母の葬儀を終えた。
94歳。現役を離れて40年余り。
その頃の母を知る参列者はわずかでしかないことを思うと
少し大げさな葬儀だったかもしれない。
けれども、今自分にできることとして、
参列者の数はともかくも
母の経歴に見合った葬儀になれば、と思ったのだ。
母は大正14年に能登輪島で生まれた。
輪島と言えば朝の連ドラ「まれ」の舞台となった街だが
母の生家は、ドラマで紹介された輪島の印象からはほど遠い
山あいの地にあった。
"Looking Into You" 母の生家の記憶 2016.10.01
農家の三人姉妹、末っ子だった母は
幼いころから、自分は外に出て働くものだと決めていたらしい。
長女は婿をとって家を継ぎ、
病弱だった次女(後に二十歳で早世)は家を離れることはできないだろう、
だから、自分は家を出なければならない、と思っていたようだ。
それで母は太平洋戦争のさなかに看護婦(当時)という職業に就いた。
村長を務め厳格な父親の教育もあったのか、
国のお役に立ちたい、との志がそうさせたと聞いている。
二十歳前の母が戦傷病院で目の当たりにした光景は
おそらくは想像を絶するものだったに違いない。
けれども母は最期までそのことを私たち子どもに話すことはなかった。
戦争が終わった後、いったんは輪島に帰っていたそうだが、
経験を請われて、まもなく復職。
加賀市にあった国立の療養病院に勤めた。
母に連れられてその病院を訪れた記憶がある。
そこは、今の病院とはまったく風景が違っていた。
木造で体育館のような広い病棟と
簡易なベッドが等間隔にいくつも並べられていたことを
おぼろげながら覚えている。
その後、母は県内にあるいくつかの療養病院に勤務し、
退職までには婦長、総婦長も歴任していた。
当時の母の仕事ぶりがどうだったのか、はっきりとはわからないが
退職後の昭和57年に、勲五等瑞宝章を授与されたことを思うと
看護師になろうと決めた志のとおり
多少なりとも世の中の役に立っていたのかもしれない。
退職後、母は父とともにしょっちゅう旅行に出かけていた。
婦人会やボランティアなど地域活動にも積極的に参加し、
充実した毎日を楽しんで過ごしていたと思う。
ところが、父が体調を崩した平成15年あたりから
痴呆の症状が現われはじめ、
父が他界した平17年には寝ていることが多くなっていた。
それから15年間、次第に記憶は薄れて、体も不自由になっていったが、
幸いにも、顔艶はよく、容体も安定した日々が続いていた。
しかし、昨年からは呼吸や脈拍が次第にゆるやかとなり
1月21日に静かに息を引き取った。
老衰とのことだった。
葬儀式場でのこと。
通夜は私の職場や仕事関係の方たちが駆けつけてくれて
それなりの賑わいだったが、翌日の葬儀ともなると参列者はまばら。
その中を遺族席に立つ私に向かって、ゆっくりと歩いてくる高齢のご婦人の姿が見えた。
70代後半か、ひょっとすると80歳をいくつか超えているかもしれない。
私の前に立って「〇〇ちゃんでしょう?」と問いかけてきた。
聞けば、かつての母の部下で、
母に連れられてよく病院に来ていた子供の頃の私を
覚えていたのだそうだ。
「婦長さんにはたいへんお世話になりました」と切り出すや、
異動で他の病棟に移り、人間関係で苦しんだ時に
母が熱心に相談に乗り、
上司に掛け合って母の病棟に戻してくれたこと、
母は部下思いで、自分の他にも母を慕っていた人が何人もいたことなど
涙ながらに話してくれた。
家ではおちょこちょいでどちらかというととぼけた母。
仕事で家を空けることが多かったので
家事も料理もへたくそだった母。
その母が実は頼りがいがある人だったことが誇らしく
今更ながら母が愛おしく、思わず込み上げそうになった。
あのご婦人の話を聞けただけでもじゅうぶんに立派な葬儀になったと思った。
そして。「最後にいい親孝行をしてくれた」と母は思ってくれるだろうか、と
あらためて母の遺影を眺めてもみた。
「ウィズアウト・ユー」といえばニルソンの名曲と誰しも思うはずだ。
けれどもオリジナルはイギリスのロックバンドのバッドフィンガー。
シンプルで荒削り。
ニルソンのような歌のうまさも曲の華やかさもないが、
かえって、彼らの素朴なシャウトに胸が熱くなった。
Without you - Badfinger