私は徳島に帰ると先ず最初に自動車学校に入り運転免許証を取る事に、大阪で生活していると交通網が発達している為に運転免許証は必要無かったが徳島に帰ると何処に行くにも就職するにしても運転免許証は必須、毎日、自動車学校に詰めて車が空いていれば1日に乗れるだけ乗って最短で免許を取得したが大体約1ヶ月掛かった。
此の時期、就職活動はしていたが自分の遣ってきた来た事が活かせる仕事は県外には有ったが県内は余り無かったので少し焦りもあったが次の就職先は定年まで勤めれる会社を条件に探したので実家で約5ヵ月間居候をさせて貰った。両親は何も言わなかったが此の間が私には一番辛い時期で有ったが8月の終わりに条件の良い会社の求人が有り、試験会場に向かうと20人以上の方が試験会場に来ていた。合否は面接試験だけと思っていたら一般常識と国語と数学と簡単な英語の試験が有ったのには恐れ入った。
私は数学の解答用紙を提出する段階で諦めムードで有ったが最終の面接試験まで残れたので少しは明るさが見えたが面接室に入ると会社の幹部10人位ずらりと並んでいて矢継ぎ早に色々質問されたが前の会社での職歴の質問が多かった。私は歳は若かったが前の会社ではラジオの生産ラインの(80人位)NO-2を任され上司はいつも事務所の机に座って居たので現場の問題は殆ど自分が処理していたし毎日、朝礼では全員の前で話す事は日常茶飯事だったので臆する事なく仕事内容を説明すると皆さん驚いていた。
後日解かった事だが此の会社の従業員は管理職を含めて160人位であったので21歳の若造から出た言葉が理解出来無かったと思う。部長クラスでも部下は10~15人位しか居なかったのだから・・・・・・・ただ会社の格とか人材の程度は天と地の開きが有った事は言うまでもない。流石、一流(徳島県内の話)と三流の差が有った。何はともあれハッタリが効いたのか?後日、出社日の記載された採用通知が届き徳島での会社勤めが始まった。
初出勤の日、昭和45年9月9日は社会人に成って初めて背広姿での出勤、前は工場だったので会社に背広姿で出勤する事は一度も無かったので凄く大人に成った気がした。(前の会社は学生服で初出社した)採用人員は5名(男子4人女子1人)この会社には40年近く勤めたが其の後に本格的な試験付きの途中採用試験は一度もなかった。丁度この年の8月に新社屋が出来て人員の補充が必要に成った様で途中採用試験が偶々されたらしく此の時ばかりは『世の中に神も仏も居る事を実感した。』
仕事内容は関西の家電メーカーのサービス・ステーションで配属は技術部、技術課、名前は仰々しいが全員で25人位の部所で有った。仕事の内容は取引先の販売店さんから持込まれた故障した商品の修理と販売店さんへの新商品の説明や技術講習会を開いたりする事が中心であったが需要家さんからのメーカーへの苦情の受付や現地対応も行っていた。翌日先輩から前の仕事を尋ねられて「ラジオの生産ラインで仕事をして居ました。」と答えたらラジオの修理品を指差し、「どれでも良いから修理してみろ」と言われた「腕試しだな」と思って此処は頑張らねばと2時間位で3台位直したら相手の私に対する態度が変わったのがハッキリと解かった。入社仕立てで商品のテクニカル・ガイドや部品センターの部品展示状況も慣れない中での修理なのでマズマズの成果、此の儘ラジオの修理担当かな?と思ったら2~3日後に花形の商品のテレビ担当に成った。
この頃はカラーテレビが普及し始めた頃で、全数真空管で組み上げられたテレビとハイブリッドタイプ(高圧回路のみ真空管で其れ以外はトランジスターで組立られた製品の切替わり時期で有った為、年配の人がトランジスター技術に追従しづらく成って来て居たので若い人を補充する事が今回の採用目的であったらしい事が其の後に何と無く理解出来た。
会社務めが始まると無線機の箱の封印を解き、親に気兼無しにアマチュア無線を再開する道が開けた。此処から29歳まで結婚もせずにアマチュア無線を楽しんだ。