「文化六年(1809年)、江戸将棋界の重鎮・九世名人大橋宗英が惜しまれつつ世を去る。しかし、将棋三家、大橋家・伊藤家・大橋家の分家(宗与家)の間での名人後継ぎ選定は家元間の政争激しく、伊藤家の宗看が十世名人を襲名するまでには16年もの歳月を要してしまう。大橋分家七代目当主・宗与は、その間に生じた将棋家の衰退を憂いていた。自身は父宗英から棋才を継ぐことができなかったものの、鬼才・英俊を養子に迎え将棋家再興のため尽力する。養子ゆえの気後れを見せつつも、英俊は名人宗看に次ぐ実力者へと成長していった。妹で初段棋士の弦女も宗与家に活気を与える存在であった。まだ幼い宗与の嫡子・鐐英も、大橋家の弟子・留次郎(後の天野宗歩)と友情を分かち合いながら日々研鑽を積んでいく。しかし、それとは裏腹に本家と分家の間には確執が生じていた……」
桎梏(しっこく)「《「桎」は足かせ、「梏」は手かせの意》人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの。」
今は藤井三冠(現時点)の活躍により将棋がよくニュースになりますが・・、「家」の縛りが強かった中で将棋三家が衰退し、別家として活躍する人が出てくる変化の時代の話。
「大橋柳雪に関してはあっけにとられるほどの大胆な創作があり・・」との事ですが、そのお陰で話が面白くなっていました。
(21/10/09画像借りました。)