今年の四国地方は5月の半ばで例年に無い早い『梅雨入り!』其の後6月に入るまでの2週間は強い雨では無かったが五月とは思えないショボ降る長雨が続いた。此の間、我家の遊んで居る畑は雑草の背丈が可也伸びて居たので6月1日に2時間程を掛けて綺麗に草刈を行なったが其の雑草が余り太陽は照って居ないのだが此の一ヶ月で雑草は役に掛って蔓延り其の背丈は可也伸びて来た。
私が生まれ育った実家周辺では殆どが家業として農業を営んで居り、子供心にも『百姓中で田畑に草を生やすのは恥じ』と教え込まれて居たし現実もそうであった。前にも此のブログに書き込んだ様に小学校の低学年頃から私は農繁期には子供ながら農作業を手伝わねば成らず、遊びたい盛りで其の手伝いが嫌で成らなかった。近所の農家にも同じ歳頃の子供が沢山いたが遊び感覚で農作業を手伝う事はあっても親は当てにはして居ない感じ、反面、我家の両親は農作業を直接手伝えとは言わなかったが『働かざる者食うべからず!』的な空気で両親の苦労が解かって居ただけに子供頃に嫌ではあったが手伝わざるを得なかった。
私が生まれた戦後直ぐの時代は食糧難時代で『米に値打ちが有り』農家には良い時代であったが其の状態は長くは続かず私が小学校高学年の時代には其れまでは生活(食料確保)大変だったサラリーマンや町工場に働きに行って居る職工さん(所謂、町人さん)の給料が段々と上り始め、やがて状況は完全に反転し、既に私の様な子供にも此れからの専業農家の将来には余り旨みは無い事は解かって居たし(此の時にはGHQに寄る農地解放政策が取られ耕作面積は昔の大地主でも2町分程に成って居た)我家は丁度中途半端な1.5町分ほどの耕作面積で当時は機械化が余りされて居らず農繁期が長かったので現在の様に親が何処かに勤めながら農業を兼業出来る時代では無かった為に我が家などはまともに此の煽りを受けた農家であった。
私は三男坊で在った為に、此の頃に既に親からは『長男は此の家を守って行く役割があるので先祖伝来の田畑は長男が継ぐのでお前には一切渡せない。』と云い聞かされて居た。此の事は農業などする気持ちが更々ない私には長男で無かった事が寧ろ嬉しかったし、将来は工業高校に入り何れかの技術系の仕事を生業とする事は子供心に決めていた。
結果として私の進路は其の通りと成ったがサラリーマンを退職した現在は家庭菜園をするには広過ぎる程の畑があり暇を持て余す程の時間的余裕が在るにも関わらず今更、畑で作物を作る気には成れないが、さりとて幼い子供心に叩き込まれた『百姓中で草を生やす事は恥じ!』の教えは忘れられずに『かなわんなぁ~』と思いながら暑い中、2時間程の草刈作業に励んで居る。此の調子で行くと草の心配が無く成る頃までに後4~5回は炎天下で草刈作業をせねば成らない状態・・・・・・此の作業も老体には一寸堪えて来たのでソロソロ息子と世代交代の時期には成って居るのだが農作業が大嫌いな親の子が遣るわけも無く、其の様な躾けもせずに育てて来たので無理であろうが近々にお願いしてみようと思って居るが『駄目だろうなぁ~??』