読了。
すごかった。「形而上小説」か。
埴谷が圧倒的な影響を受けたドストエフスキーのように、とにかく語り合いで、思索と思索の交錯で、ほぼ全篇が貫かれている。
といいながら、とても詩的な情景描写や心象描写もあり、その文体のうねりにも酔えた。
今回の巣ごもり状態で埴谷の世界を堪能した。で、最後の2章の時に巣ごもり状態が終わり、それからが案外時間がかかった。
学生の頃知人は浪人生活の時に勉強しないで読んだよと言っていたけれど、そんな状況が読みを進めるのかも知れない。
太平洋戦争後すぐに書き始められ、長い中断を経て75年に5章が書かれ、9章は95年。そして未完で終わっている。
ほぼ50年。小説で描かれる内部粛正や活動家といった状況は時代の流れの中で変質したが、当初から作者が抱えていたであろう問題や
思索を一貫して壮大に描きあげていく驚嘆の小説。
そしてこの長いスパンによって、一貫する問題でありながら科学の進化深化に沿って、より新しい宇宙論や量子論が加わっているように思う。
散りばめられた観念を表すことばやイメージ、そして暗黒や深淵を思索しながらも随所に溢れる諧謔。
会話の途中に入る「あっは」や「ぷふい」という感嘆詞も含めて思わず笑ってしまう表現もたくさんあるのだ。
はじめのはじめの単細胞生物の語りから宇宙のみる夢までの極小から無限大へと駆けめぐる想念。
そして、その中のわずか200万年ほどの人類が生み出した誤謬の歴史。私は私を離れられるのか。
実体と虚体。虚在と虚無。我が我である自同律の不快。「我」に拘泥し、囚われたところで思考の袋小路に陥る現象世界を
超えることは可能なのか。そもそも可能は不可能、不可能は可能、「ある」は「ない」で「ない」は「ある」などなど。
窮極の革命、窮極の自己否定とは。思念が思念の宇宙をつくっていく。それこそがまさに虚体の宇宙になっていく。
ああ、これは案外、今のアニメ世代の人にも受けるのではと思った。
突き抜けていく小説はSFのジャンルにも入っていく。
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