はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

老いと共に

2007-05-12 09:14:24 | はがき随筆
 最近、頓に老いを感じる。
 若いころビールの栓を抜いた歯は部分入れ歯に代わり、よく見えた目は紙面を離さないと字が見づらくなった。
 家族には「テレビの音量が大きい」と叱られ、「今度は何を探しているの?」と笑われる。
 古稀が近い身のサインを受け入れながら、愛犬との散歩やジョギングで足腰を鍛え、季節の移ろいを楽しんで心を潤したい。
 春は北に帰るツルの勇姿に元気をもらう。ツルにあやかり長生きしたいが、まずは男の平均寿命の78歳を目標に、穏やかに暮らしていこう。
   出水市 清田文雄(67) 2007/5/12 毎日新聞鹿児島版掲載

たまゆらさん

2007-05-11 07:43:44 | はがき随筆
 母を「たまゆらさん」と呼ぶ人たちがいる。私が高1の時に放送された「たまゆら」は当時大人気。母はテレビのある知人から物語のあらましを聞き、しょけ売り先の山奥で語り回る。川端康成原作、散髪屋の奥様の口伝、語りは母ヨツ子の3人合作の「たまゆら」は、放送と全く別物の物語に発展する。それでも、テレビの無い山村の婆ちゃんらに大好評。お陰で商いも順調に。調子に乗った母は、放送終了から1年も物語を延長した。この方たちが、母を「たまゆらさん」と呼ぶゆえんである。ちなみに母は、このテレビ放送を一度も見ていない。
   出水市 道田道範(57) 2007/5/11 毎日新聞鹿児島版掲載

記憶

2007-05-10 16:32:11 | はがき随筆
 ランドセルが、小さな孫の背中で揺れて、新1年生がスタートした。
 そういえば、半世紀余りも前の新1年生が持つ鞄は布製だった。私はシルバー色の帯を再生して作った肩かけ鞄をプレゼントしてもらった。
 地模様のあるその鞄に、赤い糸で刺しゅうをしてくれたのは母だったのだろう。60年前の今の季節、やはり胸躍らせて、桜の門をくぐったのです。
 嬉しくて、うれしくて、スキップしている私。学校までの道程の様子など、新1年生には何でも新鮮に映ったものだった。私の小さな時の記憶は、この頃から始まっている気がする。
   霧島市 口町円子(67)2007/5/10 毎日新聞鹿児島版掲載

シンボルツリー

2007-05-09 06:53:59 | はがき随筆
 肝付町の高山小学校に樹高15㍍の椋の巨木がある。昭和13年の大洪水では水に浸かり、20年の空襲では校舎を見守ってきたそうだ。
 25年前に勤務したI先生は、椋の木を毎月の15日に1年間カメラに収めた。春は新緑と淡緑色の花をつけ、秋は紫黒色の実が熟し椋鳥が集まってくる。また、児童たちの緑陰読書や運動会では野外学習の場となる。
 先月、椋の木の13㍍の根周りに木製の椅子が卒業記念に設置された。
 新学期。椋の木は新緑に芽吹き、新入生たちを迎えた。樹下で記念写真を撮り心躍らせる出会いが始まった。
   鹿屋市 上村 泉(66) 2007/5/9 毎日新聞鹿児島版掲載

平和の誓い

2007-05-08 08:00:41 | はがき随筆
 10年前、娘夫婦が父の日に贈ってくれた杖を突いて散歩に出た。裏山を通ると小鳥の囀りを聞きながら杖を休ませ、新鮮な空気を心ゆくまで吸っていると、娘のことが脳裏に浮かんだ。その娘も定年が近づく。高齢になっても親子の関係。民家の路地を通ると、どこの庭にも春花が満開。正に平和の証だ。北支で終戦。翌年5月3日、自作のリュックを背負い、哀れな姿で佐世保に上陸。帰郷した。今は朝5時に起き、新聞を楽しむ。毎日新聞日曜くらぶの「スクリーンの向こうから」を読み感涙。ひめゆりのような悲劇はもうご免と後世に伝えたい。
   姶良町 谷山 潔(80) 2007/5/8 毎日新聞鹿児島版掲載

石榴の木

2007-05-06 19:22:58 | はがき随筆
 庭の石榴の木は35年程前に、亡き父が子供たちのためにと、植えてくれたものだ。数年後には赤い可愛い花をつけ実ができた。実は球状で熟すと裂けて、紅色の種子が顔をのぞかせる。喜んだ子供達は、一粒ずつ拾うようにして食べていたのを思い出す。今では巨木となり、長く伸びた枝は毎年切り落とすためか、花もつかなくなり、その上、ブロック塀にも支障をきたすようになってきた。そこで思い出の木も、やむなく処分する事にした。「長い間ありがとう」と感謝する間にもチェンソーの響きが哀れに聞こえ、一抹の寂しさを感じ胸がじんとなった。
   鹿児島市 竹之内美知子(73) 2007/5/6 毎日新聞鹿児島版掲載
写真は9000さんからお借りしました。

はがき随筆06年間賞

2007-05-06 15:34:01 | 受賞作品
小村忍さん(出水市)が受賞
 はがき随筆の06年間賞が決まった。昨年12月21日掲載の出水市大野原町、小村忍さん(64)の「埴生の宿」。小村さんに喜びの声を聞いた。【松谷穣二記者】

廃屋へのいつくしみ
「それほど自信のある作品ではなかった。何かの間違いではないかと思った」。はにかんだ表情で受賞を喜んだ。
 はがき随筆を始めたのは、教員を退職していた4年半ほど前。先輩からの勧めがきっかけだった。中学校の理科の教師を35年近く勤めたが、「もともとは国語の先生になりたかった。でも当時、採用枠がなくてあきらめた」と笑う。
 初応募の作品が、月間賞の次点に選ばれ「味をしめた」。年に8、9本ほどのペースで応募を続け、これまでに6回入賞。テーマは趣味の音楽や地元の自然、妻のことなど、身近な事柄を選ぶ。
 今回の受賞作は、中学1年から結婚前までの約15年間暮らした母屋を扱った。瓦はこけむし、天井ははがれて畳はきしむ。電気も通っていないあばら屋だが、今も自宅の横にひっそりとたたずんでいる。「いつかは壊さないといけないだろうけど、思い出が消えるようでさびしい」。弟や妹と身長を刻み合ったという柱をなでながらつぶやいた。
 毎日、皆の作品を切り抜くのが日課。文の書き出しや結びに気を配るようにしている。短歌や詩の教室にも通い、今では地元の川を歌った曲などの作詞も手がけ、書いて表現する事に喜びと楽しさを感じている日々だ。
 はがき随筆がきっかけで、出会いもたくさんある。「共通の話題ができ、生きがいになった」。最近では、自分の紹介で書き始めた人の作品も気になる。「切磋琢磨して、書けるまで書き続けたい」と意気込みを語った。

同名の歌曲と交錯
 はがき随筆選者 吉井和子さん

 小村忍さんの「埴生の宿」は日本人の多くに親しまれた歌曲からつけた題名で、その気分を楽しんで歌を口ずさみながら読む人もいたことでしょう。「埴生の宿」の意味は、小村さんの言葉を借りると、瓦がずり落ちそうな廃屋のことですね。小村さんは少年時代を過ごしたこの廃屋を訪ねると両親や弟や妹と、食べ笑い、喧嘩したりしてにぎやかに過ごした思い出のころが一瞬に蘇るのです。小村さんは実に幸せな人。家庭の崩壊が取りざたされる現代、このような場所があるという人は多くはないでしょう。ご両親は亡くなり、兄弟姉妹と会う機会もそれほど多くはないかもしれませんが、このような思い出の場所が残されていて、ここを訪ねれば少年時代のままに残っている環境の中で思い出に浸りつつ語り合える、というわけですから。
(日本文学協会会員、鹿児島女子短大名誉教授)

小村さんの作品「埴生の宿」
瓦がずり落ちそうな親の廃屋がある。私は少年時代、天井のないその荒屋で過ごした。冬は目が覚めると、時には粉雪が枕元に舞っていた。
 とうに、父母は亡くなり、屋根や戸板も苔むして、粗末な埴生の宿だけがひっそりと残っている。
 廃屋を訪ねると、まだ、柱には妹や弟の背丈を測った傷跡がある。父母、妹、弟の5人家族が食べ、笑い、喧嘩し、叱られた思い出が一瞬に蘇る。
 仏壇に花を供えに行ったり、イギリス民謡「埴生の宿」を聴くと、懐かしい思い出が込み上げるのはそのせいかも知れない。

   2007/5/6 毎日新聞鹿児島版掲載
 

 

ひとつぶの実

2007-05-05 10:16:18 | アカショウビンのつぶやき
 去年の今頃だったなあ。
チェリーがどうもおかしい…と気づいたのは。
「明日までおけば、もっと甘くなるんだろうに…」と思いつつ、まだ酸っぱさの残るサクランボを口に入れ、周りで騒いでいるヒヨに「横取りしようとしても、もうないよ!」。
 これが、毎朝の楽しみだったのに、どうも木の勢いがない、虫がいるわけでもないのに病気? そしてサクランボの収穫が終わった頃、為す術もなくじわじわと枯れ始めた。
 夫が13年前に逝ってから、桃、フェイジョア、梅と次々危機に陥り、夫と2人で袋掛け作業を楽しみ、思い出がいっぱい詰まった桃だけはどうしても救えなかった。
 ところがこのサクランボは見事に甦り、たった一粒だけれど実をつけた。
真っ赤に輝く小さな実、いとおしい。夫が甦らせてくれたのかも。
  たった一粒のサクランボ、とっても美味しくてホッペが落ちそうな アカショウビンでした。

チャレンジ・挑戦

2007-05-05 08:38:01 | はがき随筆
 38年間のサラリーマン生活の「あかやしみ」を体に汗して流したい。今まで経験したことのない仕事に夢を抱き従事したいと新年に誓った。
 その誓いは実現。河川敷護岸工事作業員となり冬の寒い朝から汗だくで己の体力の限界を極め知った。また県外からの観光客、出張など新幹線利用客にさつまいも渡来300年、さつまいもで作る銘菓、焼酎をはじめ屋久杉製品、薩摩焼、黒豚黒牛食品などを陳列販売お届けしている。全国の皆さんと触れ合い、会話し自分自身も喜びだ。3人のペンクラブ仲間も駆けつけてくれ激励、更にファイトがわいた。
   鹿児島市 鵜家育男(61) 2007/4/5 毎日新聞鹿児島版掲載

こうのとりの揺り籃

2007-05-04 11:24:51 | はがき随筆
 こうのとりの揺り藍は昔もあった。貧困のため育児を諦めた親たちは、間引きと称する風習で新生児の命を絶った。藩医として高山郷に派遣された江田玄碩は、むごい風習が黙認できず、新生児をもらい受けて育てた。しばらくすると、「カライモでも食べさせて育てますから、赤児をください」と言って、頭を下げてもらい受けていったという。その子たちは、自分の生い立ちを知り、立派に成人し、江田玄碩が世を去ると、「江田玄杏の墓」を建て、生涯、花香を絶やさなかったと伝えられる。江戸時代末期のこうのとりの揺り藍であった。
   肝付町 竹之井敏(82) 2007/5/4 毎日新聞鹿児島版掲載

花まつり

2007-05-03 07:48:34 | はがき随筆
 子供のころ、4月8日はお釈迦様・花まつりの日であった。
 お寺から出張った屋台の台座に小さいお釈迦様が甘茶を浴びて赤銅色に輝いていた。
 小さい茶瓶に入れてもらった甘茶と飴玉などの入ったおひねりを大事に抱えて急いで帰り、待ち構えた両親に渡すと、仏前に供えた団子や桜餅などを柏の葉に乗せて食べさせてもらうものであった。
 華やいだお釈迦様と甘茶の日、いつしか意識の薄れた4月8日は何時の間にか過ぎていて、甘茶の香りがふうっとかすめた侘びしいひととき。
   南さつま市 寺園マツエ(85) 2007/5/3 毎日新聞鹿児島版掲載

それぞれの暮らし

2007-05-02 07:08:14 | はがき随筆
 春咲きと、秋咲きのバラを中心に四季を通して多種類の花を丹誠込めて育て、庭いっぱいの花たちと向き合って暮らしている妹夫婦。対照的に海の見える小高い山林の一角に居を構え「生きとし生けるもの、有るがままがいい」と不精者で絵描きの弟のアトリエは、伸び放題の草木の自然美(?) と訪れる人たちのたまり場が絶妙に調和し、居心地よい。いずれの住まいも、それぞれに趣があり、程良い「距離」と「癒し」が弟妹たちとの交流を密にしてくれる。我が家は? 庭先の雑草抜きに四苦八苦の日々……。千客万来が元気の源?
   鹿屋市 神田橋弘子(69) 2007/5/2 毎日新聞鹿児島版掲載
写真はVビジョンさんからお借りしました。

メッセージ

2007-05-01 08:01:37 | はがき随筆
 風のまだ冷たい春の海。
 「はぎはら みきこ」。弟が砂浜に大きく私の10歳の娘の名を書いた。
 娘、三希子も棒を拾ってきて、自分の名を書いた。そしてすぐに、「かまだ まさつぐ君」と、大きく私の弟の名を書き、急いで「はぎはら ゆうこ けんざい(健在)」と書いて、ニヤリと笑った。
 弟も笑い、私も笑い、娘も笑いころげた。波が、ざぷーん、ざぶーんと大きく音を立てて、そんな私達の人生を応援しているよ、と言ってくれたように感じた。砂の上の3人の名は仲良く、しばらくそこにあった。
   鹿児島市 萩原裕子(54) 2007/5/1 毎日新聞鹿児島版掲載

ワニも姫も?

2007-05-01 07:50:27 | かごんま便り
 南さつま市の海岸線をドライブしながら国名勝指定の双剣石一帯や鑑真和上の上陸地などを楽しんだ。これらの名所、旧跡は写真付きでガイドブック、各種の観光案内などに掲載されている。その通りの素晴らしい景観と、興味を持たせてくれる土地だった。
 初めての土地では、人との触れ合いや、思い出づくりも楽しみの一つ。今回は2個の貝殻が記念の品となった。坊津歴史資料センター「輝津館」でいただいた。入館すると、色とりどりの貝殻が用意してあり、気にいったものをもらえる。
 近くの海岸から拾ってきたそうた。決して珍しいものではないけれど、貝殻を通して歓迎する気持ちが感じられ、うれしかった。私は長い年月で白くなった円すい状のクボガイと、細長くて茶色の筋が入っているイモガイを選んだ。
 館内には地域の歴史や民俗が豊富な資料で紹介してある。その中に「金毘羅府」があった。明治4年に二夜三日かけて、海上の安全を祈った護符だった。
 香川県の金刀比羅宮。昔は金毘羅大権現とも言われていた時期がある。海上安全の信仰で有名だ。薬師如来を守る十二神に宮毘羅大将がいる。インドのガンジス川に住むワニを神格化した神だそうだ。サンスクリット語は「クンピ(ビ)ーラ」。何だか「こんぴら」と発音が似ている。
 いろいろな説があるが、川の神様が日本に来て成長し、海上安全の神様になったと考えたら面白い。坊津は古くから海外との窓口であっただけに、ワニの神様もここから上陸したのかもしれない。
 また、もらった貝殻からは竹取物語に出てくる「燕の子安貝」を連想した。中国には竹取物語の原型ではないかとされる「竹姫」の話がある。姫が出す難題「火鼠の皮衣」など共通する部分も多い。案外、姫の話も坊津から日本に入り独自の物語づくりをしたのかも、と考えた。
 今回は飛躍した推測ばかりになった。笠沙などの地名は古事記や日本書紀にも残っており、実際にそう思わせる地域だった。二つの貝殻は支局の机の上に飾っている。
         ◇  ◇  ◇  ◇
 5月から斎藤毅記者が北九州市の西部本社に、内田久光記者が山口県の周南支局に転勤し、福岡本部から加藤学記者、久留米支局から福岡静哉記者が着任します。よろしくお願いします。
   毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 2007/5/1掲載