黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 初めてのA3のトランシバー

2012年10月19日 | アマチュア無線

 私が作った初めての送信機で電波が送信出来る事は解ったが電信の符号を解読出来る能力は無かったのでA1での交信は出来ず(勿論この時には局免も無かった。)アンテナ端子に白色電球を接続しUYー807のカソードをリード線でパチパチショートさせて電球がパカパカ点滅するのを見て喜んでいた。

 

 この当時はダミーロ-ドもパワー計も持って居らず出力等を測定をする事は出来ずにプレート電圧X電流X60%が出力で有ろうと概算していた。その内にA3の送信機が欲しくなりアルミのシャーシに受信部は高周波増幅ナシの5球スーパー並の性能、送信部は終段が6BQ5でチョークトランスを利用した6BQ5シングルのハイシング変調でトランシーバーと言えば聞こえが良いが現在の様に送信周波数と受信周波数がダイヤルを回すと同期する物では無く送信周波数は水晶振動子のスポット周波数、受信機はキャリブレーションで送信周波数に合わせ聞く、早く言えば同じシャーシの中に送信部と受信部が同居している形の物を作った。

 

 この当時は大半が送信機と受信機が別れているのが普通でSSBが主流に成までA3の電波形式のアマチュア無線の世界ではメーカー製のHFトランシバーはトリオから出ていた物しか見た事が無かった。



 この頃は3年生に成る前後と思うが46年の昔の話、時期については正確に思い出せないが皆さんが遣られていた様に連日シャーシにドリルで穴をあけ其のあとをヤスリでゴリゴリする毎日、一人部屋と言えば聞こえが良いが牛小屋の2階を人が住める様にした部屋で寝起きしていた為に遣りたい放題だったが時折、急に親父の臨検があった。

 

 余談になるが この当時農家には耕作と収入面を兼ねて肉牛を飼っていた。子牛で買い入れ3年位で肉牛として出荷していたが農家としては可也の大きい収入源で爺さんが大事に育てていた。2階は10畳以上有り誰も来ないので好き勝手をしていたが時々親父のランダムなチェック(臨検)が有り一度部屋の片付けが悪く電流計用の穴をドリルで穴あけした後ニッパーで切り取ったアルミの破片を親父が足で踏み痛かったのだろう。殴られた事が有ったし小言は常に言われていた。



 牛との同居は快適では無かったが高校への学資は爺さんが出していたので有る意味、牛さんの御蔭で高校に行けて好きな無線の世界が広がったと思えば文句は言えなかったが夏場のハエと気性の荒い牛の場合は壁に激突するので部屋がよく揺れた。でも悪い事ばかりでは無く時々「も~」と送信中に牛の鳴き声がインターバル・シグナルとして流れ のどかな田舎の風情がトレードマークにも成った。



 上記の無線機の出力は良いとこ5W程度、近くの同級生と交信するには問題は無く免許状が届くまでは此の装置で遊んでいた。国試が受かった頃、兄がTXー88Dのキットを購入し組み立てていたので8月の開局時はTXー88Dと9R4のセットとアンテナはツェペリン・アンテナでハシゴフィーダーでの給電で有った。

 

 此の時代 田舎では3C2Vの同軸が1メーターで70円前後していたので学生には「高値の花」で手が出なかったので仕方なく此のアンテナを使用したが、測定器が無い為、共振しているのかインピーダンスの整合が取れているか?どうかも解らず後日、300Ωのテレビフィーダーを利用したフォールデット・ダイポール・アンテナに変更した。此のアンテナは学校のクラブ局でも使って居たので実績も有り同じ寸法で制作、此れで最良な状態と信じて使っていた。

 

 此のフィーダーは各家庭にテレビが復旧していた御蔭で田舎の電気屋さんでも入手出来、1メーター25円位で有ったがエレメントが20mと家までの引込みに20mで合計40m必要で1000円の出費は私には痛かった事を憶えている。此のアンテナの泣き所はフィーダー内の細い銅線の本数が少なくエレメントが1cm幅強のリボンなので風に煽られるとよく切れる事と古く成ると銅線が酸化してハンダ付けが遣りづらいなど欠点も多かった。

 

 また台風が来ると必ずフィーダーが切れ、その度に屋根に上がって修理したが其の度、親父に「瓦がずれる」と怒られた。



 この当時、私の生まれた町は県内でも大きい方で人口も6000人以上で有ったと思うがアマチュア局は居たかもしれないが同町内で交信する事は一度も無かった。学生の身では有ったが無線局を開局している自負心は可也強かったし、誰でもアマチュア無線を楽しめる時代では無かった。兄の御蔭で個人局を開局出来たが、其れ以後の無線の歴史は『牛歩の歩』で有った。今思えば其の事が私には幸し『先を行く人を追い掛けながら、何時か必ず、何時か必ず』の思いに成り、其の事が今日までアマチュア無線を継続してきた源動力に成って居る様に思う。





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クラブ局との出会いと初めての受信機

2012年10月19日 | アマチュア無線

 アマチュア無線が動悸で工業高校の電気科に入ったが読んで字の如し強電を主体とした学科で有った。電子工学も専門科目には有ったが入学して1年間は一般教養が中心、数、国、英、社、物理、化学が中心で電気の専門教科は電気理論のみで有った。電気科に行きながらアマチュア無線とは無縁の生活、確か1年生の2学規が始まる頃と思ったがクラスメートの樫福君と席順が前後ろに成り話をする様に成り彼は当時吹奏楽部か何かでクラリネットを吹いて居たのでアマチュア無線を遣っている事は知らなかったが、彼の家に遊びに行き個人的にアマチュア無線をしている事知った。その当時は彼は無免許で(当時アンカバーと言われていたが)有ったがアルミシャーシに組んだ高1中2のシングル・スーパーの自作受信機に送信機は綺麗なケースに入った送信部と変調器は自分で組み上げた露出のシャーシに組み上げた物を使用していた。前にブログにも書いたが二階の屋根裏部屋で有ったが広い部屋で秘密基地の様な印象が今でも残っている。兎に角鮮烈で有った。交信している所を目の当たりにして此れがアマチュア無線か?と実感した。丁度東京オリンピックが開催された年で有った。



 彼と無線の話をする内に学校内にクラブ局が有る事を教えられ見学に行き其処で先輩の方々が開局したJA5YCHを知った。私の入学した高校は新設校で私等は2回生、従って1回生の有志が国試を受け開局したてのクラブ局で有った。先輩は其々に既に個人局を開局していたので個人局で運用する方が殆どで有ったが樫福君の中学からの先輩の島さんJA5BIFさんは毎日、部室に来られて色々御指導頂いた。帰り道も同じ方向で有ったが距離的には私の家までの倍の距離が有り、帰り道は毎日、樫福くんを先頭に島さん私と続いて自転車を漕いで帰るのが日課で有った。初めは遊び気分で部室に行っていたがその内、居着いてしまった。



 アマチュア無線局を開局したい思いは強かったが個人局は経済的に難しいと思ったがライセンスを取ればクラブ局でオペレート出来るので2年生に成ってから本格的に国試を受ける事を考え始め、時期的にも2年生から専門教科の電子工学も始まり少しづつ準備は整って行った。



 而して2年生の修学旅行の時、両親から貰った小遣い(正確には覚えていないが2万位貰った様な気がする)を節約して先輩の一人からトリオの9R4の受信機を4500円で譲り受けた時の喜びは今でも忘れられない。自転車の荷台に括り付け壊れない様に押して帰った事を昨日の様に憶えている。この受信機はGT管で構成されて折、高1中2のシングル・スーパーでケースに入ったメーカー製、当時は9R59が出回っていて2世代型遅れでは有ったが自分の受信機が手に入って有頂天だった。因みに高校を出て初めての給料が25000円前後の様に記憶しているので今の貨幣価値だと10倍の4~5万といった所か?受信機が手に入ると送信機が欲しくなるもの3.525MHzのFT243型のクリスタル振動子を購入、アルミシャーシに6AR5の無調製発振回路に定番の807シングルのファイナルの構成でCW送信機を作りアンカーバー・デビューしストレート・キー等は買えずにリード線をパチパチ・ショートさせて遊んでいた。三年生の4月の国試に愛媛県の松山市まで夜行に揺られて行き晴れてライセンス取得と成った。而して免許証、免許状の申請と続き開局は8月15日、私は18歳の誕生日を迎えた3日後、既に就職先は決まっていたので3年生の落第は無しと解っていてアマチュア無線の泥沼に一直線の毎日が続いた。

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