私が作った初めての送信機で電波が送信出来る事は解ったが電信の符号を解読出来る能力は無かったのでA1での交信は出来ず(勿論この時には局免も無かった。)アンテナ端子に白色電球を接続しUYー807のカソードをリード線でパチパチショートさせて電球がパカパカ点滅するのを見て喜んでいた。
この当時はダミーロ-ドもパワー計も持って居らず出力等を測定をする事は出来ずにプレート電圧X電流X60%が出力で有ろうと概算していた。その内にA3の送信機が欲しくなりアルミのシャーシに受信部は高周波増幅ナシの5球スーパー並の性能、送信部は終段が6BQ5でチョークトランスを利用した6BQ5シングルのハイシング変調でトランシーバーと言えば聞こえが良いが現在の様に送信周波数と受信周波数がダイヤルを回すと同期する物では無く送信周波数は水晶振動子のスポット周波数、受信機はキャリブレーションで送信周波数に合わせ聞く、早く言えば同じシャーシの中に送信部と受信部が同居している形の物を作った。
この当時は大半が送信機と受信機が別れているのが普通でSSBが主流に成までA3の電波形式のアマチュア無線の世界ではメーカー製のHFトランシバーはトリオから出ていた物しか見た事が無かった。
この頃は3年生に成る前後と思うが46年の昔の話、時期については正確に思い出せないが皆さんが遣られていた様に連日シャーシにドリルで穴をあけ其のあとをヤスリでゴリゴリする毎日、一人部屋と言えば聞こえが良いが牛小屋の2階を人が住める様にした部屋で寝起きしていた為に遣りたい放題だったが時折、急に親父の臨検があった。
余談になるが この当時農家には耕作と収入面を兼ねて肉牛を飼っていた。子牛で買い入れ3年位で肉牛として出荷していたが農家としては可也の大きい収入源で爺さんが大事に育てていた。2階は10畳以上有り誰も来ないので好き勝手をしていたが時々親父のランダムなチェック(臨検)が有り一度部屋の片付けが悪く電流計用の穴をドリルで穴あけした後ニッパーで切り取ったアルミの破片を親父が足で踏み痛かったのだろう。殴られた事が有ったし小言は常に言われていた。
牛との同居は快適では無かったが高校への学資は爺さんが出していたので有る意味、牛さんの御蔭で高校に行けて好きな無線の世界が広がったと思えば文句は言えなかったが夏場のハエと気性の荒い牛の場合は壁に激突するので部屋がよく揺れた。でも悪い事ばかりでは無く時々「も~」と送信中に牛の鳴き声がインターバル・シグナルとして流れ のどかな田舎の風情がトレードマークにも成った。
上記の無線機の出力は良いとこ5W程度、近くの同級生と交信するには問題は無く免許状が届くまでは此の装置で遊んでいた。国試が受かった頃、兄がTXー88Dのキットを購入し組み立てていたので8月の開局時はTXー88Dと9R4のセットとアンテナはツェペリン・アンテナでハシゴフィーダーでの給電で有った。
此の時代 田舎では3C2Vの同軸が1メーターで70円前後していたので学生には「高値の花」で手が出なかったので仕方なく此のアンテナを使用したが、測定器が無い為、共振しているのかインピーダンスの整合が取れているか?どうかも解らず後日、300Ωのテレビフィーダーを利用したフォールデット・ダイポール・アンテナに変更した。此のアンテナは学校のクラブ局でも使って居たので実績も有り同じ寸法で制作、此れで最良な状態と信じて使っていた。
此のフィーダーは各家庭にテレビが復旧していた御蔭で田舎の電気屋さんでも入手出来、1メーター25円位で有ったがエレメントが20mと家までの引込みに20mで合計40m必要で1000円の出費は私には痛かった事を憶えている。此のアンテナの泣き所はフィーダー内の細い銅線の本数が少なくエレメントが1cm幅強のリボンなので風に煽られるとよく切れる事と古く成ると銅線が酸化してハンダ付けが遣りづらいなど欠点も多かった。
また台風が来ると必ずフィーダーが切れ、その度に屋根に上がって修理したが其の度、親父に「瓦がずれる」と怒られた。
この当時、私の生まれた町は県内でも大きい方で人口も6000人以上で有ったと思うがアマチュア局は居たかもしれないが同町内で交信する事は一度も無かった。学生の身では有ったが無線局を開局している自負心は可也強かったし、誰でもアマチュア無線を楽しめる時代では無かった。兄の御蔭で個人局を開局出来たが、其れ以後の無線の歴史は『牛歩の歩』で有った。今思えば其の事が私には幸し『先を行く人を追い掛けながら、何時か必ず、何時か必ず』の思いに成り、其の事が今日までアマチュア無線を継続してきた源動力に成って居る様に思う。