JR松任駅前の特設広場で朝顔の展示を楽しんできた。

松任(現白山市)は朝顔の栽培が盛んなところで
この時期開催される「あさがおまつり」には市内の愛好家はもちろん
園児、学童たちが丹精込めて育てた朝顔が多数出展されている。
というのも、松任は俳人の加賀千代女が生まれ育ったところで
彼女の代表的な句、
朝顔やつるべ取られてもらひ水
にちなんで朝顔への愛着が強いのだ。
松任駅に隣接する『千代女の里俳句館』 では
春夏秋冬や花鳥風月など、折々の千代女の句に親しむことができるが、
それだけではない。
市民句会やこども句会の紹介、写真五七五の展示などは心温まるものだし、
また、小泉八雲が俳句を世界に紹介したコーナーなどは
芸術的文学的にも興味深く、
私のような俳句素人でも存分に楽しむことができる。
あらためて、「朝顔の句」のこと。
同志社女子大学の教員コラムに興味深い記事があった。
朝顔やつるべ取られてもらひ水
と紹介したが、コラムを書かれた吉海直人教授によると、
朝顔につるべ取られてもらひ水
とする句が一般に流布されていて、
「朝顔や」で親しんでいる人は金沢出身(*)の人が多いとのことである。
*正確には旧松任市を含む石川県加賀地方
たった一文字の違いだが、俳句を鑑賞するという点では大きく異なる。
まず、「朝顔に」の句だが
「朝、起きて井戸に水を汲みに行くと、朝顔のつるが釣瓶(つるべ)に巻きついていた。
それを外すのが忍びなくて、わざわざ近所で水をもらった」と、断然わかりやすい。
一方で、「朝顔や」の句は「や」という切れ字によって
現実の世界からこころの世界へと次元を転換している。
つまりは朝顔の美しさに感動したことに重きを置いているのだ。
コラムを読みながら、以前、俳人の長谷川櫂さんの著書『俳句の誕生』で
切れ字のダイナミズムに大いに納得したことを思い出してもいた。
しかし、それなら「朝顔や」の句からは、千代女のやさしさは失われてしまっているのか。
吉海教授は、同じく石川県が生んだ哲学者、鈴木大拙の言葉を引用してその答えを導いている。
「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世のものならぬ花の美しさに打たれたかは、
彼女が手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によってうなずかれる」(『禅』所収)
それでは、私はどちらの句を支持するのか。
「朝顔や」の句からは情景の広がりや読み手のこころなど俳句の醍醐味が伝わってくる。
一方で、「朝顔に」の句の方は「ただごと」である。
説明や報告に終わっている、と言ってしまえばそれまでだ。
けれども、こちらの表現には千代女の「ひととなり」が
よりはっきりと映しこまれているように思える。
つまりは、嫋やかな女性のこころを、
それも三百年という時空を超えて鮮明に映す
「朝顔に」の句に惹かれるのである。
Carole King - (You Make Me Feel Like A) Natural Woman (from Welcome To My Living Room)