ハン・ガンのエッセイ集だ。
『菜食主義者』『少年が来る』『ギリシャ語の時間』と、いつもいつも圧倒された韓国の作家ハン・ガン。
彼女の音楽にまつわる記憶のエッセイといえばいいのだろうか。
4つの章から構成されている。
第1章「くちずさむ」は、子ども頃からの音楽との関わりを描く4つのエッセイでできている。
第2章「耳をすます」は各エッセイに曲の作詞、作曲者名が記され、ハン・ガンの思い出の曲についての感想や
その曲を聴いていたときの自分自身の記憶などが書かれている。その表現は上質な文学の表現になっていて、
感覚的であったり、滲むような情感があったり、思索的であったり、詩的であったりする。なによりもその曲を、
聴きたくなり、その詞に出会いたくなる。また、引き出される作家や詩人の作品に触れたくなる。ハン・ガンの、
音楽への、文学作品への思いが、丁寧に描かれている22篇だ。
3章「そっと 静かに」の10篇は、ハンガンが作詞作曲をし、そして歌った曲の歌詞と、その時のいきさつや心情が
書かれている。最初、詩集でデビューした彼女の、詩に寄せる思い、そして詩を載せる曲への愛情が溢れている。
そして4章「追伸」。この中の「ごあいさつ」というエッセイは、「あとがき」によると挨拶として冒頭にあった章らしい。
確かに挨拶の側面を持っているが、他の2篇は夢のような、夢を描いた小品になっている。
ハン・ガンのイメージやその表現は、こちらを包んでくるようだ。ことばへの愛情と敬意を持ち、だからこそ、
ことばの持つ困難を引き受けて生きている作家。そして、それだから、困難の先に表れる表現の喜びのようなものが伝わって
くるような気がする。その痛みと共に。
ある日の夕暮れどき、ふいに舌先にぶら下がってきた昔の歌をくちずさんだことがあるだろうか。
胸が苦しくなったり、刺されるように痛んだり、ぽかぽかと温められたりしたことがあるだろうか。
ほかならぬその歌の力で、長いこと忘れていた涙を流したことがあるだろうか。 (「歌の翼」)
そういえば風という言葉も、日差しという言葉も出てこないのに、なんて光と風に満ちた歌なのだろう。
今もたまにくちづさむことがあるけれど、歌えば歌うほど心に響く、金素月の詩が持つ呪文の力とともに、
単純な旋律が穏やかに光ながら体を満たす。 (「母さん姉さん」)
どれくらい聴いたら、歌は体に刻み込まれるのだろう。 (「You needed me」)
(略)夜に清涼里から江原道へと出発する列車に何回か乗った。たくさんの駅で人々が乗って降りて、
寝る者は寝て、騒ぐ者は騒いでいるあいだ、その果てしなく黒い夜を全身で突き抜けながら通り抜けてい
く列車の轟音を愛した。枕木と、線路と、そのあいだに生えている乾いた草を愛した。淋しくなかった。
すべてはただ、満ち満ちていた。 (「500 miles」)
ふと振り返ると、日が暮れる直前の青味の残る空の下、家並みは優しく寄り添い、子どもは私の手を
握ったまま歌に耳をすましていて、私はその瞬間、この世の誰よりも幸せな人間だった。
ありがとう、少女のように昔の歌を歌っていたイイダコ料理屋のおばさん。ありがとう、守護天使の
ように私たちについてまわる歌の数々。その歌に乗って飛び交う幾多の時間。懐かしい昔の想い……。
突然、背後から私たちを呼び止める、あの声や音。 (「麦畑」)
各エッセイが歌のタイトルになっているし、それぞれで扱われた詩や歌詞が、かなり引用、掲載されている。
また、記憶と重なる曲は、韓国の70年代、80年代のフォークソングやロックバンドから、ピーター・ポール&マリー、
ジョーン・バエズ、メルセデス・ソーサ、「Let it be」それに「菩提樹」などさまざま。さらに、それに李箱や白石
などの文学畑の作者もいるし、パンソリなどの伝統音楽も入ってくる。
各エッセイについている歌手や詩人、作家などの註釈がとてもいい。そのまま、聴きたい、読みたいリストになる。
本の題名『そっと 静かに』はうまい訳だなと思う。
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