすればいいか。そのためには専門のスタッフをつけるしかないわけで、そこにもお金がかかる。ダイバーシティの実現も絵空ごとじゃなくて、具体的な予算と人員の話になるんです。

鳥羽:なるほど。そういったリアリティがニュージーランドでは感じられます。実際にやるためにはまずは予算なのだ、というプラクティカルな話になるところが非常に頼もしいです。

なぜ入学式で「カパ・ハカ」を踊るのか

鳥羽:今日は公立の小学校だけでなく、公立の高校も見学しましたが、どちらの学校にも共通していたのが、先住民族マオリのカラーを前面に打ち出していることでした。

現代で伝統的な文化を扱うとなると、単にファッションとして消費されたり、すでに死んで標本化したものを死体のまま生きたように再現するような、ある種グロテスクな展示がなされたりしがちです。

ところが、ここではちゃんと土着のものとして向き合っているように感じられました。それらは守られるべきものというよりは、いきいきと生かされるべきものとして扱われているように感じられました。

平倉:マオリはまさに生きた文化です。また、それを生きたものとして「取り返す」ための実験が絶えず行われている。背景には、ニュージーランド──マオリ語では「アオテアロア(長く白い雲のたなびく地)」──において、ヨーロッパ系入植者たち(パケハ)がマオリから不当に土地を奪い、戦争で殺戮し、社会的・経済的な苦境下に抑圧してきた長い歴史があります。

1960年代まで、学校でマオリ語を話すと体罰を受けるような状況だったと近所の人から聞きました。マオリの文化は一度、強制的に潰されかけたんです。

1970年代から高まるマオリの復権運動のなかで、立ち返るポイントとなったのが1840年に締結された「ワイタンギ条約」でした。これは、イギリス女王とマオリの首長たちの間で結ばれた条約で、条約締結の際に英語からマオリ語に翻訳されていますが、英語で読むとマオリは「主権(sovereignty)」をイギリスに全面的に譲渡したことになっている。

ところが、マオリ語版ではイギリスは「監督」を行うだけで、土地を含むマオリのすべての「宝」についての権限は、マオリの首長が有すると謳われているんです。つまりマオリの首長たちがサインしたのは、マオリとパケハが共同で土地を管理するという条約だった。

この条約はその後、長く無視されていましたが、マオリの復権運動の展開と1975年に制定された「ワイタンギ条約法」を通して、マオリ語で書かれた条文の意義が再認識されたんです。

そこからこの国は、どうやったら先住民マオリと入植者の子孫による「共同統治」を実社会で実現できるかを模索し始めた。これは、アオテアロア/ニュージーランドという国家のかたちを構想し直す現在進行中の実験です。学校でマオリの文化が重視されているのも、このワイタンギ条約の理念に基づいています。

鳥羽:興味深い話です。では、先ほど学校で見たマオリカルチャーは、この国のあらゆる教育現場に浸透しているという認識でいいんですか。

平倉:現実には地域や学校によって大きく異なりますが、理想はそうです。マオリ語とニュージーランド手話は、英語とともにこの国の公用語になっていて、子どもたちはその2つの言語も楽しそうに学んでいます。

先日、小学校で入学式があったんですが、マオリの歓迎の儀式「ポーフィリ」に部分的に則して行われるイベントでした。儀式はマオリ語での挨拶のあと、マオリの先生が手に枝を持ち、呼びかけの言葉を唱えつつ波のように手招きして、新入生と保護者たちを建物へ導いていくところから始まります。招き入れられて、大きな建物のなかに入ると、全校生徒の迫力ある「カパ・ハカ」によって迎えられる。それを受けて新入生の保護者たちが母国語で感謝を伝えるんです。

マオリ文化を一種のファンダメンタル(土台)としつつも、多様なバックグラウンドの移民たちをそこに受け入れる。まさにこの国の理想の1つが示されていますね。しかもそれが堅苦しくなく、リラックスしたイベントとして行われているんです。

共存の仕方を模索している

鳥羽:真面目くさった感じで、「反省しています」という感じじゃないところがいいですね。

平倉:ええ。入植者によってマオリの土地が奪われ、命が奪われる悲劇的な過去があったことは片時も忘れることができない。でもそこで、反省と謝罪によって問題を一挙に過去のものとして済ませるのではなく、実際にいま同じ土地の上で、マオリとパケハという大きな2つの異なる文化が、あるいは他の移民たちの文化が、どうやって共存できるのかを実験しようとしている。それも歌ったり踊ったり、食べたり読んだり話したりする、生きたからだのあり方として。

私の生活拠点はウェリントンなので、国全体の話として一般化することはできませんが、この街にはそういう空気が満ちていますね。

平倉圭
専門は芸術学。横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院Y-GSC准教授。1977年生まれ。著書に『かたちは思考する──芸術制作の分析』『ゴダール的方法』などがある。2023年4月から2024年3月までヴィクトリア大学ウェリントン(ニュージーランド)客員研究員。3児の父。

著者:鳥羽 和久

https://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/business/toyokeizai-845565.html?page=1

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