アメリカの短編小説の題名である。登場人物は老人と少年とカジキマグロ・アオザメと最期に観光客の一団である。女性が出てこない。「アラビアのロレンス」も好きな映画であるが、女性が出てこない。たぶん女性には歓迎されない小説であり、映画なのであろう。長い間不漁が続いた孤独な老漁師サンチャゴが、小舟より大きなカジキマグロを三日間の死闘の末、仕留める。小舟に結わえて、港に帰る途中で、獲物のカジキマグロの肉を、アオザメの襲撃で食べられ、頭と背骨と尻尾だけが残る。夜中に帰港すると、一人の少年が待っていた。抱きかかえられ小屋に帰り、寝床に倒れ込んで眠りに着いた。翌日、港に行った少年は、観光客に何であるか質問される。少年が「サメが」と言いかけると、観光客の一団は「サメがこんなに美しいとは思わなかった」と言って去っていった。老人はライオンの夢を見ていた。要約するとこんな話である。
少年の頃、学校の英語の教材であり、映画を観た記憶がある。英語で好成績を修めるために、あらすじを把握することに、一所懸命であった。最近は時間が有るので、暇潰しに読み返した。生活体験を積み重ねた、人生のたそがれで始めて、ノーベル賞に値する文学であることを理解した。
就職して、結婚して、子供が出来て成人して、死に物狂いで働いて、一軒家が出来て、退職金が僅かにある状態である。これからは三人の子供たちが結婚して、子供達・孫達が寄ってたかって小遣いをむしり取り、物を持ち出し何が残るのだろうか。女房は慰めてくれる。人が喜ぶ笑顔があれば良いのである。生まれた時には裸で何も持ち合わせていなかったのである。世間の他人は、葬式の時には独善的・儀礼的な美辞麗句で褒めたり、無責任な発言をするのだろう。人は天涯孤独で結局頼りに成るのは自分自身だけなのである。自己責任で人生の主人公となり生きていこう。夕陽を眺め、西方極楽浄土に住む阿弥陀様の夢でも見るとしよう。こんな読み方をしてみたのである。
厭世的な晩年の心境も反映しているようで、作家アーネスト・ヘミングウェイは仏教の思想を理解しているのである。生活する岡崎は戦国時代の武将である徳川家康の故郷で、浄土教の厭離穢土欣求浄土の街であり、その保護者であった家康公は厭世思想があるのである。経済戦国時代の現代で、「心の時代」を言うことが厭世的で、体制批判である。
暗い厭世的な性格であると人が寄り付かないから、この世を謳歌する現世利益の仏教思想である弘法大師・空海を勉強してみる。映画は「釣り馬鹿日誌」や「フーテンの寅」を好んでみよう。しかし主人公達は物質的繁栄には馴染めない世捨て人・負け犬的な性格で、共感する私も唯物的な資本主義体制の抵抗勢力なのである。持って生まれた性格は変わらない。性格は宿命なのである。
少年の頃、学校の英語の教材であり、映画を観た記憶がある。英語で好成績を修めるために、あらすじを把握することに、一所懸命であった。最近は時間が有るので、暇潰しに読み返した。生活体験を積み重ねた、人生のたそがれで始めて、ノーベル賞に値する文学であることを理解した。
就職して、結婚して、子供が出来て成人して、死に物狂いで働いて、一軒家が出来て、退職金が僅かにある状態である。これからは三人の子供たちが結婚して、子供達・孫達が寄ってたかって小遣いをむしり取り、物を持ち出し何が残るのだろうか。女房は慰めてくれる。人が喜ぶ笑顔があれば良いのである。生まれた時には裸で何も持ち合わせていなかったのである。世間の他人は、葬式の時には独善的・儀礼的な美辞麗句で褒めたり、無責任な発言をするのだろう。人は天涯孤独で結局頼りに成るのは自分自身だけなのである。自己責任で人生の主人公となり生きていこう。夕陽を眺め、西方極楽浄土に住む阿弥陀様の夢でも見るとしよう。こんな読み方をしてみたのである。
厭世的な晩年の心境も反映しているようで、作家アーネスト・ヘミングウェイは仏教の思想を理解しているのである。生活する岡崎は戦国時代の武将である徳川家康の故郷で、浄土教の厭離穢土欣求浄土の街であり、その保護者であった家康公は厭世思想があるのである。経済戦国時代の現代で、「心の時代」を言うことが厭世的で、体制批判である。
暗い厭世的な性格であると人が寄り付かないから、この世を謳歌する現世利益の仏教思想である弘法大師・空海を勉強してみる。映画は「釣り馬鹿日誌」や「フーテンの寅」を好んでみよう。しかし主人公達は物質的繁栄には馴染めない世捨て人・負け犬的な性格で、共感する私も唯物的な資本主義体制の抵抗勢力なのである。持って生まれた性格は変わらない。性格は宿命なのである。