前回の旧日光街道はキャンディーズのスーちゃんちまで、
今回は途中をちょっと飛ばして、うん何もないからね。
で、私の普段使いの駅から始めましょう、
私は毎朝6時8分ごろ現れます、気になる方はどうぞ。(爆)
東武スカイツリーラインの下をくぐる旧日光街道、
ほぼ直線で次の宿場まで続いているが
その間にもいろいろな歴史が見え隠れしている。
200mも行かないうちに左へ入る道、「大正新道記念碑」。
この道を行くと西新井駅を通過、西新井大師へ通じる、
作られた大正時代この辺は湿地でその中を新しい道路が作られた。
私が足立区へ来たころは西新井大師へは田んぼの道を歩いた、
カエルが鳴き、夜にはホタルが飛び交っていたのは50年前の話。
職場の先輩は「子供のころはすぐそこに大きな池があった」と。
横道へは入らず200mくらいで環七と交差、旧道は直進する。
右奥へ旧日光街道、左右は環七。
環七は都心と郊外を分ける道。
大災害時はここより都心方向へは車は進入できなくなる、
今年の9月1日にはかつてない大規模な訓練・演習が行われる模様で
長時間の通行規制が実施される。
ちょっと進んで西友を過ぎたら左に国土安穏寺への道。
この旧道の脇には竹ノ塚から千住へ流れる「千住堀」が流れていた、
ここで国土安穏寺へ。
上の記念碑の正面。
将軍家の日光墓参の折りに休憩・食事をしたという国土安穏寺への入口、
ここには松並木が続いていたという。
国土安穏寺には将軍が使ったという什器とかいろいろ残っている、
さらに何代目とかになるけど家光公お手植えの松も残る。
国土安穏寺の仁王門。
扉と奥の本堂には三つ葉葵の紋章が燦然と輝いている。
この辺りは将軍家の「御鷹場」、鷹狩りの場所だった、
近くには「鳥見役所」もあったらしい。
また、安穏寺八世・日芸上人が宇都宮つり天井事件を予言し
将軍は危うく難を逃れたため以降徳川家の祈願所となったという。
宇都宮つり天井事件とは日光参拝の折り
宇都宮城に泊まる予定の将軍の寝所に宇都宮藩主の本多正純が
つり天井を仕掛け将軍・秀忠の暗殺を図ったという事件。
本多家は改易、正純は流罪となった。
これには異説もあって元々事件はなく
宇都宮藩を取り潰そうとした幕府の陰謀とする説が有力だ。
古いことなのでいろいろな謂れ因縁があります、
お前は毎回違ったことを書くなんて言わないように、、、ね。^^;
7月31日 地元の旧道を歩く
今回は途中をちょっと飛ばして、うん何もないからね。
で、私の普段使いの駅から始めましょう、
私は毎朝6時8分ごろ現れます、気になる方はどうぞ。(爆)
東武スカイツリーラインの下をくぐる旧日光街道、
ほぼ直線で次の宿場まで続いているが
その間にもいろいろな歴史が見え隠れしている。
200mも行かないうちに左へ入る道、「大正新道記念碑」。
この道を行くと西新井駅を通過、西新井大師へ通じる、
作られた大正時代この辺は湿地でその中を新しい道路が作られた。
私が足立区へ来たころは西新井大師へは田んぼの道を歩いた、
カエルが鳴き、夜にはホタルが飛び交っていたのは50年前の話。
職場の先輩は「子供のころはすぐそこに大きな池があった」と。
横道へは入らず200mくらいで環七と交差、旧道は直進する。
右奥へ旧日光街道、左右は環七。
環七は都心と郊外を分ける道。
大災害時はここより都心方向へは車は進入できなくなる、
今年の9月1日にはかつてない大規模な訓練・演習が行われる模様で
長時間の通行規制が実施される。
ちょっと進んで西友を過ぎたら左に国土安穏寺への道。
この旧道の脇には竹ノ塚から千住へ流れる「千住堀」が流れていた、
ここで国土安穏寺へ。
上の記念碑の正面。
将軍家の日光墓参の折りに休憩・食事をしたという国土安穏寺への入口、
ここには松並木が続いていたという。
国土安穏寺には将軍が使ったという什器とかいろいろ残っている、
さらに何代目とかになるけど家光公お手植えの松も残る。
国土安穏寺の仁王門。
扉と奥の本堂には三つ葉葵の紋章が燦然と輝いている。
この辺りは将軍家の「御鷹場」、鷹狩りの場所だった、
近くには「鳥見役所」もあったらしい。
また、安穏寺八世・日芸上人が宇都宮つり天井事件を予言し
将軍は危うく難を逃れたため以降徳川家の祈願所となったという。
宇都宮つり天井事件とは日光参拝の折り
宇都宮城に泊まる予定の将軍の寝所に宇都宮藩主の本多正純が
つり天井を仕掛け将軍・秀忠の暗殺を図ったという事件。
本多家は改易、正純は流罪となった。
これには異説もあって元々事件はなく
宇都宮藩を取り潰そうとした幕府の陰謀とする説が有力だ。
古いことなのでいろいろな謂れ因縁があります、
お前は毎回違ったことを書くなんて言わないように、、、ね。^^;
7月31日 地元の旧道を歩く