最近出ているT30PYとOJ0Rの追掛けをした。
T30PY 21MHz(SSB)、7MHz(CW)、24MHz(CW)、14MHz(SSB)、7MHz(SSB)
OJ0R 24MHz(CW)、21MHz(CW)
EA6TS 7MHz(CW)
HT9H 21MHz(CW)
P43E 21MHz(CW)
24MHz (SSB) SP5NZA、LA5WKA、DJ6OH、K5TJ、K0CIY、AE5VR、WB2ZAB、
AB6CF、W7SAG、
今日は24MHzのコンディションがよく朝の北米が強く入っていた。
2~3日前から時々咳き込む事が有り、昨日は早めの23時前に布団に入ったが朝方の3時半頃に目覚め咳が止まらないので薬を飲んで布団に入ったが眼が冴えて眠れない。仕方が無いので無線機の電源を入れ聴き始める。この時間帯の7Mhzは雑音が無く非常に静かな状態でSSBの海外の信号は国内並に入っている。この時間帯でジャパ~ンと叫ぶと家族から顰蹙もの、喉も痛いしCWを中心に聴いたが弱い信号でもノイズレベルが低いので浮き上がって聞こえる。
最初にHT9Hと7MHzでのCWの交信で始まりHK1MW、E72OSR、S505SCG、9A20HRS、3W2BB、OV1CDX、4Z5IW、3B9SP、E75A、EX2F、EM200Vを7MHzの電信でゲット、何処も特別に珍しい国は無いがHT9Hと3B9SPはまずまずのDX、其の後 夜が明け始めると4J5A(10MHz CW)HT9H(21MHz SSB)KJ6EO(24MHz SSB)PZ1DV(21MHz CW)TI2AIM(21MHz SSB)3W2BB(21MHz CW)FK8DD(24MHz CW)と続いた。
最近感じる事だがコールサインが長いものや数字の桁数の多い物が有ったり、昔からの感覚で聞くと何処の国か解り辛いコールサインがやたらと多い。最近で一番長いコールサインは4X130RISHON 7MHzのCWで交信したがコールサインの判別に暫く時間が掛かった。又ターボハムログにコールサインが入らず久振りに書式の桁数を広げた。
リタイヤして自分の時間を自由に使える様に成った割には朝方の時間が上手く使えて居ない事を今朝は感じた。明日からは早く休み早朝に起床して各バンドを聞いてみようと思う。
最近の7Mhzは「湯けむりアワード」の人気を「湖沼アワード」人気が上回り可也賑わっている。7MHzの7.036~7.070MHzまでは移動運用の周波数帯に成って通常の交信は遣りづらい状況に成って私は7.100MHz以上の周波数でラグチューを楽しんでいるが残念ながら相手に困る状況である。相手を戴ける局も多くて1日に2~3局止まり、仕方が無いので相手の居ない場合は14~24MHzを聞きに行っている。ハイバンドも14MHz~21MHzよりも24MHz~28MHzの方が何故か海外とのコンディションは良い様に思う。
9月は24MHzも日によっては差が有るもの朝の北米とカリブ海方面が夕方にはヨーロッパ方面が開けていたが最近、10月に入ってからは余り聞こえない、聞こえてもノイズ混じりの弱い信号で聞き取りが可也厳しい状態に有る。この一週間は海外との交信は毎日3~4局止まり9月の最盛期は24MHzで1日に70局を越す海外と交信出来た事を思うと別世界の感じがする。
北海道は13年振りの冷夏の中を1ヶ月間旅行して約1日で福井県の敦賀まで帰ると本州は真夏で別の世界、北海道では夜、窓を開けて寝ること等殆ど無かったが敦賀の新日本海フェリーの駐車場では夜でも30℃近い気温、予定は翌日の昼間に四国に向かう予定で有ったが、予定を変更して夜中の北陸道~名神高速を利用して徳島に向かった。北陸道は順調に進んだが名神は京都と大阪で少し渋滞(お盆前だったので早期の帰省組によるもの)したが夜明け前に明石大橋を渡り淡路島の淡路SAで休憩を取った。駐車場は早朝にも拘らず沢山の車が停まって折、明石海峡を見下ろす展望広場は人で賑わっていた。この場所は東日本に旅行する時は行きも帰りも必ず寄る場所、景色が良い事と我家までには2時間くらいで走れるコースなので休憩タイムには格好の場所なのだ。
日の出前から展望広場の長椅子に寝転がり日の出を待ったが夜明けは北海道よりも30分以上遅く可也西に移動した事を実感した。少し明るく成って明石大橋の写真を撮ったが朝雲りで雲が低く垂れ込めている。其の後、淡路島を抜け成ると鳴門インターで高速を降り徳島市内の手前の吉野川大橋を渡るとき「徳島に帰ってきたぞ~」と実感が込上げて来た。そして我家に8時過ぎに無事帰還した。
退職後、無線の移動運用を始め 最初は日帰りから始まり其れが2日に成り3日に成り而して1週間に成り、色々なトラブルを経験する中で設備の充実や移動運用のノウハウ等を吸収して、1年後に1ヶ月間の長期の旅行を計画実行した。何度も書くがこの年の北海道は13年振りの冷夏、真夏で有りながら大雪山系のトムラウシ山で登山者9名が天候不順で遭難し低体温症で亡くなる大きな遭難事故が有る程、天候には恵まれず行程中は連日雨と曇天の連続で散々で有ったが、初めての長期旅行での此の躓きながらのスタートは結果的には良かったと思う。其の様な中で今回の旅行と移動運用を乗り切った事は大きい自信と成り翌年の2ヶ月半の移動運用(長野、新潟、東北、北海道)2011年の2ヶ月と10日の移動運用(沖縄、離島、九州、中国、隠岐)へと続いた。
帰りの東苫小牧港~福井県敦賀市までの新日本海フェリーの出航は23時30分に出航予定で30分前位に乗船しベットに入ると直ぐに深い眠りに落ちた。翌早朝、目覚めると周りは何も見えない日本海の洋上を航行していた。この船舶は長さが199.45m幅が25m、総トン数17329tに及ぶ大型船で波の無い日本海を南下していた。
福井県の敦賀港への入港は20:30分で約21時間の船旅と成った。船上の楽しみは日に2回有る映画の上映とお風呂だけ私は下船するまでに4回風呂に入った。後は甲板に出たり食堂の横の左右の展望室で外の景色を見たが外洋を航行する為、途中で見えたのは佐渡島の北側を航行中に島影が見えた事と東北の沖で北海道に向かう新日本海フェリーの僚船とすれ違う時に船を見ただけで、其れ以外は何も見え無かった。
敦賀港には遅れも無く定刻に入港したが中途半端な時間で有ったので敦賀港内の駐車場で一夜を過ごして翌朝徳島へ向かう予定で有ったが駐車場内で車中泊しようとしたが車の窓を全開にしても暑くて眠れない。車のエアコンで車中泊するなら走った方がましと判断、日付が変わった所で北陸道に入り徳島へと向かった。
千歳市の道の駅「サーモンパーク千歳」で北海道で最後の日を迎えた。苫小牧港の出航は夜なので明るい内に見て帰れる観光地を検討した結果、西側の登別温泉に向かう事にした。千歳市を出て36号線で苫小牧市に行き其処からは海岸線沿いを西方面に走り白老町を経由して登別市へ途中で2号線に乗換え北上して登別温泉に到着し登別第一滝本店の前の細長い駐車場に車を預け温泉街を散歩して途中の「さぎり湯」で日帰り浴を楽しんだ。
其の後に徒歩で地獄谷を遊歩道に沿って見学した。この日は青空の広がる大変良い天気で有ったので暑かった事を憶えている。1時間くらいを掛けて散策した後、観光道路350号線で山手に上がりながら大湯沼の上を通って下り坂に成ると白老町に入り目の前にクッタラ湖が見え始めた。
湖の西側を北から南方向に湖岸を走り再度登別町に入り来た道(36号線)を苫小牧方面に向かい新日本海フェリーの発着港の苫小牧東港周文埠頭フェリーターミナルに夕方前に到着、長期の旅行でごった返していた車内を整理していた時、苫小牧市の松下さん(JA8GBN)が態態お越し頂いたのでターミナル・ビル内でゆっくり御話する事が出来た。
松下さんとは同世代で私の移動運用中は勿論、時々ラグチュウで楽しい話をお聞きする間柄で現在までに230回を越すコンタクトを頂いている。この時のアイボールが御縁で2回目の2010年の訪問時には自宅にも御伺いしシャックも見せて頂いたし歓待を受けた。
上段最初の写真は登別温泉の源泉、2枚目は日帰り浴した「さぎり湯」の玄関口、3枚目から下段の最初の写真は地獄谷の風景、次の写真は大湯沼、3~4枚目はクッタラ湖の写真である。
私が此の当時まだ未交信地区であった様似郡様似町の運用が終わり今回の北海道での移動運用はすべて終わった。様似町から苫小牧市までは海岸沿いを走行した。この辺は競走馬のサラブレッドの故郷、道路脇の広大な柵の中で数頭の競走馬が優雅に走っている姿を見る事が出来た。新冠町に入り道の駅「サラブレッド・ロード新冠」に立寄り見学した後に国道から少し入った新冠温泉レ・コードの湯ホテルヒルズに向かい「ひまわり畑」を見学した。
其の後、千歳空港へ向かい空港内のターミナルビル内の土産物店に立寄り家内と御近所の土産物を買い、夜は千歳市の道の駅「サーモンパーク千歳」に立寄り車中泊した。翌朝、道の駅に止まると必ず始まる車中泊した方々の、キャンピング・カーや、其れもどきの改造車の自慢大会が始まり、周りが騒がしく成り始めた。
大体この様な事を仕切っているのは関西方面の人、そして賑やかなので私は起きて出掛けようと身支度を始めた。私の車は前にも書いたが私が車中泊する時は前後のドアの左右の内張りの最上部に厚板を5箇所くらい左右に渡し掛けその上に95cm X 100cmのコンパネ板を2個を厚板に渡し掛け95cm X 200cmのベッドにして寝るタイプ。ベッドの高さはドアの内張りの最上部から更に10cm程、高く成るのでベッドで横たわると顔の先20cm位に天井がくる状態、そしてベッドの組立や解体は毎回遣らなければ運転席に座る事が出来ない代物で有った。
ベッドから降りる時は後部のハッチバックのドアからでないと降りられないので(ベッドの上で方向転換が出来にくい)イモムシがバックをしている状態になる所を車内にカーテンが無いので近くの皆さんに確り見られてしまった。
乗りの良い関西の人が其れを見逃す筈は無く、4人程が私の車を囲み「ユニークな事をしてるな~」から始まり、旅の目的、コース等、お決りの事を聞かれた。其の場所に居た方は全てリタイヤ組の御夫婦で(奥さんは朝の準備で居なかったが)乗ってる車はキャンピング・カーやハイ・エース・クラスの大きい車で有り『この車でホンマに四国から来たんかいな?』等と言いたい放題で有った。
色々話していると皆さん早めにリタイヤし元気な内に色んな所を旅する事を楽しみにしている様子で旅行で一番費用の掛かる宿泊費を抑える為に車におカネを掛けている事が良く解かった。その為、他の人の良い処を一つでも吸収している様で自慢ばかりでは無い様で有る。
ここで御会いした4組の御夫婦は北海道の旅は3回目の人が一番少なく、残りの方々は毎年来られているとの事、北海道は初めての私等は出る幕無し,その時聞いた『北海道は5回来て何たるかを語れる。』の長老の話を聞いて私も5回は来ないと確かに北海道は全ては回れないと思った。
私は2009年と2010年で延52日間、北海道に滞在したが外周さえ周り切れていない。3回目の訪問時の第一目標は、えりも岬から釧路間の太平洋側を走行する事、此れが出来れば初めて北海道の外周一周を達成した事になる。次回は多分、家内と一緒に廻る事に成るだろう。家内は札幌近郊は訪れているが道東は行っていないので摩周湖や知床を是非見せてやりたいと思っている。
えりも岬の観光を終えて来た道を引き返すかたちで様似町に戻り、運用場所を探したがこの一体は山が海岸線に迫り出し海岸線を国道が走りその道筋に平行に人家が細長く広がる漁村タイプの町で海岸線には思う様な場所が見当たらず、カーナビの検索で公園とキャンプ場で検索を掛けると『アポイ山麓ファミリーキャンプ場』が有ったので向かう事にした。国道から山の方に入ると「アポイ山荘」が有り、そこを更に奥に向かうと最後の写真の場所(北緯42度06分47秒 東経142度59分20秒 海抜92mH)に行き10mHの7MHzの逆Vアンテナを設営し16:44~21:02JSTと翌朝05:07~08:23JSTの間運用し221局と交信した。様似町も北海道では余りQRVの無い町であるが思いの他に交信実績は伸びなかった。其の日の夜は写真の場所で車中泊したがアポイ山荘から800m位離れていたので夜は真っ暗、非常に不気味で心細かった。然も運用中に此の場所に滞在中は人も車も一度も現れる事は無かった。
朝の運用が終了しアポイ山荘まで下がり洗濯をしたかったのでフロントで『コインランドリーは有りますか?』と聞いたら『有りませんが現在洗濯中の物が終わりましたら どうぞ御使い下さい。』と嬉しい返事、ロビーで待っていると案内頂き、業務用の洗濯機と乾燥機を態態私の為に空けて頂き大変恐縮した。
私は洗濯後の乾燥時間を利用して館内の温泉に入ったが屋内は正面が総ガラス張りの部屋に円形と半円形の大きい浴槽が有り屋外には岩積みされた露天風呂が有りアポイ岳や太平洋が見渡せる景色が広がっていた。アポイ山荘の印象は設備も良かったが何より感心したのは従業員さんのサービス精神。フロントの方もそうだったが、洗濯室で仕事をされていた方、外で仕事をしていた従業員さんの「今日は」の笑顔の挨拶と親切な接客、私もサービス業に身を置いて居たので少なからず解るのだが本当に感心した。
失礼な話だが正直言って有名な観光地も無い様似町でこの様な接客出来る施設が有る事に驚いたが、其れだからこそ接客サービスに力を入れているのではないかと私は思った。お礼の気持ちとして様似のワインと土産物を買って帰ったが自然にそうしたい気持ちになる道内観光旅行の中で一番のサービス精神を体験した。場所に関係なく機会が有ればもう一度訪れてみたい「アポイ山荘」である。
最初の写真はアポイ山荘の建物、次がアポイ山荘の下に有るアポイ山麓ファミリーキャンプ場、3~4枚目はアポイ山荘からのアポイ岳方面(意味は神々の山、霧が出て時間と共に変化していた)
平取町の運用場所を出発し237号線で南に下がり日高町の富川南の交差点で左折235号線(浦河国道)に入り新冠町~新ひだか町~浦河町から236号線(襟裳国道)に入り様似町を経由して幌泉郡のえりも町に入った。えりも岬に行くには新向から34号線に入らなければいけないのに不注意で其の儘236号線を走ってしまい幾ら走ってもえりも岬に着かずえりも岬の東側の庶野小学校まで進んでしまいその段階で道を間違えた事に気付いた。えりも岬をショートカットしていたのだ。この様な事は毎度の事で仕方なく34号線を東から西へ海岸線を引き返す形でえりも岬に向かった。
えりも岬の駐車場に入ると駐車場の前に食堂と土産物店が有り、観光客も沢山いたが残念ながら辺り一面に霧が立ち込め風が強く吹いていた。駐車場から先に進むと「風の館」が有り通路を進むと其の先には岬を周回する遊歩道が有る。ぐるり一周したがガス(霧)が立ち込め視界が悪く、条件の良い時に写真を撮ったが状態は刻々と変化していた。この時は冬用のジャンパーを着ていたが寒かったのを憶えている。
下段の最後の写真が周回の遊歩道だが人一人写って居ない、写真の遊歩道の上の建物がガラス張りの展望台で大半の人が此処からの観望をしていた。下段の1枚目は「風の館」の入口前、建物は地下に潜るかたちで入り円形状に成っている。3枚目が「えりも岬灯台」の写真で此の日は天候の悪さも有ったが此処は人が住むには厳しい環境の場所に思えた。
私は支笏湖の観光の後、16号線で千歳市に向かい千歳空港の近くの道路上から航空自衛隊基地のFー15戦闘機の、離発着訓練を見学した。ランプの上り口の側帯に少し広い場所が有り私が行った時は40台くらいの車が止まって沢山の人が見学をしていた。滑走路から離陸する戦闘機をある程度の大きさで写真の画面内に収め様と思うとカメラでは望遠にしないとダメで有ったが望遠にすると戦闘機のスピードが速い為、モニター画面に追い込む事が難しく、撮っても画面の中心に戦闘機を捉える事は至難の技で上手く撮る事は出来なかった。
そして此の場所は飛行機マニアにとっては知られた場所の様で次から次と車が入れ替わっていた。警察のパトカーが時々来てスピーカーで駐停車をしない様に警告していたが多分形だけで取り締まる気配は感じられなかった。男子に生まれれば誰しも飛行機のパイロットは夢見る職業、その中で特にジェット戦闘機のパイロットは花形中の花形である。離陸して直ぐに雲の中に飛び込んでいくスピードと爆音はすざましく心がときめく程に圧巻で有った。
見学を終えて国道36号線に入り苫小牧方面へ進み市内の美沢交差点から10号線に入り厚真町に向かい厚真本町の交差点で59号線に入り平取カントリー倶楽部近くの荷菜の交差点で237号線に入り北へ向かうと直ぐに平取役場が有りその先に有る沙流川の河川敷にアスファルト舗装された駐車場とトイレ付きの公園が有ったので其の河川敷に降り其の場所にアンテナを設営した。此の場所は北緯42度35分12秒 東経142度08分23秒
今回の北海道旅行中で河川敷内の車中泊は初めて(新篠津村は河川敷では有ったが堤防の外側での運用)川から河川敷の駐車場との高低差が余り無かったので気には成ったが運用後のアンテナ撤収は面倒だったので覚悟を決めて決行した。
運用は16:29~21:29JSTと翌朝の06:01~07:29JSTまで行い7MHz帯は211局との交信で終わった。平取町は道内では運用が少い町で、この時点で私は全バンドで今金町、平取町、様似町は未交信の町で有った。私は本来アワードには全く興味は無いのだがアマチュア局を開局した当時から何時に成かは解らないが必ず全世界と日本の全市、全郡、全行政区、と全町村との交信は達成したいと思って居たので移動運用を始めた最初の頃からの第一目標として自分の未交信地区は必ず優先して運用する様に決めていた。
此れには理由が2つ有り、一つは私が移動運用する前までに国内のアマチュア無線局とは4万交信以上していたので其の状態で交信履歴が無いと言う事は可也のレアーな場所で有り全町村を目指している局にとっては魅力(要望の高い)の有る町村なので喜んで頂きながら沢山の局と交信出来る自局側にもメリットが有る事、2つ目は、移動運用を熱心に行う方は常にどの町村に人気が有るか如何かを?常に探って居るので誰かが移動運用してパイルアップを受けていると必ず1~2ヶ月以内に誰かが其の町村に移動運用を行うので其のチャンスを利用して自分も交信出来るメリットが有る事である。
私が常々に言っている『移動サービス』と言う言葉を余り使わ無い本当の理由は其処に有る。移動運用を続けて行う延長線上に必ず自分にもメリットが帰って来るのだから私流の拘りだが余り 『サービス』と言う言葉は使いたく無いし、移動運用する局は沢山呼ばれる事を、目的に行っているのだから「呼んで頂いてなんぼ」の世界、呼ばれなければ寂しい限りで基本的に対等の関係、時々、其の事を勘違いした局のオペレートを聞く事が有るが移動運用する局は『呼んでくれて有難う』の気持ちは忘れては成らないと思う。
平取町は自分の予想した成果には程遠い感があったが、今思うとコンディションの読みもオペレート技術も未熟で有った様に思う。もし次の機会に訪れる事が有れば是非、再挑戦してみたい町である。
函館山からの景色は山頂付近のガスのため最後まで見れなかったので諦めて登山道を下り七飯町~森町~八雲町~長万部町~黒松内町~蘭越町~経由して5号線を北上しニセコ町に入った。この町に来たのは若い頃にスキーに狂って居たので若い頃からの憧れのスキー場、ニセコ・アンヌプリ国際スキー場を見たかったからで有り、残念ながら雪の無い真夏の時期の訪問と成ったが夏草の生えたゲレンデの下に行き冬場の景色を想像したりした。
私は帰り道にニセコの道の駅「ニセコ・ビュープラザ」に立寄った後に真狩村に向かい運用も考えたが、この村は比較的多く移動運用が行われているので次の観光予定地の洞爺湖に行く手前に留寿都町と洞爺湖町の境界に運用出来る場所が有る事を聞いていたので230号線を南に下がり洞爺湖町との境界の50m位手前の空き地に車を入れ(北緯42度41分09秒 東経141度50分28秒 海抜227mH)アンテナを設営して16:58~20:28JSTの間、留寿都町の移動運用を7MHzで行い144局と交信した。運用後、其の場所で車中泊と成ったが其処はU字型に曲がる底の部分に在って洞爺湖町から入った後の勾配の有る坂道の上り口に有ったので深夜の大型車の通行時は可也騒がしかった。
早朝、早起きしてアンテナを撤収し70m位、移動した場所に同じ様な空き地が在りフルサイズの逆Vアンテナを張るには狭かったのでモービル・ホイップ・アンテナで洞爺湖町を05:00~07:33JSTに7MHzで運用し64局と交信した。やはりアンテナの相違は歴然として結果に現れ、電波が飛ばなかったと言うより受信能力の低下によるスムーズなピックアップが出来なくて実績が伸び無かった事を実感した。
運用後、230号線を南に向かい66号線で洞爺湖の北側の財田に出た。この標識を見た時、この地名に何か見覚えが有ると感じたが其の時は解らず湖面が見える所まで車を進め辺りを散策した時に洞爺湖周辺を開拓した記念碑を読んだ時に其の事が理解出来た。この洞爺湖の開拓は香川県の財田地区から北海道に渡った先人が定住し艱難辛苦の末に開拓した場所で有った。
香川県内では此の在所名は「サイタ」と読んでいた様に思うが北海道では「タカラダ」と読むと地図には書いてある。北海道の開拓の為に日本全国からの入植者が其々の地区に入植し開拓したので生まれ故郷に関係ある地名が沢山残っている『伊達市や新十津川村』等は其の代表的な地名である。其れから北海道の地名は主要都市は普通の感覚で読み書き出来るが少し地方に入ると原住民であるアイヌ族が名づけた呼び方に(発音)漢字を宛てた物が多く私が移動運用した場所では占冠(地図上はシムカップ、近くの人はヒメカップと言っている)納沙布(ノサップ)興部(オコッペ)等、数えれば切りが無いが私が一番読み方が解らなかったのが弟子屈(テシカガ)で時々クイズにも出ているのを見た事が有る。本当に日本の固有名詞の読み方は複雑で難しい。
其の後、洞爺湖を一周して453号線~276号線で壮瞥町~伊達市~千歳市に在る支笏湖に向かった。この日は天候が悪く曇天の中の観光だったので洞爺湖は一周し支笏湖は南側を半周したが摩周湖の様な人の手が入って居ない神秘的な美しさや阿寒湖の様に観光的に開けておらず周回道路回っても直接湖を見渡せる場所は数箇所しかなく期待していた物とは少し違った感じで有った。そして16号線で千歳市に向かった。
上段1~3枚目までは洞爺湖の北側の財田地区の写真で4枚目は洞爺湖の浮見堂の写真、下段は支笏湖の写真と立寄った樽前荘(2枚目)3~4枚目は伊達市に有る道の駅「フォーレスト276大滝」大型の駐車場とログハウスの様な建物でお客さんで賑わっていた。
私は移動運用した今金町のピリカダム湖を出発230号線で東進し八雲町の国縫から国道5号線に入り森町~七飯町と進み七飯町に入って直ぐに左折した先に大沼が有った。今金町で晴れていた天気もこの日は曇天、おまけに大沼には霧が張り視界は良くは無かった。大沼と小沼の境の大沼町の中心地は土産店や観光客相手の商店や設備が有ったが其れ以外は静かで閑散としていた。
一回りして七飯町~函館新道を経由して函館市内へ ところが此の日は偶々函館市の「港祭りの日」で函館市内への車は停滞していた。函館新道を降りて函館山のロープウェイの駐車場まで行くのに1時間半以上掛かった。そして二十間坂の途中にある函館山に上がる為の駐車場に入る車の列の最後尾に並んだが1時間待っても1台も駐車場に入れず列は進まないので途中で列を離れて緑の島や隣の倉庫が立ち並ぶエリヤに進んだが何処も通行制限が有りお巡りさん路地毎に並び中には入れてくれない。
やがて花火が上がり始めると同時に強い雨が降って来た。最終的にどうにも成らないので七飯町まで下がり「一文字峠下店」の反対側の大きい駐車場に車を入れ車中泊した。確か近くにラーメン店が有った様に思う。この日の夜は雨降りで無線をする気にも成れなかった。
翌朝、雨が上がったので昨日と同じコースを進んで函館山を目指したが今度は30分位で到着した様に思う。昼間は函館山は車で上がる事が可能なので登山道を車で上がったが昨日の雨の影響で山頂は霧が出て殆ど視界が取れず、函館山の標識と霧に霞む函館市街が僅かに見える程度、仕方なく証拠写真のシャッターを切った。
今回も又、層雲峡、摩周湖、美幌峠、知床峠、知床五湖に続き私の運の無さを痛感した。この地も翌年の6月に再訪問し其の時は函館山からの100万ドルの夜景を堪能する事が出来たが、これらの事から2009年の夏が如何に天候不順であったかを物語っている。
私は赤井川村での運用後、道道の1022号線で仁木町に入り銀山を経由して外輪山の中の一本道を西方向に走り大江と言う場所で国道5号線(羊蹄国道)をに入り稲穂トンネルを抜けて共和町に入る。共和町の「道の駅 いわない」辺りから229号線に入り泊原発を見る為に泊村へ上段1枚目の写真が泊原発入口の海水浴場、右手の奥の岬が雷電岬で有る。そして引き返す形で共和町~蘭越町~寿都町に入り2枚目の写真の道の駅「みなとま^れ寿都」で休憩し其の後3枚目の弁慶の像が有る弁慶崎で写真を撮った後、島牧村を通過してせたな町の町筋で230号線に入り今金町の東の端に有るピリカダム湖へ向かった。
この時の旅行で島牧村は是非運用したい場所で有ったし其の為に此のコースを選択したのだが天候の不良で行程が遅れてしまい。お盆前の8月11日までに徳島に帰らねば成らなかったので「道の駅よってけ島牧」に立寄り島牧村か今金町で運用するか随分迷ったが?此の時は最終的に今金町を選択した。その時の残念な思いも有り翌年の2010年の移動では島牧村、共和町、泊村、そして積丹町の隣の古平町を運用した。
上段4枚目から下段2枚目までは せたな町に入るまでの日本海側の海岸線に有る景色を撮った物、順番に「藻岩の滝」、「ゴジラ岩」、「窓岩」、「瀬棚の三本杉岩」である。
ピリカダムに思った寄りも早く到着したので北方向の奥手の奥美利河温泉に向かう事にして細い道をドンドン進むと可也奥に下段の4~5枚目の写真の温泉が有った。4枚目が本館、5枚目の写真の手前の建物が温泉の建物である。入浴料金を払う為に上の建物に入ると驚いた。凄い美人の若い女性が受付をしていた。男ってつくづく「馬鹿だな~」と思う。幾ら頑張っても どうなる事も無いのだが?つい嬉しく成ってしまう。正直、こんな山奥に場違いな美人が居るとは以外な展開、道内で見た女性の中では一番の美人で有った。
料金を支払い下の温泉場に行くと二人だけ先客が居て一人は同年輩、もう一人は大学生風の若い人で同年輩の人は離れた所に居たので若い人と露天風呂に浸かりながら話が始まった。彼は東京から来た大学生で夏休みを利用してオートバイで道内を2週間位で回っているとの事、今回の北海道旅行は天気が悪くオートバイでの移動は大変だった事を話していた。天気の良い日は颯爽と追越して行くので「カッコ良いな~」と思っていたが其々に泣き所が有る事を知った。
この露天風呂は湯度が高く無く30分以上、世間話をしていても、湯でのぼせる事なく露天風呂に浸かりながら話を続ける事が出来た。最後に受付の娘さんの話に成り盛り上がったが彼も驚いた様であった。同世代の人が何時の間にか近づいて嬉しそうな顔していたので心の中で『御主も一緒で御座るか?』と思っていたが大学生の彼が脱衣所で『確かでは無いですが、あの小父さんは上の建物のマスターで彼女のお父さんらしですよ、お風呂に入っていたのは湯加減と露天風呂の汚れの確認を行なって居るらしい』と教えてくれた。
同類項と思って居たが「こりゃ失礼しました!」である。彼と別れ際に「良い旅を」と言うと「小父さんも御元気で良い旅を」の後「僕は来年もまた来ます。」と笑いながら言ったので『頑張!』と言ったらフル・フェイスのヘルメットを被って左手を上げて心地よい爆音を響かせながら坂を駆け下って行った。此れは一寸した映画のラストシーンの様な光景で有った。
其の後、私も山を下り、ピリカダム湖の駐車場でアンテナを設営し7MHzで18:05~翌日の01:33JSTと早朝の06:14~09:14JST間 運用し其の後の21MHzで09:23~13:54JST間、運用し合計348交信し 其の中で21MHzの交信は132局で有った。此の日は昼間のハイ・バンドのコンデイションに恵まれ余り出ていない今金町で2MHz帯で数字が残せたが、この段階で此の町は私にとっては未だ未交信の町で有った。
私は小樽での観光を終えて5号線で余市町まで戻り36号線で南下して最初の写真の建物のA BRAND GOLFU HOTELの横を通ったのでホテルの駐車場に入り休憩を取った。大きいホテルでヨーロッパの中世のお城風の建物がグリーンの芝の絨毯の上に建っており風格が有った。
其の後「冷水峠」346mHを超えると赤井川村に入った。赤井川村は東西南北が350~800mHの山に囲まれた(外輪山)擂り鉢の底の様な場所に有り、村の中心部から見ると南西方向のみ海抜150mHくらいの平地で仁木町と接している。この村は確か道の駅も無く北海道では余り出ていない地区で確り運用する為、近くに人家の無い、道路脇の駐車場に(北緯43度02分59秒 東経140ど50分38秒 海抜156mH)車を入れ運用した。
運用は7MHzで17:15~22:11JSTと翌朝の06:14~08:07JSTの間行い251局と交信した。この時期は夜のパスが安定していたのか?積丹町に続いての250局をオーバーする実績を達成する事出来た。赤井川村は移動運用場所は広い場所が所々に有ったが今、思うと冷水峠の頂上部分に傾斜は有ったが共和町と2ポイント運用できる348mHの場所が有りカーナビに登録はしたが村役場の方に下った為、再度引き返して山を登るのが面倒で諦めたが其の場所で運用すればもう少し実績が出たかもしれない。最後の写真は仁木町辺りを走行中、車を止めて取った羊蹄山の写真で有る。
私は余市町のニッカウィスキー工場の見学を終えて小樽市の小樽運河へ出かけた。現地に行くまでは可也広域な運河と思っていたが、現地に着くと私が思っていた程 大きく無く人出で賑わっている所は300m位で運河の川幅もそう広くは無かったが写真1~2に見える運河べりの通路は若い女性やカップルの往来が有り。通路には似顔絵を書いたり絵や絵葉書を売ったり手製のアクセサリー等を販売する露天商が並び賑わっていた。
対岸の運河べりにはレンガ作りの昔風の倉庫が立ち並んでいて、それ等の内部を改造した飲食街が出来ていてその規模の大きさに驚いた。大きい倉庫の内部に沢山の店が並ぶ場所も有れば、大きい面積にテーブルが沢山並ぶレストランは有るし私が訪れた時間帯が13時頃であった為、殆どの座席はお客さんで埋まり非常に活況を呈していた。私も何か食べようと中に入ったが座席が空いておらず一回りする内に、元は倉庫作りの為、窓が少なく換気が悪いせいか?ジンギスカン料理の煙と、人熱れの為に気分が悪くなり何も食べずに外に出る事と成った。
運河の西側は海、小樽は函館と並ぶ海の玄関口、沢山の商船や貨物線や、海上保安庁の船舶が係留されており私としては其方の方を見るのが楽しかった。運河の東側は札幌に至る5号線が走っており国道の反対側に櫓風の展望台(写真下段の2枚目)が有り上がって撮った写真が1枚目と2枚目で有る。1枚目の写真の人力車は若い女性に人気が有る様で車夫もイケメンが多かった様に思う。
2時間くらい掛けて周辺を散策したが爺さん一人で行く所では無い事だけは良く理解出来た。道東、中央部、北部と天候に恵まれなかった旅が写真の様に青空が広がり天気が安定の兆しをみせ始めたが北海道の旅も既に終りに入りかけていた。