黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

親父に ごみ焼き場に捨てられた572Bの結末

2012年11月05日 | アマチュア無線
 DXを遣り始めると一番先に行き当たるのがパワー不足、アンテナやタワーにお金を注ぐより簡単に出来る事なので誰しもが考える方法、当然の如く私も其の方向に進んだ。当時の合法局でもパワーの上限は500Wで、各メーカーから出ているリニヤアンプも、テレビの水平出力管を沢山パラレルに使用した怪しげなアンプか、一応、送信管を利用した572Bのパラレルのリニヤアンプが主流の時代、師匠の庄野さんとは知合いに成って居たので相談すると「一回、自分で作ってみい」と言われて自作する事に、まず今でも商売を継続している東京の「球やさん」に572Bを2本注文、当時1本が8000円した様に思う。高かったが球が無くてはパワーが出ないので「清水の舞台から飛び降りる気持ち」で送金し後日、球が到着したら何の変哲も無い白のダンボール箱に怪しげなクシャクシャの紙をクションにした球が届いた。仕事から帰ってきた兄が其れを見て「其のクションに使っている紙には何か菌が付いていて外国で問題に成っているらしい早く捨てないといけない。」等と理由の解らない事を言い出してクション材は直に焼き捨てて球は保管して時々、取り出しては眺めて悦に入っていたのだが、ある日 仕事から帰宅すると572Bが見当たらない?離れの部屋で親は余り立ち入らないので「おかしいな~」2~3日、探し回ったが見付からない。当時の私の給料の半分を掛けて購入した球で「私の大事な宝物」顔色が変わった。



 ゴチャゴチャの部屋で有ったが此れだけ探しても見付からないと成ると親父か母親が関係していると思い聞いてみると最初は知らぬ存ぜぬの態度で有ったが、ひつこく聞くと「そういや、小さい白い箱を自宅の前のゴミ焼き場に捨てたな?」と無責任な御言葉、聞いた瞬間、此の球が元気に電波を増幅する事を日々夢見ながら撫で回していた私としては気が抜けて体がフニャフニャに成りそうに成った。「如何して勝手に部屋の物を処分するん」と言ったが「部屋を汚くしている御前が悪い」と一言、次の瞬間、ゴミに火を付けられて炎の中で572Bがボカーンと破裂する情景が浮かび「まさか火を付けとらんだろな?」聞いたら「そんな事、一々覚え取らんわ、気に成るなら自分の目で確かめて来い」と冷たい言葉が倍に成って帰って来た。此れが立場が逆であれば親父は激昂したと思われるが私は諦めムードで家の前の道路の脇に有るゴミ焼き場に向かうと572Bが裸で無造作に転がっていた。火が付けられなかった事も幸いしたが誰か球の値打ちの解る人だと(私だったら持ち帰る)拾われて終わり、胸を撫で降ろした。 


 其の後、此の球は自作のアンプに組み込まれ、火入れ式は師匠の臨席を賜り行う事に、其の当時、ダミーロードを持って居なかったので投光器の球をダミーにしてSSBで送信してランプが音声に伴なってパカパカ点滅した時は感激、師匠も感想を何も言わなかったがニンマリ笑っていたし其の後は一人前に認めてくれる様に成った。
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TS-520Dと初めてのビームアンテナ(TA-33)

2012年11月05日 | アマチュア無線
 1970年の4月に徳島に帰り10月頃より無線を再開したが当時はFL-50BとFR-50Bのセットで運用したが此の機種はシングル・コンバージョンの為,バンド毎にVFOの周波数が変わり安定度が良くなかったしSSBの機種の安価タイプで電波の質も今一の感じで有ったので新しい無線機に買い替える事を考え始めた。社会人には成っていたが給料は手取りで3万程度、偶々、無線機と家電品を販売している取引先の展示会に行った時にTS-520Dを見て気に入り購入を考えた。当時はSSN値も上昇していた時期でも有り運用は海外交信に興味を持って居たのでアンテナはモズレーのTA-33と(当時で6万以上した)小型のエモトのローテーターとの同時購入を決め、生まれて始めてのローンを組んだ事を記憶している。全部で20万を軽く超過していたので当時の年収に近い金額で有ったが誘惑には勝て無かった。


 アンテナは3エレ八木のトライバンダーで有ったが(14,21,28MHz)当時では(1971か1972年頃)先ず先ずの設備で有った様に思う。当時はタワーは無かったが兄が自作のパイプを利用した12mHのポールを建て居たので其の上にアンテナを取付けTA-33Sを回して得意に成って居た。此の時、初めて高所作業を経験したが上る前に緊張の余り御尻の筋肉がピリピリと痙攣した事を覚えている。ポールは四隅にワイヤーでステーが取られ、倒れる心配は無かったがポールの材質は直径60mm位、肉厚は5mmくらいで足場も溶接されていたが溶接がポロット外れないか無駄な心配をして一段一段思い切り足場を蹴り確認しながら上った。最上部には円形の踊り場が有ったのでローテーターやアンテナの取付け作業は順調に行う事が出来た。今、思い出すとアマチュア局も少なかったがタワーが立っている局も少なかった様に思う。タワーが建っていても電力関係の菱形の払い下げのタワーが大半で有った様に思う また此の当時、田舎ではビームアンテナと言えば竹を利用したCQアンテナが主流でアルミの八木を余り見掛けなかった様に思う。


 此の時期は無線の世界ではサイクル20でSSN値が200~300台は常でハイ・バンドも良く聞こえて居た様に思う、100Wと3エレのトライバンダーで100UPは簡単でアンテナの性能上、28MHzはフルサイズなので特に28MHz帯を楽しんでいた。多分此の時代はJA5CBBのコールサインでの運用で2級の資格は取っていたが結構、無茶をしていた様に思う。此の頃にはローカル局も沢山居て夜な夜な21.250MHzで皆で順番に歌を歌ったり面白い話をしていたが夜の突然のオープンで関東の局からブレークが掛かり「面白い事を遣って居ますね」と言って入って来て合同ラグチューが出来る事などが時々有った。皆さん独身で私より年下で大学生や高校生が多かったが結構、ワイワイガヤガヤ楽しく賑やかに遊んでいた。
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