共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

横浜の名刹

2015年06月13日 23時17分49秒 | 旅行
今日は、明日で展示が終わってしまう展覧会を観に、横浜の金沢文庫に出かけました。都内から来ると結構遠いイメージがあるかも知れませんが、横浜駅から京急線の快速特急に乗ると2駅目には着いてしまう、意外と手軽なところです。

金沢文庫駅から歩いて15分ほどのところにある、駅名にもなっている金沢文庫を有する称名寺に来ました。ここは関東地方では数少ない真言律宗の別格本山で、鎌倉時代に幕府重臣の一人だった金澤北条氏の祖・北条実時が営んだ阿弥陀堂が発祥と言われています。

赤く塗られた南門、通称赤門をくぐって参道を進むと、唐破風のついた立派な仁王門が現れます。そのあまりの立派さに、ここが横浜市内であることを一瞬忘れそうになります。

金沢文庫を訪れた人も、お寺を訪れた人も、みんな先ずはここで記念撮影をしていました。
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貴重な浄土式庭園遺構

2015年06月13日 23時16分43秒 | 旅行
仁王門の脇にある入口から寺域内に進むと、広々とした池と、そこに架かる特徴的な反橋が目に飛び込んできます。

この庭園は、特に平安時代以降に数多く造営された浄土式庭園の様相を窺い知ることができる貴重な遺構で、関東以北にはここと奥州平泉の毛越寺にあるのが有名です。この地にこれほど洗練された庭園遺構が遺されているのには、一つに勧請主であった北条実時の孫の北条貞顕(さだあき)が、11年もの長きに渡って六波羅探題(京都の守護職)に就いていたことと密接な関係があると言われています。

最盛期には三重塔や講堂、僧坊に修験道の熊野宮まで、文字通り七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院でした。しかし、鎌倉幕府が滅亡し、それと共に金澤北条氏も滅んでしまうと以後急激に寺運が衰退し、再興は江戸時代を待たなければいけませんでした。

この庭園は、遺されていた伽藍の絵図と発掘調査とを基に整備が開始され、1987年に復元されたものです。浄土曼陀羅に基づいて金堂前の池の中の島に架けられた反橋と平橋の影が水面に映る様は、実に趣深い光景です。
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秘仏公開

2015年06月13日 23時15分13秒 | 旅行
称名寺の敷地の西側に小高い崖線が延びていて、その一部に隧道が開けられています。その隧道を進んだ先に《神奈川県立金沢文庫》があります。ここは北条実時が集めた内外の書籍を保管していた文庫ですが、ここで明日まで《日向薬師》展が開催されています。

《日向薬師》とは伊勢原市にあるお寺で、正式には日向山霊山寺宝城坊(ひなたさんりょうぜんじほうじょうぼう)といいます。寺伝では716年に、東大寺建立に多大な影響力を発揮した行基菩薩が開基と言われていますが、詳しいことは資料が焼失してしまったりして明らかではありません。ただ、発掘調査では平安時代頃の遺物は多数発見されているようです。

現在、本堂の解体修理が執り行われていて、来年秋に落慶予定です。今回の展示は解体修理中の本堂の様子を紹介すると共に、普段お寺では拝することの出来ないくらい間近に秘仏本尊や十二神将を観賞出来るという、又とないチャンスのものです。

古くから霊験新たかな名刹として知られていたようで、952年には時の村上天皇から梵鐘を下賜されていました。また、百人一首にも歌が収められている女流歌人の相模が1020年に夫と共に相模國に下向の折に眼病に罹り、この薬師如来に平癒を祈願したところ完治したため

『さして来し日向の山を頼む身は 目も明らかに見えざらめやは』

と詠んだことが、文献上で最も古い登場のようです。

また源頼朝と北条政子との崇敬は非常に篤く、政子の安産祈願や子供の病平癒、果ては頼朝自身の歯痛封じまで、自身で何度も足を運んだり、使者を遣わしたりしていることが、鎌倉時代の史書《吾妻鏡》に記載されています。

現在、このお寺の秘仏本尊として安置されているのが、鑿(のみ)の削り跡を意図的に残した鉈彫り(なたぼり)という技法で作られた名品として知られている薬師如来及び両脇侍像です。桂の木の一木造りで、重要文化財に指定されています。造像は恐らく梵鐘と同じ頃とされています。

かつては、関東から東北にかけて作品の多い鉈彫りの仏像は未完成の未熟なものとして不当に低い扱いを受けていた時代がありました。しかし現在では、この一見荒々しい鑿跡が残る状態で完成形であるという考え方が一般化しました。

ただ、この宝城坊の薬師如来像にしても、何故このような粗削りな仕上げをするようになったのか…一説には法華経に説かれる『従地湧出(じゅうちゆしゅつ=仏が地から湧いて出現する)』の様を表したものであるとか、或いは日本に古来から連綿と伝わる霊木信仰に基づいて、霊験新たかな古木から仏像を彫り上げるのに際して、霊木の質感を残しつつ造像したものであるといった諸説があるのですが、真相は未だ謎のままなのだそうです。

普段は年に数回、しかも御厨子の中に入った薄暗い状態での拝観となるのですが、今回は明るい照明の下、鑿跡がくっきりと残る細部に至るまでじっくりと観賞することができました。来年の秋の落慶法要には、久しぶりに御山に行ってみようか…とも思いました。
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