折にふれて

季節の話題、写真など…。
音楽とともに、折にふれてあれこれ。

I beg your Pardon? その2

2021-06-06 | 自分史・家族史

 

前回の記事の続き。

 

     金沢市南綜合運動公園 2021.05.23  17:48       Sony α7S2  Planar 50㎜ F1.4ZA SSM (f/1.4 , 1/640sec , ISO100) 

 

大学二年、二十歳の時。

縁があって海外の留学生や研修生が寄宿する施設でアルバイトを始めた。

そこはアジア、中近東、アフリカ、中南米といった

当時、開発途上国と呼ばれた地域の人たちを受け入れて

日本語教育や日本文化の紹介など

日本企業での就業や研修を手助けする財団法人が運営する施設だった。

仕事はホテルでのフロント業務のようなものだったが、

日中は正規の職員が勤務し、夜間と休日は私を含めた6人の学生アルバイトが交代で担当した。

主には館内の案内や電話の取次ぎ、都内の交通案内など

中学生程度の英語力で大丈夫とのことだったので

外国人と交流することで自分の視野が広がるかな、という青臭い発想で応募したのだが、

そんな甘い話ではなかったことを身に沁みることになる。

それまで学んだ英語はほとんどが受験のためのもの。

言わば「畳水連」のようなもので、簡単な会話さえ全くついて行けなかったのだ。

他の5人は施設からほど近い東京外語大学の学生で

英語はもちろん聞いたこともないような外国語を流暢に話していた。

すぐに辞めようと思ったのだが

武道系の運動部に所属していたので

「ここは外国人同士のもめ事も多く、用心棒も必要だから」

と引き留められ、その後2年近く働くことになった。

アルバイトのリーダー格の先輩に教わったのは

受験英語が染みついていると文法にこだわるあまり言葉が出なくなるから

まずは必要な単語を並べなさい、ということだった。

なるほど、確かに通じた。

ところが、話す前に聞き取ることができない。耳が慣れていなかったのだ。

そこで思い出したのが...

 " I  beg  your  Pardon ?   " (もう一度いってください) 

実際には、「 Pardon ? 」の一言で通じるもので

すると、相手の外国人はていねいにゆっくりと話しかけてくれる。

これが外国人との初めての会話で、その後しばらくは「 Pardon ? 」を連発することになる。

その施設に寄宿する外国人は短くても数週間の滞在、

長ければ数年にもなるので、次第に気心も知れてくる。

気心が知れると、言いたいこと聞きたいこともなんとなくわかってくるもので

「 Pardon ? 」と聞き返すことも徐々に減って行き、

外国人たちとのふれあいが有意義で「楽しい」と思えるようになっていった。

その施設に寄宿していた人たちの国は今でこそそれなりの発展を遂げているが

その当時の暮らしぶりを聞く限り決して裕福なものではなかった。

また、イランやイラク、アフガニスタンなど今では渡航さえ難しい国の人たちや

南ベトナムなど無くなった国の人たちも暮らしていた。

その寄宿生たちが、時折り、お国自慢の料理を作りもてなしてくれた。

また、屋台のおでんを買ってきて夜遅くまで彼らと話し込んだこともあった。

決して明るい話ばかりでもなかったが、

まだ見たこともない外国の話は興味深く

多感な時期の2年間の経験はその後もずっと

忘れがたい記憶として心に刻まれた。

そう、彼らが私につけたあだ名「パードン君」とともに。

 

 

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I beg your pardon ?

2021-06-05 | 自分史・家族史

昨日は第一回目のワクチン接種。

今日の症状は腕の鈍痛と37.1度の微熱。

大したことはないが、元々、基礎体温が低めなので

この程度の微熱でも顔が火照っているし、軽い倦怠感もある。

それで今日は大事をとって休養、

朝から部屋に籠って写真の整理と決め込んだ。

 

さて、バラの季節はとっくに過ぎたが、

整理した写真の中のバラ園の光景を振り返りつつ昔話をひとつ。

  金沢市南綜合運動公園 2021.05.23  17:59       Sony α7S2  Planar 50㎜ F1.4ZA SSM (f/2.2 , 1/640sec , ISO100) 


バラが咲き誇る様子を眺めると思い出す曲が

リン・アンダーソンの『ローズ・ガーデン』だ。

 
  Lynn Anderson - (I Never Promised You A) Rose Garden 

 

1971年の曲というから中学生の頃に流行っていたものだ。

カントリー調の軽快な曲で耳障りもいいのだが、

実はこの曲そのものに深い思い入れがあるわけではない。

この曲の歌いだしの歌詞、” I  beg  your  pardon " を思い出すのだ。

受験英語の常用句や構文を洋楽で記憶したものだが

例えば、サイモンとガーファンクル「コンドルは飛んでいく」の

 " I’d rather be a sparrow than a snail  "   (カタツムリになるくらいならスズメになったほうがいい)

would  rather ~   than だったり

メリー・ホプキン「悲しみの天使」の冒頭 " Once  upon  a  time " (昔、むかし...) だったり、

よく洋楽好きの友人たちと披露し合ったものだ。

そして、” I  beg  your  pardon " (ごめんなさいね)もそのひとつ。

もっとも、この言い回しにはもうひとつの意味があって

語尾を上げて発音することで(もう一度言ってください)となることも覚えた。

それが試験問題に出たかは定かではないが

それから5年後、大学時代のアルバイトでは大いに役立つことになる。

 

長くなりそうなので続く。

 

※コメント欄閉じています。

 

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2021年 明けましておめでとうございます。

2021-01-02 | 自分史・家族史

明けましておめでとうございます。

拙いブログですが本年もどうかよろしくお願いいたします。

                                                                                juraku-5th


さて、年末年始の金沢。

30日から上空に強力な寒気が入り込み

断続的な雪に見舞われた。

降り始めの予報では平野部で40センチとのことで警戒もしたが

今のところ、金沢市内の積雪は6センチ、山沿いにある自宅周囲でも15センチ前後。

その雪もすでにかなり溶けているのでひとまずは胸を撫でおろしている。

 

それはともかく、いつもとは違う正月を過ごしている。

密を避けるため、人出が予想される初詣は

落ちついてから出かけることした。

また、仕事関係の新年式や賀詞交歓会もすべて中止となっているので

ほとんどの時間を自宅で過ごしている。

それで、やることと言えば、暇に任せたスナップ写真とその整理。

おせち料理、やってきた孫、かのん。そして晴れ間をみて近所の様子など...。

「拍子抜け」を逆手にとって写真を楽しんでいるという次第だ。

 

 

来年の正月にはコロナ禍も収束していると信じている。

生活環境や仕事環境も正常となり、あわただしい新年も戻ってくるだろう。

けれども一方で、

「こんな正月も悪くないな」と内心思ったりする自分もいる。

 


折にふれて...でもないが、

今お気に入りの小気味よいアメリカン・ロックを。

 
 Poco - Call It Love

 

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お化け煙突の話

2020-12-13 | 自分史・家族史

前の記事に続き「煙突」の話。

広い空に立つ煙突を見ると決まってある光景を思い出す。

遠い昔の光景だが、実際に目の当たりにしたものではない。

小学校の低学年だった頃のこと、

子供向けの科学雑誌に紹介されていた写真、

「お化け煙突」の光景だ。

 

東京のどこか。

広く開けた空に4本の煙突がそびえ立っている。

煙突は異様に大きく、子供心には恐ろしいほどの光景に思えた。

また、見る場所を変えながら紹介しているのだが

4本の煙突はある場所では1本に見え、

また別の場所では2本、3本に見えたりもする。

何のことはない、菱形に配置された4本の煙突が

見る場所からの重なり具合で、

本数が変わったように見えるだけなのだが

異様な大きさと「お化け」という形容が

芽生えたての好奇心を掻き立てるには充分だった。

 

それから10年以上も後のこと。

大学受験で上京する新幹線の車中。

東京に近づくと都会の風景を目を凝らして眺めていた。

「お化け煙突」の本当の名前や場所など肝心なことは覚えていなかったが、

雑誌で見た光景だけは長く心に残り続けていて

当時まだ空の広い東京のどこか

あの巨大な煙突なら見えるはずだと思ったのだ。

そして、それからの4年間。

東京タワーや貿易センタービルなど

高い建物に昇ると煙突を探したものだったが

結局見つけることはできず、

そのうちに「お化け煙突」の記憶すらすっかりと忘れてしまっていた。

 

さらに時を経て、建築の仕事に携わるようになってからのこと。

ふとしたきっかけで「お化け煙突」が内藤多仲氏が設計した千住火力発電所だったことを知った。

内藤氏は構造設計の大家で、東京タワーや名古屋電波塔、通天閣など

日本のタワー建築の草分けとしてもよく知られた建築家だ。

内藤多仲氏の略歴に「千住火力発電所」の名を見つけた時、

子供心に刻んだ「お化け煙突」の記憶が蘇り

その著名な建築家の作品だった偶然に感動すら覚えた。

 

昭和20年代の千住火力発電所(wikipediaより)*1

 

 

千住火力発電所は大正15年に稼働開始。

戦時中も空襲の被害を受けることなく稼働を続けたが

施設の老朽化、豊洲に新しい火力発電所が建設されたことを理由に

昭和38年に稼働を停止、翌39年に解体された。

「煙突とお別れの会」が開催されるなど惜しまれての解体だったという。

昭和39年(1964年)というと先の東京オリンピックが開催された年。

当時の私は8歳、つまり大学受験で上京した時すでに、

「お化け煙突」は記憶の中の光景でしかなかったのだ。

 

ずいぶんと味気ない顛末となってしまうのだが

さらに調べてみてわかったことがある。

今も跡地にはモニュメントが残されていること、

さらには、両さんでおなじみの人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にも登場していたというのだ。

見ることができなかった光景の記憶。

けれども、その記憶を今も大切にしている人が他にもいる。

そのことを知って少しうれしく思ったりもした。

 

追記

記事を見返しながらさらに思ったことがある。

お化け煙突の跡地にはモニュメントが残され

解体から半世紀以上も経つというのに多くの方に親しまれている。

このことはかなり奇異なことだ。

なぜなら今日、火力発電所はその使命はともかく

近隣住民にとっては「迷惑施設」のひとつだからだ。

それを許すおおらかさ。

それが「昭和」という時代、

それも30年代の特長なのかもしれない、と思えてきたのだ。

 


 
 The Platters - Smoke Gets In Your Eyes

 

*1 掲載にあたり日本での著作権保護が満了していることを確認しました

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時は流れない

2020-11-10 | 自分史・家族史

一日遅れとなったが空倶楽部。

今月のお題は「夕焼け空」ということだったが...。

           「9」のつく日は空倶楽部の日。詳しくは、発起人 かず某さん chacha○さん まで

 

 福井県越前海岸 2020.11.08 15:53   Sony α7S2  Vario-Sonnar  24-70㎜/f2.8 (24㎜,f/8,1/160sec,ISO100)    

 

夕焼けを期待して出かけたものの

この写真の後には暑い雲が張り出し

日没の頃には大粒の雨まで落ちてくる始末。

残念ながらお題クリアとはならなかった。

(元々、一日遅れなのでお題クリアなどあったものではないが...)

一方で、青く澄んだ空と雨雲が目まぐるしく交錯する空模様は冬の空そのもの。

遠い海鳴りも相まって、一足早い季節の到来を感じる越前岬だった。

 

さて。

先週の話になるが...

ショーン・コネリーが亡くなった。

ずいぶんと前に引退して余生を送っていると聞いてはいたが

彼の姿をいよいよ見ることが出来なくなったと思うと寂しい限りだ。

ショーン・コネリーと聞けば、誰もが当たり役のジェームズ・ボンドを思い浮かべる。

私にしてもそう。確かに『007シリーズ』は何度も観た。

けれども、俳優としての彼にさほど魅力は感じなかった。

好色でスカした感じがどちらかと言えば好きではなかったのだ。

その後、ボンド役が移り変わるうちに彼のことはすっかり忘れてしまっていた。

ショーン・コネリーをあらためて知り

自分の中で特別な存在となったのは

それからずいぶんと後のこと。

『アンタッチャブル』で気骨な警官マローンを演じた時からだった。

多くは語らず、やるべきことを淡々とこなす。

けれども、決して意固地なわけではない。

そして時々、何気ない表情や言葉の中に練り上げられた人格が垣間見える。

もちろん役柄の話だが、それをショーン・コネリーの人となりに重ね合わせ

この映画を繰り返し観るうちに彼のことを次第に好きになっていったのだ。

その人となりがこのコマーシャル映像でも窺える。

 

 

 

わずか一分の二つのドラマ。

「時は流れない。それは積み重なる」

その言葉に共感したものだが、それから30年。

今では当時のショーン・コネリーの実年齢を超えてしまったが

相も変わらず毎日を余裕もなくあたふたと生きていて

時を積み重ねるどころではない。

詰まる所、凡人はこの先も凡人のまま時を流し続けるのだろう。

しかし、それはそれとして...

時を積み重ねるショーン・コネリーにいまだに憧れる自分がいる。

 

余談。

実はショーン・コネリー、

まったく飲めなかったという話を聞いた。

それでこの演技。それも名優と呼ばれる所以だ。

 

 

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記憶の中の散歩道

2020-06-01 | 自分史・家族史

夕涼みがてら手取川天狗橋付近の園地へ出かけた。

もともと古びた鉄橋だった天狗橋が

平成24年に架け替えられたときに

河川敷に芝生が張られ、遊歩道が設けられるなど

橋周辺も整備され、今は近郊のひとたちの

憩いの広場となっている。

また、遮るものがほとんどないので

大きな空を撮るにはもってこい.。

自宅から車で15分の私にとっても手軽な撮影スポットだ。

 石川県白山市(旧鶴来町)  2020.05.30  19:10     Sony α7S2  Vario-Sonnar  24-70㎜/f2.8 ( 50mm   f/7.1,1/60sec,ISO100)    

 

夕焼けのオレンジ色が川面にも映りこんでいた。

その光景を眺めながら遠い記憶を手繰っていたのだが

それは子供の頃のあるテレビCMに描き出されたシーンだった。

番組は『ゴールデン洋画劇場』でスポンサーは『ウールマーク』

...だったかもしれないが、確かではない。

番組やスポンサーに興味があったわけではなく

ただ、CMの映像と音楽に惹かれていたからで

その記憶はその後も永く心に残り続けた。

 

日が暮れようとする川沿いの道。

そこを小さな男の子がひとり、

涙を流しながらとぼとぼと歩いている。

やがて父親(と思しき人)が現れると

男の子はさらに泣きじゃくり

手の甲で何度も頬をぬぐう。

父親が何か言葉をかけ、男の子が泣き止んだところで

二人は手を繋ぎ川沿いの道を歩きだす。

夕焼けの中、二人の姿は次第に小さくなっていく。 

 

今ではその記憶もずいぶんと薄れてしまったが

確かそんな映像だったと思う。

そしてその時、バックに流れていたのがこの曲のサビの部分だった。

 
 Burt Bacharach - What the world needs now is love

 

その曲がバート・バカラックの楽曲だったことを知ったのは

それからずっと後、親元を離れ大学に通うにようになってから。

ふと、この曲が下宿のラジオから流れてきた時だった。

 

 

 

 

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母のこと

2020-01-26 | 自分史・家族史

母の葬儀を終えた。

94歳。現役を離れて40年余り。

その頃の母を知る参列者はわずかでしかないことを思うと

少し大げさな葬儀だったかもしれない。

けれども、今自分にできることとして、

参列者の数はともかくも

母の経歴に見合った葬儀になれば、と思ったのだ。

 

母は大正14年に能登輪島で生まれた。

輪島と言えば朝の連ドラ「まれ」の舞台となった街だが

母の生家は、ドラマで紹介された輪島の印象からはほど遠い

山あいの地にあった。

"Looking  Into  You"  母の生家の記憶      2016.10.01

 

農家の三人姉妹、末っ子だった母は

幼いころから、自分は外に出て働くものだと決めていたらしい。

長女は婿をとって家を継ぎ、

病弱だった次女(後に二十歳で早世)は家を離れることはできないだろう、

だから、自分は家を出なければならない、と思っていたようだ。

それで母は太平洋戦争のさなかに看護婦(当時)という職業に就いた。

村長を務め厳格な父親の教育もあったのか、

国のお役に立ちたい、との志がそうさせたと聞いている。

二十歳前の母が戦傷病院で目の当たりにした光景は

おそらくは想像を絶するものだったに違いない。

けれども母は最期までそのことを私たち子どもに話すことはなかった。

 

戦争が終わった後、いったんは輪島に帰っていたそうだが、

経験を請われて、まもなく復職。

加賀市にあった国立の療養病院に勤めた。

母に連れられてその病院を訪れた記憶がある。

そこは、今の病院とはまったく風景が違っていた。

木造で体育館のような広い病棟と

簡易なベッドが等間隔にいくつも並べられていたことを

おぼろげながら覚えている。

その後、母は県内にあるいくつかの療養病院に勤務し、

退職までには婦長、総婦長も歴任していた。

当時の母の仕事ぶりがどうだったのか、はっきりとはわからないが

退職後の昭和57年に、勲五等瑞宝章を授与されたことを思うと

看護師になろうと決めた志のとおり

多少なりとも世の中の役に立っていたのかもしれない。

 

退職後、母は父とともにしょっちゅう旅行に出かけていた。

婦人会やボランティアなど地域活動にも積極的に参加し、

充実した毎日を楽しんで過ごしていたと思う。

ところが、父が体調を崩した平成15年あたりから

痴呆の症状が現われはじめ、

父が他界した平17年には寝ていることが多くなっていた。

それから15年間、次第に記憶は薄れて、体も不自由になっていったが、

幸いにも、顔艶はよく、容体も安定した日々が続いていた。

しかし、昨年からは呼吸や脈拍が次第にゆるやかとなり

1月21日に静かに息を引き取った。

老衰とのことだった。

 

葬儀式場でのこと。

通夜は私の職場や仕事関係の方たちが駆けつけてくれて

それなりの賑わいだったが、翌日の葬儀ともなると参列者はまばら。

その中を遺族席に立つ私に向かって、ゆっくりと歩いてくる高齢のご婦人の姿が見えた。

70代後半か、ひょっとすると80歳をいくつか超えているかもしれない。

私の前に立って「〇〇ちゃんでしょう?」と問いかけてきた。

聞けば、かつての母の部下で、

母に連れられてよく病院に来ていた子供の頃の私を

覚えていたのだそうだ。

「婦長さんにはたいへんお世話になりました」と切り出すや、

異動で他の病棟に移り、人間関係で苦しんだ時に

母が熱心に相談に乗り、

上司に掛け合って母の病棟に戻してくれたこと、

母は部下思いで、自分の他にも母を慕っていた人が何人もいたことなど

涙ながらに話してくれた。

家ではおちょこちょいでどちらかというととぼけた母。

仕事で家を空けることが多かったので

家事も料理もへたくそだった母。

その母が実は頼りがいがある人だったことが誇らしく

今更ながら母が愛おしく、思わず込み上げそうになった。

あのご婦人の話を聞けただけでもじゅうぶんに立派な葬儀になったと思った。

そして。「最後にいい親孝行をしてくれた」と母は思ってくれるだろうか、と

あらためて母の遺影を眺めてもみた。

 


「ウィズアウト・ユー」といえばニルソンの名曲と誰しも思うはずだ。

けれどもオリジナルはイギリスのロックバンドのバッドフィンガー。

シンプルで荒削り。

ニルソンのような歌のうまさも曲の華やかさもないが、

かえって、彼らの素朴なシャウトに胸が熱くなった。

 

 Without you - Badfinger

 

 

 

 

 

 

 

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令和2年1月21日

2020-01-21 | 自分史・家族史

母が息を引き取った。

ここのところずっと胸につかえていた仕事に

ようやく見通しがつき、

ほっとした直後の、姉からの知らせだった。

去年から次第に脈拍が弱くなり

覚悟はしていたけれども...。

94歳、静かな最期だったらしい。

「もう逝ってもいいかな。あなたも少しは気を休めなさい。」

そんな声が聞こえたような気がした。

 


 
 山中千尋 ~So Long~

 

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りんご便り

2019-12-25 | 自分史・家族史

N 様

いつもお世話になっております。

台風の影響はどうでしたでしょうか。

「Nさんのところは長野市からは離れているはず」

「高地だから・・・」などと、勝手に判断し、

気になりながらもお見舞いも差し上げず失礼しておりました。

今年もりんごのお願いをできますでしょうか?

送り先は次の通りです。

                       J 

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J 様

こちらこそ、いつもお世話になっております。

台風のご心配頂きありがとうございます。

お陰様で、当地は、豪雨でしたが、風はそれほど強くなく助かりました。

地球環境の悪化の為か、災害が頻発し、

人ごとと思わず、自分達も注意しなければと思っています。

今年も、りんごのご注文を頂きありがとうございます。

いつもと同じような時期にお届け致します。

なお、代金は、昨年同様と致します。

                      N

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N 様

ご連絡ありがとうございます。

大過なかったこと、安心いたしました。

代金のこと。

消費税など含め、資材高騰もあるのではないですか。

こちらとすればありがたいですが、

必要であれば遠慮なくおっしゃってください。

どうかよろしくお願いいたします。

                    J

 

 

 

 

N 様

こんばんは。

今年もおいしいりんごをありがとうございます。

送った先々から「今年もおいしい!」との連絡をいただいています。

代金をお知らせください。

よろしくお願いいたします。

                  J

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J 様

今年もりんごのご注文をありがとうございました。

また、早速ご入金いただきありがとうございました。

ご家族様お変わりございませんでしょうか。

私の叔母の紹介でお宅のお母さんへのりんごの便りがスタートで

30年以上のお付き合いをさせていただいて、

たいへんありがたく感謝申し上げております。

今後もよろしくお付き合いいただきますようお願いいたします。

寒さに向かう折り、ご家族様共々、お体気を付けて良いお年をお迎えください。

                             N

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N 様

こちらこそ、ありがとうございます。

母は昔、国立病院の看護師をしていて

長野の病院にも赴任していたと聞いています。

Nさんとのご縁もそんな関係だろう、と

漠然と想像していましたが、

叔母さまとの関係だったのですね。

その母も今年93歳になりますが、

痴呆で今はもう寝たきりになっています。

Nさんのことを私が知ったのは、

父が平成17年に亡くなった時でした。

当時、母も痴呆が進み始め、

Nさんのこともわからなくなっていたようですが、

その年の暮れにNさんから連絡をいただき、

父の「お悔みに」とりんごを送っていただきました。

昔から、この時期に実家に帰るとおいしいりんごがあったことを思い出し、

Nさんがつくったものだったか、と腑に落ちました。

そして、これも何かのご縁と思った次第です。

わずかな注文でご迷惑かな、と思ったりもするのですが、

送った先々から「今年もおいしい!」と連絡をいただくと、

ついついご縁に甘えてしまいます。

どうか今後ともよろしくお願いいたします。

Nさんこそ、ご家族みなさまでよい年をお迎えください。

そして、長野のみなさまにとって、来年が良い年となりますよう

心よりお祈り申し上げます。

                    J

 

 

※ご訪問ありがとうございます。

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すみれ December Love

2019-12-16 | 自分史・家族史

すみれのことをうっかり忘れていた。

 

他人の孫の話などどうでもいいことだが...

長女が6月に出産した第二子のことで、

生まれたばかり、まだ名前もない時に

当ブログで紹介して、それっきりだったことを思い出したのだ。

勝手ながら当時の記事を振り返ると...。

仕事途中に産院へ寄ったこと。

そして、スマホで、それも足形だけの写真を撮ったこと。

だから、あらためて、ちゃんとしたカメラで撮ってやろう、と

思ったことなど記されていたが、

そのちゃんとしたカメラで撮ることを忘れていたのだ。

長女はすみれを連れてちょくちょく来ているそうだが、

ほとんどが平日の日中のことなので、

何か特別の機会でもなければ

私と顔を合わすことがない。

それで、すみれのことを「忘れていた」と都合よく言っているのだが

家内に言わせれば「気持ちさえあればいつでも会える」と手厳しく

つまるところ、根本の原因は私の薄情さにあるらしい。

だから罪滅ぼしでもないが、

今回がちゃんとしたカメラによる「すみれ初投稿」となる。

(くどいが、他人の孫などどうでもいい話だが...)

 

ところが...である。

勇んで一眼レフを持ち出したものの

とにかく、よく動く。

そこへ持ってきて、光量の乏しい家の中では

シャッタースピードも上がらない。

それで、ほとんどの写真がピンボケかブレブレ。

「そんな写真ならスマホの方がマシっ!」

家内と長女の罵声を浴びながら、右往左往しつつ、彼女と「格闘」。

そして、ようやく写真に収まってくれたのが...寝静まった後。

 

 

 

生まれてまだ半年。

まだまだ乳飲み子と思っていたが

その表情には徐々にあどけない子供が宿り始めているようだ。

ふと...。

孫の顔をしげしげと眺めて喜ぶ自分がおかしくなった。

そして、これを「じじバカ」というのだろう、と自嘲しながらも

長女の第一子が生まれたときに、心に刻んだ俵万智さんの歌を思い出し、

そっと胸の内で呟いてみたのだった。

 

  バンザイの姿勢で 眠りいる吾子よ そうだバンザイ 生まれてバンザイ

 

 


そういえば昔、こんな曲もあったな...と思い出し、

タイトルを拝借させていただいた。

 

 すみれ September Love/一風堂

 

※ご訪問ありがとうございます。

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