當麻寺。
ここを訪れるたびにこの寺が持つ数々の不思議が頭をよぎる。
そのひとつが飛鳥天平時代から変わらぬ東西の塔が並び立つ風景なのだが、
双塔の足元には小高い丘の斜面が迫り、こんもりとした木々に覆われている。
飛鳥期、白鳳期、天平期に建てられた寺院の多くには伽藍の正門とも言うべき南門があって
双塔が配置される場合、南門をくぐってすぐ塔を見上げることになるのだが
當麻寺においては「あるべき南門」が存在しない。
さらに伽藍を眺めると講堂を背にして正面に金堂、そして左手には本堂がはいちされているのだが、
これもおかしい。
※写真上では向かって左が講堂、右が金堂。正面奥が本堂。
なぜなら、本堂も金堂も仏教寺院で本尊を祀る建物。
それがなぜ二か所も存在する必要があったのか。
また、現在、本尊として本堂に安置された当麻曼荼羅は江戸時代に模されたレプリカ。
それでも重要文化財であることに驚かされるが、
一方で、創建当時からの本来の本尊、綴織曼荼羅図は損耗が激しく、
當麻寺に秘蔵されているらしいが、こちらは国宝だという。
綴織(つづれおり)とあるから、絨毯のように織られたものなのか、いつどこで作られたものか、
ひょっとして渡来したものなのか、つまりは国宝にもかかわらず出自がはっきりしていないのだ。
出自と言えば、この寺そのものについても創建当時の縁起はわかっていない。
7世紀の初めに聖徳太子の異母弟である麻呂子王が創建したと伝えられてはいるが
大和のひとたちにとっては特別な山だった二上山の麓に
「誰が何のためにこの寺を開いたのか」はっきりとしていないのである。
※講堂と金堂の背後に見えるのが二上山(左が雌岳、右が雄岳)
遠く飛鳥時代、二上山は大和の国の西に位置し、二つの峰の間に夕日が沈むことから
西方浄土の入り口と考えられていた。
死者の魂が向かう先ということだが、
現に二上山を超えた河内飛鳥(大阪府羽曳野市など)には
聖徳太子やその親族の用明天皇や推古天皇、敏達天皇など当時の有力者が埋葬されている。
伝承によると、當麻寺は麻呂子王に繋がる豪族当麻氏の氏寺であったとのことだが
そもそも二上山の麓、極楽浄土との結界ともいえる場所に
創建された理由については謎のままである。
さて、當麻寺、曼荼羅、二上山と謎や不思議を追ってみたが、
伝説として書き留めておきたいことがもう一つある。
それは二上山に埋葬された皇族、大津皇子のことだが、長くなるので後編へ。