江戸に住んでいた一茶は度々炎天寺を訪れていたようです、
タイトルの句はここで詠んだとか。
隣りには源頼義ゆかりの八幡神社があり
古奥州街道の昔を偲ばせます。
増田橋から一番左の路へ入って信号を2つ過ぎ
右に熱帯魚屋さんを見たらその奥に炎天寺。
1056年、炎天続きの旧暦の6月、奥州征伐の途中源頼義・義家父子は
この地で野武士と戦い苦戦、京の八幡宮に祈念し辛くも勝利した。
義家は八幡宮を建立、村の名を六月(ろくがつ)、寺の名を炎天下の勝利にちなんで
炎天寺とした、形ばかりの垣根を挟んで八幡宮と炎天寺は並んでいる。
蝉なくや 六月村の炎天寺
小林一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、
竹ノ塚の作家・竹翁東子などと炎天寺のあたりをよく歩き、
いくつかの名句を残している。
一茶の命日、11月19日の前後に「一茶まつり」が開かれる。
名物の「奉納蛙相撲」や全国小中学生俳句大会の表彰式など
イベントもたくさん、各地から大勢の俳句ファンが集まる。
やせ蛙 まけるな一茶 是にあり
痩せた弱そうな蛙を見て、
「負けるな!頑張れ痩せ蛙!私(一茶)がついているぞ!」
蛙が、繁殖期にメスをめぐってケンカしている、
痩せたひ弱なオス蛙は戦いに負けてメスをゲットできない。
50過ぎまで結婚できなかった自分と重ねあわせてしまったのか
痩せた蛙にむかって「頑張れ~」と、一茶が応援している。
こんな解釈もあるようです。
よくいらっしゃいました、ごゆっくりどうぞ。
地続きの八幡神社
この辺りは古奥州街道と言われる道路がすでに完成していたと思われる、
先日行った王子の金剛寺、この八幡神社、さらに後日行く予定の
白旗遺跡公園などなど道沿いに源頼義・義家父子の足跡がいろいろ残っている。
旗掛の松
源頼義・義家父子はこの地で山賊と戦って勝利を治めたが
その際松の大木に源氏の白旗を立て掛けて戦った。
その松が植え継がれて残っている。(伝)
炎天寺と八幡神社はこのように隣り合っている、
入り口付近こそ塀があるが奥は全くの地続きで自由に行き来できる。
八幡神社の入口には旗掛の松。
炎天寺から少し戻った道筋に立派な家と碑、
家は一般の民家みたいだけど歴史がありそう。
古奥州街道は旧日光街道の一本西側を走っている、
旧日光街道が整備されたので寂びれたのだろうか。
このまま奥へ進めば白旗塚古墳、
古墳時代初頭の6世紀前半頃の古墳群があり
源義家が奥州征伐時にこの地で白旗をなびかせて戦ったとの逸話から、
白旗塚と呼ばれるようになった。
ちょっと戻ればかつての海岸線があったという島根鷲神社がある、
海岸線付近で古代人たちが暮らし、
さらに海が後退したあと村は広がり道が出来
平安・鎌倉時代の人たちが往来していた。
私たちが何気なく暮らしているこの地も
歩いてみれば壮大なロマンがあった。
江戸時代もいいけどさらにその前の人々の営み、
血沸き肉躍る数々のロマンに浸った一日でした。
8月8日 旧日光街道から古奥州街道を歩く
タイトルの句はここで詠んだとか。
隣りには源頼義ゆかりの八幡神社があり
古奥州街道の昔を偲ばせます。
増田橋から一番左の路へ入って信号を2つ過ぎ
右に熱帯魚屋さんを見たらその奥に炎天寺。
1056年、炎天続きの旧暦の6月、奥州征伐の途中源頼義・義家父子は
この地で野武士と戦い苦戦、京の八幡宮に祈念し辛くも勝利した。
義家は八幡宮を建立、村の名を六月(ろくがつ)、寺の名を炎天下の勝利にちなんで
炎天寺とした、形ばかりの垣根を挟んで八幡宮と炎天寺は並んでいる。
蝉なくや 六月村の炎天寺
小林一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、
竹ノ塚の作家・竹翁東子などと炎天寺のあたりをよく歩き、
いくつかの名句を残している。
一茶の命日、11月19日の前後に「一茶まつり」が開かれる。
名物の「奉納蛙相撲」や全国小中学生俳句大会の表彰式など
イベントもたくさん、各地から大勢の俳句ファンが集まる。
やせ蛙 まけるな一茶 是にあり
痩せた弱そうな蛙を見て、
「負けるな!頑張れ痩せ蛙!私(一茶)がついているぞ!」
蛙が、繁殖期にメスをめぐってケンカしている、
痩せたひ弱なオス蛙は戦いに負けてメスをゲットできない。
50過ぎまで結婚できなかった自分と重ねあわせてしまったのか
痩せた蛙にむかって「頑張れ~」と、一茶が応援している。
こんな解釈もあるようです。
よくいらっしゃいました、ごゆっくりどうぞ。
地続きの八幡神社
この辺りは古奥州街道と言われる道路がすでに完成していたと思われる、
先日行った王子の金剛寺、この八幡神社、さらに後日行く予定の
白旗遺跡公園などなど道沿いに源頼義・義家父子の足跡がいろいろ残っている。
旗掛の松
源頼義・義家父子はこの地で山賊と戦って勝利を治めたが
その際松の大木に源氏の白旗を立て掛けて戦った。
その松が植え継がれて残っている。(伝)
炎天寺と八幡神社はこのように隣り合っている、
入り口付近こそ塀があるが奥は全くの地続きで自由に行き来できる。
八幡神社の入口には旗掛の松。
炎天寺から少し戻った道筋に立派な家と碑、
家は一般の民家みたいだけど歴史がありそう。
古奥州街道は旧日光街道の一本西側を走っている、
旧日光街道が整備されたので寂びれたのだろうか。
このまま奥へ進めば白旗塚古墳、
古墳時代初頭の6世紀前半頃の古墳群があり
源義家が奥州征伐時にこの地で白旗をなびかせて戦ったとの逸話から、
白旗塚と呼ばれるようになった。
ちょっと戻ればかつての海岸線があったという島根鷲神社がある、
海岸線付近で古代人たちが暮らし、
さらに海が後退したあと村は広がり道が出来
平安・鎌倉時代の人たちが往来していた。
私たちが何気なく暮らしているこの地も
歩いてみれば壮大なロマンがあった。
江戸時代もいいけどさらにその前の人々の営み、
血沸き肉躍る数々のロマンに浸った一日でした。
8月8日 旧日光街道から古奥州街道を歩く