黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

徳島に帰っての就職活動と無線再開に向けて

2012年10月23日 | 日記

 私は徳島に帰ると先ず最初に自動車学校に入り運転免許証を取る事に、大阪で生活していると交通網が発達している為に運転免許証は必要無かったが徳島に帰ると何処に行くにも就職するにしても運転免許証は必須、毎日、自動車学校に詰めて車が空いていれば1日に乗れるだけ乗って最短で免許を取得したが大体約1ヶ月掛かった。

 

 此の時期、就職活動はしていたが自分の遣ってきた来た事が活かせる仕事は県外には有ったが県内は余り無かったので少し焦りもあったが次の就職先は定年まで勤めれる会社を条件に探したので実家で約5ヵ月間居候をさせて貰った。両親は何も言わなかったが此の間が私には一番辛い時期で有ったが8月の終わりに条件の良い会社の求人が有り、試験会場に向かうと20人以上の方が試験会場に来ていた。合否は面接試験だけと思っていたら一般常識と国語と数学と簡単な英語の試験が有ったのには恐れ入った。

 

 私は数学の解答用紙を提出する段階で諦めムードで有ったが最終の面接試験まで残れたので少しは明るさが見えたが面接室に入ると会社の幹部10人位ずらりと並んでいて矢継ぎ早に色々質問されたが前の会社での職歴の質問が多かった。私は歳は若かったが前の会社ではラジオの生産ラインの(80人位)NO-2を任され上司はいつも事務所の机に座って居たので現場の問題は殆ど自分が処理していたし毎日、朝礼では全員の前で話す事は日常茶飯事だったので臆する事なく仕事内容を説明すると皆さん驚いていた。

 

 後日解かった事だが此の会社の従業員は管理職を含めて160人位であったので21歳の若造から出た言葉が理解出来無かったと思う。部長クラスでも部下は10~15人位しか居なかったのだから・・・・・・・ただ会社の格とか人材の程度は天と地の開きが有った事は言うまでもない。流石、一流(徳島県内の話)と三流の差が有った。何はともあれハッタリが効いたのか?後日、出社日の記載された採用通知が届き徳島での会社勤めが始まった。



 初出勤の日、昭和45年9月9日は社会人に成って初めて背広姿での出勤、前は工場だったので会社に背広姿で出勤する事は一度も無かったので凄く大人に成った気がした。(前の会社は学生服で初出社した)採用人員は5名(男子4人女子1人)この会社には40年近く勤めたが其の後に本格的な試験付きの途中採用試験は一度もなかった。丁度この年の8月に新社屋が出来て人員の補充が必要に成った様で途中採用試験が偶々されたらしく此の時ばかりは『世の中に神も仏も居る事を実感した。』



 仕事内容は関西の家電メーカーのサービス・ステーションで配属は技術部、技術課、名前は仰々しいが全員で25人位の部所で有った。仕事の内容は取引先の販売店さんから持込まれた故障した商品の修理と販売店さんへの新商品の説明や技術講習会を開いたりする事が中心であったが需要家さんからのメーカーへの苦情の受付や現地対応も行っていた。翌日先輩から前の仕事を尋ねられて「ラジオの生産ラインで仕事をして居ました。」と答えたらラジオの修理品を指差し、「どれでも良いから修理してみろ」と言われた「腕試しだな」と思って此処は頑張らねばと2時間位で3台位直したら相手の私に対する態度が変わったのがハッキリと解かった。入社仕立てで商品のテクニカル・ガイドや部品センターの部品展示状況も慣れない中での修理なのでマズマズの成果、此の儘ラジオの修理担当かな?と思ったら2~3日後に花形の商品のテレビ担当に成った。

 

 この頃はカラーテレビが普及し始めた頃で、全数真空管で組み上げられたテレビとハイブリッドタイプ(高圧回路のみ真空管で其れ以外はトランジスターで組立られた製品の切替わり時期で有った為、年配の人がトランジスター技術に追従しづらく成って来て居たので若い人を補充する事が今回の採用目的であったらしい事が其の後に何と無く理解出来た。



 会社務めが始まると無線機の箱の封印を解き、親に気兼無しにアマチュア無線を再開する道が開けた。此処から29歳まで結婚もせずにアマチュア無線を楽しんだ。

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本日の24Mhzコンディション (2012/10/22)

2012年10月23日 | アマチュア無線

 本日の24MHzのコンディションは全体的に昨日程は聞こえ無かったが反面カリブ海方面は昨日よりは良く聞こえた。日々のDXコンディションは細かい上下の変化はあるが比較的良く聞こえているので要注意である。

 

    今日聞えたDX局



 V31MW      06:59j    24MHz   SSB

 WP4U       07:03j    24MHz   SSB

 CX3AT      07:13j    24MHz   SSB

 KP4BD      07:17j    24MHz   SSB

 YN2N       07:19j    24MHz   SSB

 8R1AK      09:56j    24MHz   SSB


 その他にアメリカを10局ばかり24MHzのSSBで交信したが昨日の様な強力な信号は少なかった。8R1AKは各バンドで時々聞こえるが信号は此の地区からは珍しく強力に入っていた珍しのでは?
 
 

 
    

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 就職とアマチュア無線

2012年10月23日 | 日記

 昭和43年就職先の大阪にある会社に入社、社会人に成ったが当時の会社の寮生活は一部屋で3人の生活、田舎で自由気侭に過ごした私には窮屈な事も多かったが楽しい事も多かった。クリスマスパーティや慰安旅行は大勢で盛上り特に女子社員が80%以上だったので男社会の工業高校時代と違い華やいで居たが仕事の面では可也厳しい会社で有った。

 

 私の配属された本社には白黒テレビの製造ラインが2本とラジオの製造ラインが4本有り、私はテレビ部門の配属と思って居たが(卒業研究がテレビの回路解析)予想外にラジオに配属されたが此の事は私には幸運で有った。当時の白黒テレビは真空管で構成されていて当時はトランジスター化されていなかったので真空管の技術で有ったがラジオ部門はトランジスター化され一部、集積化が始まって居たので学校で勉強しなかったトランジスター回路やIC回路の勉強が出来た事と技術的に優れたI先輩と一緒に仕事が出来た事、先輩は同じく趣味としてアマチュア無線をしていたので仕事には厳しい人で有ったが個人的には50MHzの移動運用に一緒に出掛けたり何かと目を掛け可愛がってくれた。

 

 最初の段階では別の部所で有ったが先輩が退社する前の数ヶ月間はマンツーマンで工場内NOー1の技術を授けてくれた。先輩によく言われた言葉は『お前は感覚と経験で修理をしている事が多い、其れも必要だが一番大事なのは基礎的な理論、難故障や設計不良による回路対策はそれが無ければ行き詰まるぞ』であった。先輩の技術の如何程を吸収出来たか?甚だ疑問では有るが其の後42年間、家電のサービスに身を置いて恙無く過ごせたのも先輩の御蔭と今でも感謝している。私が此の世界に身を置いて多くの技術者と御縁が有ったが学校の島先輩と最初の会社の池田先輩、そして転職した家電のM社(現在はP社に)のサービス会社の上司の加藤さんには技術面で多大な影響を受けたが皆さん三人三様、アマチュア無線をこよなく愛する人達で有った。



 入社して2年目に成ると同期の長谷川君と二人部屋に、そして次の年には室長に成り後輩と二人部屋に成ると晴れて思う様に寮生活が送れる様に成り少し蓄えも出来たので無線病が再発し大阪の日本橋の電気街に行きFLー50BとFRー50Bを持って帰り当時、寮内では御法度のアマチュア無線を隠れて始めた。最初はコソコソ遣っていたが調子に乗って活発に遣り始めたら隣の小父さんから「テレビから変な声が聞こえる!」とクレームが入り寮長が調査して遂に御用と成った。

 

 当時、以前の寮友の長谷川君と私は自他共に認める優良寮生?軍隊上がりの酒を飲んだ寮長に期待を裏切った事で、こっぴどく怒られた。隣の小父さんとは其の後、仲良く成り御夫婦にお子さんも居なかったので食事の招待を受ける仲に成ったが寮での無線運用は厳禁で解禁される事は無かった。



 一度再発した無線病は治る事なく病状は更に悪化、彼女でも居たら踏み止まったのだろうが、最終的に私から無線を取ったら「生きる屍状態」抑も都会生活は私にはソグワナイと思い始め退社する気持ちを固めた。そして丸三年勤めた3月25日会社を退社、一週間の信州を一人旅をし、リフレッシュした後、徳島に帰った。「若気の至」と言えば其れまでだが、ある意味大きい人生の梯子の掛け替えで有ったが今の私には自信を持って良き選択だったと思うし後悔も無い。

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 開局後の受信機の変遷

2012年10月23日 | アマチュア無線

 昭和41年(1966年)8月15日に個人局を開局して運用を始めたが何故か8エリヤだけは交信する事が出来なかった。当時は空中線電力は10Wで運用周波数は3.5~7MHzの2バンドだけ、アンテナはフォールデッド・ダイポールで非力な設備では有ったが北海道との交信は実に3ヶ月近くを要した。

 

 ローカルの局に其の事を話すと暫くの間、私の運用を同時に聞いてくれて数日後の運用時に「北海道が呼んでるよ」教えてくれた。当時はVFOも無く3.5MHz帯は3.25MHzの水晶振動子のスポット周波数のみ7MHz帯は2逓倍した7.050MHzのみで有った事も理由の一つで有ったが本当の原因はもっと本質的なもので有った。受信機の感度が悪かった為、呼んでくれる人は居たのだが聞えなかったのだ。

 

 其処で対応策としてRF増幅付きのコンバータを兄が自作する事に成り二人で回路を探したがクルスタル・コンバータータイプと自励式タイプとあったが多バンド(7、21MHz)と成ると水晶振動子が2個必要で田舎で特殊な周波数の水晶振動子は入手困難で入手が可能でも高額で、かつ納期までの期日が必要で有ったので自励式のプラグイン・タイプを製作する事にした。

 

 此の装置はRFコイルと局発のコイルをバンド毎に差替え周波数変換し1.5MHzで出力、親受信機は1、5MHzに固定し自励式のコンバーターのダイヤルを回して各バンドの目的の信号を受信する(ダブル・スーパーにする)方式、早速、兄がコイルを巻いて回路を組んだら即、正常に動作したが、当時はシグナル・ゼネレーターやデップメーター等は持って居なかったので信号の受信は出来るのだが製作記事の通り回路を組みコイルも記事通り製作してもバラツキによる誤差で現在受信している周波数が解らず取り敢えず強い海外放送にチューニングし1時間以上聞いてID信号と周波数のアナウンスで受信周波数が初めて解かった時は万歳三唱もの、確か12MHz帯の周波数で有った事を記憶している。後は7MHz帯で送信し周波数目盛盤にマークを入れ完成した。



 翌日からは此の受信体制で臨むと自力で8エリヤとの初交信に成功、其の後、開ける時間帯さえ合わせれば面白い様に北海道との交信は出来た。そして其の後、デリカから出ていた自励式の(箱に入ったバンド毎のコイルパック入れ替える)コンバーターを誰から借りたか忘れたが使用したりした。

 

 そして其の年の10月には兄も国試に合格したので気合が入り、ある日、突然にテン(神戸工業)のプロ用の受信機(船舶で使用していた)を持帰り、それが机の上に鎮座すると重厚感が有りTXー88Dが可也貧相に小さく見えた。開局して僅か4ヶ月で可也のスピードで無線設備は進化し前後して自作のVFOが完成し、バンド内で何処でも出られる様に成ると共に待望の21MHzや28MHzでも十分実用可能な無線設備と成った。



 翌年の昭和42年(1967年)3月、無事卒業、同月、就職先の大阪に向かったが家を離れる寂しさも有ったがそれ以上に無線が出来無く成った事が悲しかった。其の後に初めて実家に帰省した8月にはFLー50Bと小林無線の船舶用受信機が机に鎮座していた。流石、世界の小林無線、前面パネルの面構え、ダイヤルの回転のフィーリング、そしてSSBの信号を捉えダイヤルの回転に伴う復調音の素晴らしさ、神戸工業も其れ成りに良かったが世界が違っていた。


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