東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

300年の歴史が詰まった吉原弁財天

2015-07-04 | 散歩
  吉原遊郭は元々日本橋の近くにあったが明暦の大火で全焼、
  幕府は浅草の外れの湿地を埋め立てこれを移した。
  葦(ヨシ)が生い茂っていた湿地は葦原と呼ばれていたが縁起がいい名にと吉原に、
  以降”新吉原”と呼ばれ”元吉原”と区別される。


  

     狭いので入口を入ったらすぐ突き当たる、右へ弁天様の祠。
     通路以外は記念碑、石仏、その他江戸から今への300年がびっしり詰め込まれている。



  

  こんなに狭いのに休憩所があった、後ろは「花吉原名残碑」、
  中央の幟には「家田荘子」の文字も見える、僧侶なんだってね。
  (家田荘子=女性の人生は「深くて優しい」ので、
  ずっと女性を取材し、常に弱者の立場に立って、描き続けている。)



             

             「ニ神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり
             中の頃 江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ
             明暦三年故ありて 廓この地に移り 名も新吉原と改む
             爾来年と共に繁榮し やがて江戸文化の淵叢となれり
             名妓妍を競ひ万客粹を爭び 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと・・・・・



             

             この廓や月花雪も三菩薩   黒澤槭翠?
             いろいろ調べたけどこれは分からなかった。



             

             白蛇が祀られていて蛇塚も。



             

             ここには吉原関係の他に関東大震災、戦災の犠牲者の慰霊碑もある。
             これは関東大震災の犠牲者の霊をを慰める慰霊碑。



  

     吉原炎上。「新吉原遊郭花園池避難者ノ惨状大混乱之眞景」
     吉原は何回となく大火に見舞われたがその都度復活し昭和33年の売防法施行まで続いた。



  

     吉原造成の際一部は湿地・池として残り池のほとりには弁天様が祀られ信仰を集める。
     池は弁天池(花園池)として残ったが関東大震災の際多くの人たちがこの池に逃れ
     490人が溺死という悲劇が起こった。
     その池も昭和34年NTT吉原局建設に伴い埋められ、この祠の前にわずかに残るだけになった。



             

             弁天様の祠、
             壁の絵は東京芸大、武蔵野美大、多摩美大の学生と卒業生が描いたという。



  

     遊女たちの信仰の場、憩いの場となりさらに500人近くが命を失った弁天池
     今では当時を偲ぶよすがもなく名前だけが残る。



  

     この奥に弁天様が。狭い、二人並ぶと肩が触れ合う。



             

             狭い格子のすき間から弁天様を。
             宇賀弁財天像、市杵嶋姫命。下の方には白蛇の姿も。


             吉原の遊女の悲哀はあまりにも多く枚挙にいとまがない、
             反面文化芸能には多大な影響を与え数多くの吉原発の文化が生まれた。
             吉原を語るにおいてはこれらを忘れてはいけないだろう。


                                                  6月27日
          

            
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