久しぶりに腕時計の革ベルトを新調した。
革ベルトというものは暑さ寒さ、そして湿気にも弱い。
この時計にしてもそう、使いだしてから10年ほど経つが、すでに何度かベルトを取り換えている。
使い勝手の悪さからか、最近、革ベルトの時計をあまり見かけなくなったのだが、
この古い時計には革ベルトを装着するしかなく、これまた古さゆえ限られたサイズの中から選ばざるを得ない。
そんなにしてまで使う値打ちがこの時計にあるのかということになるが、
実はこの時計、13年前に他界した父が使っていたもの、つまりは形見なのだ。
父が亡くなってまもなくのこと、遺品を整理していたときに出てきたオメガの手巻きの時計だったが、
文字盤には錆が浮いていて、アクリルのカバーにも細かいひび割れがある。
それどころかねじを巻いても、針はすこし動いただけですぐに停まってしまう。
とどのつまり、形見とは言ったものの使い物にはならなかったのだ。
しかし、子供ごころに父が腕に巻いていたことを覚えていたし、
当時としては高価なものだったのではと思うと、たとえ動かなくても捨てきれずにいた。
一度、オメガを取り扱っている時計店に持ち込んだこともあったが、
応対した店員は、「もう部品がありません」と手に取ることもなかった。
それから2年ほど経った頃だろうか、
小さな時計店の店先に「時計職人 1級技能士の店」と書かれてあるのを偶然見つけた。
駄目元と、この時計を見せたところ、
その職人さんは時計の裏蓋を開け、内部を丹念に点検した後、「何とか、なりそうだ」と言ってくれた。
「本当ですか!」と思わず聞き直しことと、その時のうれしさは今でも忘れていない。
そして、これが修理が終わった時計とともに職人さんがくれた写真。
職人さんが教えてくれたのだが、この時計には、Cal.286という型番のキャリバー(駆動装置)が使われていて、
それが製造されたのは1950年代の後半で、当時の値段は当時のサラリーマンの月給の2~3ヶ月分に相当したのではとのことだった。
公務員だった父が何を思ってそんな高価なものを買ったのか今となっては知る由もないが、
もし、父が記念に買ったとあえて想像するなら、その頃、父の身のまわりで起こった関心事とすれば私が生まれたことだったかもしれない。
「長男が生まれた記念」
想像でしかないのだが、そう考えると古くて見栄えも悪い時計だが動いてくれる限りは大切にしようと思えてくるのだ。
折にふれての選曲。
そのとき、そのときの気分で思いついた曲を紹介しているが、そもそもはたくさんの音楽を知っているわけではない。
限られたジャンル、限られた年代に聞いた音楽の中から選んでいるので
二度三度と同じ曲を貼りつけることもよくある。
思い入れの強い曲ということだろうが、
たとえば今回のように、昔のことをなつかしく思い出した時などに「ふと聴きたくなる」、
そんな曲のひとつがジャクソン・ブラウンの「Here come those tears again」である。
Jackson Browne - Here Come Those Tears Again
「あふれでる涙」という邦題がつけられているが、
原題では単なる「涙」(tears)ではなく、「あの涙」(those tears)」である。
ジャクソン・ブラウンが表現したい涙のワケは深くて、
彼はそのすべてを「those」という単語に込めたのだと思う。
「あの時」に起こったこと、感じたことが鮮やかに蘇り、涙があふれ出す。
たったひとつの単語に込めた万感の思い。
いかにもジャクソン・ブラウンらしい表現、
そして、その言葉が父の時計に刻まれた「あの時」を思い出させてくれた。