今日は日中は久しぶりの夏日となりました。しばらく涼しい日和に慣れかけていた身体に、この暑さは堪えます…。
そんな中、今日は郵便局預かりになっていた郵便物を受け取ってきました。本当はもっと早く届いていたのですが、配達の都合と私の都合とがなかなかリンクせず、やっと今日になって受け取れました。
届いたのは、様々な仏像の写真の絵葉書です。これは、私の知り合いのピアニストのお母様がお好きで集めていらしたものだそうですが、遺された側としてもどうしていいやら決めあぐねていたものということでした。
そして先日
「もし良ければもらってくれないかしら?そうでなければ焚き付けにでもしちゃおうと思うんだけど。」
という連絡があり、焚き付けだなんて勿体ない!ということで頂戴することになったのです。
封を開けてみると、中には様々な仏様の絵葉書が入っていました。一部重複するものもありましたが、恐らくお母様が様々なお寺に参詣されたり美術展に足を運ばれたりした時にお求めになられたであろうメジャーなものからマニアックなものまでが、100枚ほどの束になっていました。
こうして見ると、仏様というのは様々な姿かたちで我々衆生の前に現れるものです。ただ穏やかなだけでなく、時には大日如来が火焔の光背をまとった憤怒の形相の不動明王に化身して、愚衆に改心を迫ることもあるのです。
よく仏典で『慈悲』ということが説かれますが、一般に使われる『慈悲』という言葉は、本来の意味合いと違ってきてしまっているというお話を、かつてあるお寺の僧侶から伺ったことがあります。それによると『慈悲』とは本来『慈父の情』と『悲母の愛』という二つの側面を併せ持つ言葉だというのです。
『慈父の情』とは、獅子が時に自らの子を千尋の谷に突き落とすような厳しさを差し、『悲母の愛』とは、たとえ我が身を八つ裂きにされようとも我が子だけは守りぬいてみせるという無償の愛を差します。そして、これらはどちらか一方だけではダメで、その両方を併せ持ってはじめて『慈悲の情愛』と言えるのです。そうでなければ、厳しさだけだと単なる肉体的精神的虐待になりかねませんし、ひたすら無償の愛を注ぐだけだと世間知らずの甘ったれに育ててしまう恐れがあるのです。
ともすると昨今は、感情に任せて我が子が死ぬ程の虐待をする親や、他人の物を盗ったりして迷惑をかけていてもキチンと叱れないどころか「うちの姫、うちの王子は悪くない!」と庇いだてして憚らない2チャンネルのネタみたいな親がいたりしますが、これらは皆『慈悲の情愛』の意味を取り違えていることに他なりません。そんな親に育てられた子供は、大なり小なり性格のねじ曲がった図体ばかりでかい『イタい人間』に育ちます。それは本人にとっても社会にとっても、大いなる損失なのです。
子供を叱るということは勇気を伴います。何故なら、叱る側の大人は自身の人格と理性をかけて全身全霊で、しかも至って冷静にぶつかっていかなければならないからです。これは相当の精神力と体力を消耗します。しかし、それでも怯まず真正面から対峙することが、人生の先達たる大人の役目です。
ただ、そうは言っても人間のすることですから力量に限界はあります。そうした時に、昔は神仏の威徳を借りて「御天道様に顔向け出来ないようなことをするんじゃありません」とか「仏様のバチが当たるよ」とか「恥を知りなさい」と言って叱られたわけです。
先日再認識した《神棚拝詞(かみだなはいし)》の文言にも『直き正しき真心もちて誠の道に違ふこと無く、負ひ持つ業に励ましめ給ひ、家門高く身健やかに、世のため人のために尽くさしめ給へ』とあるように、かつて日本人は普段から天地神明に恥じない生き方をしますと誓願を立てて生きて来たはずなのです。しかし、昨今は宗教的な意味合いを含むことを口にすることそのものがタブーのようになってしまっていますから、そうした宗教的倫理観も備わりにくくなってしまっているのでしょう。
はからずも我が家においで頂いたこれら諸尊の御姿を拝し、改めて身の引き締まる思いを再認識したのでありました。
そんな中、今日は郵便局預かりになっていた郵便物を受け取ってきました。本当はもっと早く届いていたのですが、配達の都合と私の都合とがなかなかリンクせず、やっと今日になって受け取れました。
届いたのは、様々な仏像の写真の絵葉書です。これは、私の知り合いのピアニストのお母様がお好きで集めていらしたものだそうですが、遺された側としてもどうしていいやら決めあぐねていたものということでした。
そして先日
「もし良ければもらってくれないかしら?そうでなければ焚き付けにでもしちゃおうと思うんだけど。」
という連絡があり、焚き付けだなんて勿体ない!ということで頂戴することになったのです。
封を開けてみると、中には様々な仏様の絵葉書が入っていました。一部重複するものもありましたが、恐らくお母様が様々なお寺に参詣されたり美術展に足を運ばれたりした時にお求めになられたであろうメジャーなものからマニアックなものまでが、100枚ほどの束になっていました。
こうして見ると、仏様というのは様々な姿かたちで我々衆生の前に現れるものです。ただ穏やかなだけでなく、時には大日如来が火焔の光背をまとった憤怒の形相の不動明王に化身して、愚衆に改心を迫ることもあるのです。
よく仏典で『慈悲』ということが説かれますが、一般に使われる『慈悲』という言葉は、本来の意味合いと違ってきてしまっているというお話を、かつてあるお寺の僧侶から伺ったことがあります。それによると『慈悲』とは本来『慈父の情』と『悲母の愛』という二つの側面を併せ持つ言葉だというのです。
『慈父の情』とは、獅子が時に自らの子を千尋の谷に突き落とすような厳しさを差し、『悲母の愛』とは、たとえ我が身を八つ裂きにされようとも我が子だけは守りぬいてみせるという無償の愛を差します。そして、これらはどちらか一方だけではダメで、その両方を併せ持ってはじめて『慈悲の情愛』と言えるのです。そうでなければ、厳しさだけだと単なる肉体的精神的虐待になりかねませんし、ひたすら無償の愛を注ぐだけだと世間知らずの甘ったれに育ててしまう恐れがあるのです。
ともすると昨今は、感情に任せて我が子が死ぬ程の虐待をする親や、他人の物を盗ったりして迷惑をかけていてもキチンと叱れないどころか「うちの姫、うちの王子は悪くない!」と庇いだてして憚らない2チャンネルのネタみたいな親がいたりしますが、これらは皆『慈悲の情愛』の意味を取り違えていることに他なりません。そんな親に育てられた子供は、大なり小なり性格のねじ曲がった図体ばかりでかい『イタい人間』に育ちます。それは本人にとっても社会にとっても、大いなる損失なのです。
子供を叱るということは勇気を伴います。何故なら、叱る側の大人は自身の人格と理性をかけて全身全霊で、しかも至って冷静にぶつかっていかなければならないからです。これは相当の精神力と体力を消耗します。しかし、それでも怯まず真正面から対峙することが、人生の先達たる大人の役目です。
ただ、そうは言っても人間のすることですから力量に限界はあります。そうした時に、昔は神仏の威徳を借りて「御天道様に顔向け出来ないようなことをするんじゃありません」とか「仏様のバチが当たるよ」とか「恥を知りなさい」と言って叱られたわけです。
先日再認識した《神棚拝詞(かみだなはいし)》の文言にも『直き正しき真心もちて誠の道に違ふこと無く、負ひ持つ業に励ましめ給ひ、家門高く身健やかに、世のため人のために尽くさしめ給へ』とあるように、かつて日本人は普段から天地神明に恥じない生き方をしますと誓願を立てて生きて来たはずなのです。しかし、昨今は宗教的な意味合いを含むことを口にすることそのものがタブーのようになってしまっていますから、そうした宗教的倫理観も備わりにくくなってしまっているのでしょう。
はからずも我が家においで頂いたこれら諸尊の御姿を拝し、改めて身の引き締まる思いを再認識したのでありました。