折にふれて

季節の話題、写真など…。
音楽とともに、折にふれてあれこれ。

白山 静寂の時   By空倶楽部

2019-01-29 | 空倶楽部

「9」のつく日は空倶楽部の日。

     ※詳しくは、発起人 かず某さん chacha○さん まで


冬の北陸にして貴重な晴れ間。

そして、その青空に映える白山。

キンと冷えた空気とともに過ごした静寂の時間。

Sony α99  F2.8G/70-200㎜ (f/11,1/250sec , ISO100) 

 

静寂と、大げさに表現したものの、実はそうでもなく、

時折、遠くかすかに、水鳥の鳴き声が響いてきた。

それがかえって静けさを演出し、冬の長閑なひとときを過ごせた次第だ。

  

記事と関係があるわけではないが、

冬の晴れ間に被せる「清々しい曲」はないかと、思いついたのが...。


The Bee Gees   "Morning Of My Life (In The Morning)"

この曲が映画"Melody"(邦題「小さな恋のメロディ」)のオープニングとして流れたのが1971年。

主演のトレイシー・ハイドのエキゾチックでどこか大人びた表情に魅了されたものだが、

それからの半世紀という時間、

さらには、その映像の記憶がいまだに色褪せないことに、今さらながら驚きを感じるのだ。

以前、あるコラムを読んだことで、その驚きの理由が大いに腑に落ちたのだが、

(...残念ながら、そのコラムが見つからない)

それは、この映画で使われたビージーズやCSN&Yの名曲が、

映像と一体となって、まるで、上質のミュージック・ビデオを見ているように、

鮮やかな印象として残ったからに他ならない、というのだ。

同感である。

さて、ずいぶんと脱線したが、

とにもかくにもこの冬一番の空に出会えた喜びを

多少なりともご理解いただけたなら幸いだ。

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有馬 名湯浪漫 続き

2019-01-27 | オトナの遠足

あらためて...

沸くはずのないところに沸くはずのない湯が沸く ──の話。


Sony α99  Planar 50㎜ (f/3.2 , 1/400sec , ISO100) 

 

有馬温泉は神戸市のはずれ、山あいの地に位置する。

泉質の異なる源泉がいくつかあるようだが、一般的には褐色の湯として知られている。

地下水がマグマで温められ、様々な鉱物が溶け出した結果、湯が色を帯びる。

そのような泉質は、とくに山間部にあってはよく見かけるのだが、

ところが、有馬の湯はそれだけではなく、しょっぱいのである。

海の水!?  ...こんな山の中に!?

石川県でもしょっぱい温泉は数々ある。

和倉温泉、片山津温泉などがその代表格だが、いずれも海に近いことが共通していて、

おそらく、全国の温泉でしょっぱい湯が沸くのは海水が混入するからだろう。

いや、ひとつだけ、海から遠く離れた山間部にありながら、しょっぱい湯を知っている。

新潟県の松之山温泉がそれで、太古の昔、地殻変動で日本列島が作られた時、

地層に閉じ込められた海の水が、マグマの熱で温められ、地中の圧力で噴出しているのだと聞いた。

いったんは、有馬温泉も「それだな」と思ったのだが、さらに調べて見たところ、

奇怪なことに近くに火山が存在しない。つまり温泉の熱源となるマグマ溜りがないのだ。

つまり...。

沸くはずのないところに沸くはずのない湯が沸いているのである。

 

有馬の湯の正体は、地下60キロの地中に沁み込んだ600万年前の海水。

そして、その組成には、プレートテクトニクスという地球の表面を覆う岩盤の動きが関わっている。

地震メカニズムでよく解説されるところだが、

日本列島が乗っているプレートにフィリピン海プレートが沈み込んでいる。

そのプレートが沈み込むときに海水も一緒に巻き込んでいて、

その海水がマントルで温められ、熱水となって地表に噴出してくる。

それが有馬の湯で、しかも、その湯は600万年前に沈みこんだ海水、

つまり、我々は悠久の恩恵に預かっているのだ。

 

大阪へと帰るバスの車中。

朝浸かった湯のぬくもりが覚めやらず、うつらうつらする中で、

街並みの情緒、宿のもてなしに美味しかった食事、

そして、壮大な大地のダイナミズムなど、

名湯のロマンを思い返さずにはいられなかったのだった。


 

一泊二日で訪れた有馬温泉。

初日は雲ひとつない快晴の空模様。

ホテルに荷物を置いて、早速、散策へと繰り出したのだが、

着いた時間がすでに夕刻、食事の予約時間もあったので、下見程度で早々に切り上げた。

そして、たっぷりと時間を取ってあった二日目。

それがなんと、朝から渋々と雨模様。

...なんてこったい!

いったい誰が雨をこの雨を止めてくれるんだい!

 
  Creedence Clearwater Revival :  Who'll Stop The Rain

 

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有馬 名湯浪漫 

2019-01-26 | オトナの遠足


Sony α99  Planar 50㎜ (f/5.6 , 1/60sec , ISO125) 


湧くはずのないところに湧くはずのない湯が湧く ───。

 

草津、下呂とともに日本三大名湯に数えられる有馬温泉。

そこで、その名湯の不思議...、というか、大地のダイナミズムがもたらすロマンに驚嘆したのだが、

そのことは、いったん置いておいて、まずは湯の街の情緒を堪能。

神戸からバスで30分足らずの至近距離、さらに大阪からでも一時間程度だから、

まさに、関西の奥座敷、年間200万人近くの観光客が訪れるという。

また、その歴史、日本書紀にもその記述が見えるというから、

日本三大古湯(諸説ある)に数えられることも含め、名湯の由縁に納得がいくところだ。

有馬温泉を訪れたのは今回で二回目。

といっても、やがて30年ぶり、それも職場の団体旅行ということもあって、目的はドンチャン騒ぎ。

どこへ泊ったのか、どんな湯だったのか、まったく記憶がない。

唯一の記憶といえるのが(・・・というかイメージでしかないのだが)、坂道と路地の街並みだった。

今や日本の各地に広がった外国人はともかく、

若い観光客、それも仲睦まじいカップル(死語?)が多いことが、まず印象に残った。

そうした客層を狙ってか、カフェやファストフードを取り扱う店が多く、

今風の景観を感じるのだが、道の両側に迫る建物そのものからすると、

その古さは歴然で、30年前に歩いた場所は、やはりここだったのか...と、

当時の記憶を手繰るように散策を続けたのだった。

 

 

さて、街並みの写真を振り返って、ふと気づいたことがある。

今回の有馬温泉、義理の弟、妹それぞれの夫婦、6人で訪れていたのだが、

各々が撮った写真を見比べて見ると、私が撮ったものだけが異質。

というのも、いわゆるレトロ感一辺倒なのである。

 

元々温泉街の起りのほんどが湯治場で、私が生まれた山代温泉にしてもそうだった。

ところが、昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長につれて、

庶民の所得の一部が旅行へと向けられるようになり、観光が産業化していった。

人々の足は全国の温泉へも向けられるようになり、

各地の湯治場の街並みが時代とともに観光地の街並みへと変わっていったのである。

弟や妹が撮った写真には、その街並みの今昔がそのまま映りこんでいるのだが、

私は、極端ともいえるほど、かたくなに古いものだけを切りとっていたようだ。

ことさら意識をしていたわけでもないが、

30年前の記憶を呼び覚まそうとしたのか、

いや、ひょっとしたら、さらに50年以上も前の生まれ故郷の街並みの記憶を

無意識のうちに垣間見ようとしていたのかもしれない。

 

ちょっと長くなったので、

もうひとつのロマンの話、この名湯の不思議、悠久のロマンとも言える話は次回に。 


 

通りのあちこちで上がる湯煙を眺めながら

こんな歌詞を思い出していた。

We come from the land of the ice and snow

form the midnight sun where the hot springs blow

 
  Led Zeppelin - Immigrant Song (Live 1972) (Official Video)

  移民の歌  レッド・ツェッペリン

 

※本日、コメント欄閉じています。

 

 

 

 

 

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ある陶工、百年の系譜    その三

2019-01-21 | 自分史・家族史

九谷陶器会社が明治22年に解散したことは前の稿で触れている。

それによって、再興九谷のひとつ、吉田屋窯の系統が60年余りの歴史を終えた。

だが、それはあくまでも「窯」という場所の歴史であって、

その10年前に会社を辞した清七は独自に創作を続けていた。

九谷本窯の誇りは脈々と受け継がれていたのである。

そして昨秋、その九谷陶器会社の記憶が詰まった九谷焼窯跡展示館で、

清七の没後百年を偲び、「寿楽窯今昔」と題した企画展が催されたのだった。

 

清七は師匠の永楽和然とともに素地の改良に取り組んだので、

その素地を活かした「赤絵」と呼ばれる焼物がほとんどなのだが、

そのなかで、まず目に留まったのがこの茶器だった。

「ひょっとして祖父が描いたのかな」ふと、そう思ったのだが、

幼い頃、私が知る祖父はすでに隠居で、テレビ中継の相撲が好きだった、程度の記憶しかなく、

亡くなったずいぶん後で、「元は絵付師で、赤い馬の絵が得意だった」という伯母から聞いた話を思い出したのだった。

しかし、その絵が祖父のものなのか、残念ながら、その真偽はわからない。


赤絵人物図 徳利 


色絵葦鷺図 水注 

 

「寿楽作」──。

当然のことであるが、展示された作品すべてにそう銘打たれている。

だが、それらは決して清七ひとりの功績ではない。

「寿楽窯」と呼ばれた製造所に集まった多くの陶工たちの仕事の結集でもあるのだ。

職人たちによく遊んでもらった──、何度も聞かされた、父が幼かった頃の記憶、

そして、また、作家であり、茶人でもあった従兄が残したこんな文章を思い返しながら、

作品一つひとつをゆっくりと眺めたのだった。

  

今日、陶磁器は名のある作家のもとにおいて、美術品として、芸術品として高く評価されている。

しかし、もともと、陶磁器は芸術品として作られたものではない。

日用必需品として製作され、その過程において、いいものをつくろうとする陶工たちの純粋さが、

美術品として評価されるまでに昇華させていったのである。

明治・大正期の陶工たちもそうであった。

生活を賭け、時には一つの作品に精魂を傾けていい製品をつくろうとした。

そのなかから、すぐれたものが数多く生まれた。

しかし、ほとんどが無銘で誰の作かはわからない。

陶工というのは、しょせん、そういう宿命にあるのかもしれない。

貧しい中で、ひたむきに生き、純粋にいいものをつくろうと努力し続けたのである。

中田善明著「九谷の文様」から抜粋

 

寿楽こと清七は、その従兄の、そして私にとっての高祖父にあたる。

 

 

この稿の最後に──。

実家の玄関に「寿楽」と書かれた表札がまだ懸けられている。

「寿楽」を継ぐものなどいないにもかかわらずである。

子供の頃、「ジュラク」が何を意味するのか、父に聞いた。

そして、父が他界した後は、年の離れた従兄から、さらに詳しい話を聞いた。

ところが、ほとんどが口伝でしかなく、私の子供たちにもちゃんと伝えられないでいる。

何かの機会に整理しておきたいと常々思っていたのだが、 

それが故あって、今回の稿となった。

一方で「こんなことを記して何になる」との思いもあった。

だが、このまま風化させてしまうのも忍びないし、

いつか、子供たちがこのブログに気づいて、

先祖のこと、そして、実家に残されたわずかばかりの作品に

多少なりとも、興味をもってくれればそれでいい、と思った次第である。

 


 


Mike + The Mechanics - The living Years

 

※ 作品の写真は、九谷焼窯跡展示館(石川県加賀市)で開催された企画展「寿楽窯今昔」に展示されていたもので、

  撮影制限のかかっていないものです。

※ 参考文献

  九谷の文様    中田喜明 著   京都書院

  和全九谷の華   中田喜明 著   中田康成・向陽書房

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ある陶工、百年の系譜    その二

2019-01-17 | 自分史・家族史

九谷本窯の話が続く。

 

九谷本窯は数々の名工を排出し、また、数々の名品を生み出しもした。

だが、それにもかかわらず、その経営は苦しかった。

有田焼など先達の良品が、北前船交易により、すでに知れ渡っていて、

新たな販路を思うように拓けなかったことが大きな原因である。

また、折しも時代は幕末から明治へと移り変わるころ、大聖寺藩の内情の混乱もあったのだと思う。

そして、さらに追い打ちをかけるように、

窯の中心的人物だった永楽和全が、その招へい期間を終え、窯を離れる日がやって来た。

その姿、来た時とは異なりみすぼらしい姿だったと伝えられることを思うと、無念の帰還だったに違いない。

去る日、永楽和全は、その名の一字をとって、「寿楽」という号を清七に与えた。

それは、清七を後継者として認めたことであり、

現に、それからの清七は、陶工としてだけではなく、

時には経営者のひとりとして、窯の運営に深く関わっていくことになる。

明治3年、ついに大聖寺藩は、清七ほか数名の陶工たちに九谷本窯を譲り渡す。

ここに、民営の九谷陶器会社が新たに発足し、「本窯」という誇りを受け継いだ清七たちは、その運営にいっそう励んだのだった。

その成果として特筆すべきは、1873年(明治6年)に開かれたウィーン万博に、その作品を出展したことだろう。

かの岩倉使節団もその万博を訪れていることを思うと、その関心は高く、

日本が国際社会でよちよち歩きを始めた時期に、

国を代表する美術工芸品のひとつとして、

自分たちの作品を出展したことは、清七たちにとって大きな自信に繋がった、と想像できるのである。

 

しかし、その九谷陶器会社も経済的には大きな成功を納めるには至らなかった。

陶芸の工業化が進み、日用品としての陶磁器が量産されるようになったことで、

家内工業的なものづくりがすでに時代遅れとなってしまった。

それがもっとも大きな背景だったろう。

また、再興九谷以来の「窯」が多くの陶工を育てたことも、皮肉ともいえるが、その遠因であったろう、とも思う。

各地の「窯」を巣立った陶工たちが次々と、自分たちの窯を開いたことで、

九谷焼の個性と芸術性が高まり、「作家」の時代が始まった。

その一方で、日用品と芸術品の狭間となる陶芸品を生産する九谷陶器会社の展望が徐々に失われていったのではないか、と想像するのである。

ともあれ、清七も明治14年に会社を去ることになる。

そして、九谷陶器会社は、その後いくつかの変遷を繰り返すものの、明治22年に廃業する。

 

現在、その場所は九谷焼窯跡展示館として生まれ変わり、九谷本窯と九谷陶器会社に因んだ作品を展示するとともに、

陶芸の体験施設として、広く一般に開放されている。

また、当時の登り窯跡を保存することで、吉田屋窯以来の歴史を生々しい記憶として留めてもいる。

 


九谷焼窯跡展示館 遠景 (木造、赤瓦の建物)

 


登り窯跡

 

昨年秋、その九谷焼窯跡展示館で、「寿楽窯今昔」と題してささやかな企画展が開催された。

寿楽こと、清七の没後100年を記念した展示企画で、

清七、そして師匠の永楽和全の作品が展示されたのだが、

その企画に何度か足を運んでいるうちに、この稿を書いてみたいと思うようになった。

すでに他界している父や従兄から聞いていた「寿楽の記憶」を残しておきたい。

それには、断片的な記憶を繋ぎ合わせることから始めなければならなかったが、

寿楽を知る最後のひとりとして、使命感にも似た気持ちで、そう思い立ったのだ。

 

この稿、さらに続く。

 


Jackson Browne - These Days

 

 

※ 参考文献

  九谷の文様    中田喜明 著   京都書院

  和全九谷の華   中田喜明 著   中田康成・向陽書房

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ある陶工、百年の系譜    その一

2019-01-14 | 自分史・家族史

その陶工が世を去って百年が経った。


九谷焼が、石川県南部の、今は加賀市に併合された山あいの地、九谷村で起ったのは1650年頃と伝えられる。

加賀前田家の支藩である大聖寺藩が、当時、姻戚関係に合った佐賀鍋島藩の有田に藩士を遣わし、

有田焼の技法を学ばせ、殖産政策のひとつとしたことがその始まりだった。

しかし、九谷という名が示す通り、その地はいくつもの山や谷が折り重なる辺境の地、

ましてや冬ともなると、豪雪で人の行き来すらも滞ってしまう。

そのせいか、わずか50年ほどで九谷焼はすたり、

以来、その技法はもちろん、その地すらも忘れ去られ、「古九谷」というわずかな作品の記憶を残すだけとなる。

ところが、それから一世紀余り後、九谷焼を復興させようとの動きが加賀地方各地で起り、

その動きのひとつとして、大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門がふたたび九谷の地に窯を開いた。

これが再興九谷、吉田屋窯の始まりである。

吉田屋窯は、江戸後期の名窯としてよく知られ、世に数多くの名品を送り出している。

だが、その厳しい自然環境がまたしても経営に影を落とし、

開窯から二年後に山代の地(加賀市山代温泉)へと窯を移したが、

その衰退を止めることができず、紆余曲折の末、大聖寺藩がその経営を引き取ることとなった。

藩はその管理を、藩士、藤懸八十城(ふじかけやそき)らにあたらせるとともに、

京の名工、永楽和全を招へいするなど、技巧向上の指導と後継者の育成に、藩をあげて取り組んだのだった。

 


  永楽和全作 金襴手鳳凰図向付

 

さて、その陶工、清七の話である。 

当時の九谷焼は「古九谷」以来の青手と呼ばれる技法が主流で、

これは、加賀五彩(緑、黄、紫、紺青、赤)のうち、主に、赤をのぞく四色を重厚に塗り固めた大胆な構図が特長だった。

その芸術的価値は広く認められるところで、現代の九谷焼の技法としても引き継がれているが、

それはまた、当時の九谷焼の弱点を補う技法でもあったともいわれる。

その弱点とは焼物そのものの素地の粗さで、

もともとは、窯の構造や焼き方などは有田焼に学んだものの、

その出来栄えは、どうしても有田焼には及ばなかった。

おそらくは気候の違いが大きく影響していたものと思われるが、

当時としては、その出来栄えを埋める知見が不足していたのだろう。

永楽和全はまず素地の改良に取り組み、その弟子としたのが、若き陶工、清七だった。

和全は清七を有田へ留学させることで、素地の研究にあたらせようとしたのだが、それには大きな障害があった。

身分の低い清七には、留学はおろか、学問をさせることさえ許されなかったのだ。

ところが、そこへ助けの手を差し延べたのが、藩吏、藤懸八十城だった。

藤掛は清七を養子とし、武士の身分を与えた上で、有田へと送り出したのである。

かくして、九谷焼の素地は改良され、清七ら陶工の手によって、

「赤絵」や「金襴手」と呼ばれる精緻で繊細な作品が作りだされることとなり、

その窯は九谷本窯と呼ばれるようになった。


 清七作 銀欄手茶器

 

 ... この稿、続く。

 



In My Life  The Beatles

 

※ 作品の写真は、九谷焼窯跡展示館(石川県加賀市)で開催された企画展「寿楽窯今昔」に展示されていたもので、

  撮影制限のかかっていないものです。

※ 参考文献

  九谷の文様    中田喜明 著   京都書院

  和全九谷の華   中田喜明 著   中田康成・向陽書房

 

 

 

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習作 冬の余呉カーブ  鉄写同好会

2019-01-12 | 鉄道写真

毎月11日は「鉄写同好会」の日。

詳しくは発起人てくっぺさんのブログ「高橋さんの写真記念館」をご覧ください。

※今回、運行が遅れました


久しぶりに、余呉で列車を撮ってみよう──。

その日冬至は、琵琶湖の夕景、竹生島に落ちる夕日が目当てだったが、

それまでの時間、余呉で列車を撮ろうと、ふいに思い立ったのだった。

余呉は湖北の山間にありながら、鉄道ファン、とりわけ撮り鉄にとっては、よく知られた地でもある。

というのも、JR余呉駅近くの大カーブは見通しもよく、大きく弧を描きながらやってくる特急「しらさぎ」を撮る絶好の 撮影ポイントだからだ。

午前中、通常なら逆光となるが、適度な曇りがその条件を緩めてくれている。

そして、いい具合に霧も出てきた。

フォトジェニック!

思わぬ幸運に、心躍ったのだが...。


Sony α99  F2.8G/70-200㎜ (f/5,1/1000sec , ISO400) 

 

結果、さほど満足のいくものとはならなかった。

いつ撮っても、だれが撮っても同じような写真にしかならなかったからだ。

その風景に出会った瞬間の感動を伝えることができないのは、

ど素人だから仕方のないこととして、

これだけの条件に恵まれながら、平凡な写真となったことが悔しくてしようがない。 

そこで...。

いったいどこに問題があったのか、恥ずかしながら、この場で振り返ってみることにした。

まずは、撮影ポジションの問題。

向かってくる列車の迫力を伝えるためには、もっと列車と正対できるポジションを選ぶべきではなかったのか。

できるだけ、列車を長く入れたいとの思いからこの場所を選んだのだが、

列車に向き合う角度が浅く、ただ通り過ぎる列車を撮っただけの感が強い。

また、後尾が欠けてしまったのもポジションのせいだ。

第二の反省は、もっと望遠で狙うべきだったということ。

せっかくの霧を、圧縮効果を高めて、列車との距離を縮めて表現したなら、

さらに向かってくる列車の迫力を増すことができたのではなかったろうか。

そして、もっとも反省すべきは、「思いつき」で撮ろうと思ったことだ。

実は、撮影直後のモニター確認でもすでに違和感はあった。

撮り直すことも考えないでもなかったのだが、

琵琶湖へ向かうことに気がせいてしまって、

さらに1時間も列車を待つことができなかったのだ。

 

写真を撮ることそのものは楽しいのだが、

この余呉に関しては、今、思い出しても悔しい。

次回、万全な計画の上に撮り直すことを心に誓った次第だ。


自分への慰めでもないが... Take it easy!


Eagles   Take It Easy

グレン・フライが亡くなって、この一月でちょうど3年。

この曲に何度も励まされことを思うとさみしい限りである。

 

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Both sides now By空倶楽部

2019-01-09 | 空倶楽部

 「9」のつく日は空倶楽部の日。

     ※詳しくは、発起人 かず某さん chacha○さん まで


2018年1月1日 午前8時05分 金沢市大乗寺山丘陵公園からの空模様。

 
Sony α99  Vario-Sonnar  24-70㎜/f2.8 (f/5.6,1/250sec,ISO100)    

 

空倶楽部、年の始まりの「お題」は元旦の空───。

今年の元旦は、冬の金沢にしては珍しく、夜明けから快晴の空が広がった。

千載一遇のチャンス!

この絶好の機会を逃してなるものかと、早朝の初詣をすませた後、大乗寺山丘陵公園へと急いだのだった。

金沢のほぼ全域を見渡すことができる高台。

折しも、眼下に広がる街が明るく陽に照らされた部分と影になった部分に二分されていて、

さらに、明るい街がじわじわと陰の街に迫っている。

大乗寺山の背後から昇る初日の出が高くなるにつれて、山が落とす影が小さくなっているだけなのだが、

その陰陽が移り変わる風景を、まるで「ゆく年くる年」を実況しているようだ、と妙に関心して見入った次第である。

そして、陰陽といえば...。

ふと、思春期によく聴いた、こんな曲を思い出してもいた。

「Both sides now 」


Judy Collins - Both Sides Now

1960年代後半に脚光を浴びたアメリカのシンガーソングライターのジョニ・ミッチェルによる曲で、

さわやかな曲調と青春の葛藤ともとれる歌詞が印象的だった。

  ♪ 「天使の髪」に「アイスクリームのお城」...雲はいろんなものを想像させてくれる。

    だけど今は...雲は陽を遮ぎるだけでしかない、って思う。

    みんなの上に雨を降らせたり、雪を降らせたり。

    やるべきことがたくさんあるのに、雲はそうやって、私のジャマばかりしてきた。

    ・・・・・・

「晴れた日」と「曇った日」。

空が見せる二面性をメルヘン調の言葉で綴り始め、

やがて、その歌詞は「愛すること」、そして「人生」そのものの二面性にも重ね合わされていく。

難解で哲学的という評価もあったようだし、当時の私もそう思っていた。

だが、あらためて聴いてみると、たしかに比喩は多いものの、

ジョニ・ミッチェルは、感じたことや頭に浮かんだ絵をそのまま歌詞にしたのだろう、と、今は素直に受けとることができた。

そして、この曲につけられた「青春の光と影」という邦題が、すとんと腑に落ちたのである。

若気の至り...、そして、青臭さ。

そんな気恥ずかしい記憶を辿りながら、「青春の光と影」を聴いたのだった。

 

※「青春の光と影」には、名曲ゆえにたくさんのカバーがある。

 もちろん、ジョニ・ミッチェル自身も歌っているが、

 今回は、この曲を有名にしたジュディ・コリンズのカバーを選曲した。

 

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今年も末吉から

2019-01-03 | 折にふれて

2019年元旦午前7時 白山比咩(しらやまひめ)神社(石川県白山市)

全国2000社を超える白山神社の総本社であり、ここ加賀の国の一の宮でもある。

その格式だから、年明けとともにどっと参拝客が押し寄せ、三が日は人が絶えない。

私もそのひとりで、決して信心深くはないが、毎年、元旦の早朝に参拝をする。

そのためには朝5時過ぎには家を出なければならないのだが、それには理由がある。

もうずいぶんと昔の話になるが──。

自宅から白山比咩神社まで通常なら車で20分の距離。

ある年、その感覚で元旦の昼過ぎに参拝に出かけたところ、

大渋滞に巻き込まれ、結局、家に帰りついたのが夜中だった。

言ってみれば「験担ぎ」程度の参拝にそれだけの時間をかけたことが悔しくて、

それ以来、空いている時間の研究(?)を重ね、この時間に落ち着いたという次第だ。

さて、「験担ぎなのに悔しい」といえば、もうひとつ意地になっていることがあって、

それは「おみくじ」である。

今年も「末吉」を引いて、それがもう5年ほど続いている。

「吉」こそついているが、その内容は「凶」に近く、

そのご神託を額面通り受けとめるなら...、

「新しい仕事には手をつけるな」、「旅行には行くな」、「待ち人は来ない」、「探し物は出てこない」など、

社会生活などまったく成り立たないことになる。

元旦の夜、兄弟、従兄が集まった新年会の席でのこと。

白山比咩神社のおみくじが話題になったのだが、

各々が口を揃えて言うには...、

格式が高いだけあって、参拝客に対しては「上から目線」、

おみくじの「辛口」には定評がある━━のだそうだ。

それにしても...である。

いくら験担ぎとは言え、こう何年も「末吉」を引き続けるのは気分がよいものではない。

こうなったら根競べ、「今度こそ、大吉を引いてやる」と思って参拝に出かけるのだ。

 

・・・ということで、そのご神託はともかく、

スロースタートながら当ブログも無事に(?)幕開け。

本年もどうかよろしくお願い致します。


 

本年最初の折にふれての選曲。

好きなミュージシャンのひとり、ライ・クーダーのノリのいい楽曲「ゲット・リズム」を。

映画のワン・シーンを観るかのようなビデオ・クリップなので、

その映像も合せて楽しんでいただけたら幸いだ。


Ry Cooder   Get Rythm

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