物質を構成する基本的な成分があることを人間は気が付いていた。古代ギリシャの四元素説では「物質は、火、水、土、空気の四元素からなり、それらを結合させる『愛』と分離させる『争い』がある。それにより、集合離散をくりかえす。この4つの元素は新しく生まれることもなく、消滅することもない」という思想があった。
古代インドでは、四大(地=個体・水=液体・風=気体・火=エネルギー)を、古代中国では、陰・陽即ち闇と光で、更に木・火・土・金・水の5要素(五行)に分かれているとする陰陽五行説がある。
西洋化学は元素説で、百数個の元素が構成要素であると考えるのである。
東洋哲学は物を性質の面から眺める唯心的で、西洋哲学は物を物質と観察する唯物的である。戦後の学校教育は西洋文化の狂信者で、唯物論者を育成する富国強兵(経済戦士)が国策であるから、西洋化学の元素説が一般的である。西洋化学の元素説も、構成物質を性質面から見れば元素論で、物と見ると原子論である。原子論の究極は、原子核内の陽子と中性子、原子核を周回する電子で成立するとする素粒子論である。
水素はプラス電荷の陽子1個の原子核周囲を、マイナス電荷の電子が周回している。原子番号8の酸素は核内に陽子8個と中性子8個があり、8個の電子が周回している。中性子は電荷が無く、何故陽子と結合しているのか、不思議である。湯川秀樹博士が、その中継ぎをする中間子を、数式を駆使した机上の空論で仮定したところ、事実であることが証明され、日本最初のノーベル賞を受賞した。瓢箪から駒が出たのである。
東洋哲学の物質論は、酸素が無いと生物が存在できないし、水素と酸素が結合した、水の存在が、美しい星を作っているとする「物質の性質」に着目する考え方である。人類初の宇宙飛行士ガガーリン少佐の言葉「地球は青かった」は、「地球には水が有る」と同義語なのである。仏教哲学は、物の働きや、物と物の関係を自然から真理(法・ダルマ)として学び、実践しようとする。時の流れの春の散る桜に、わが人生を重ねて、命のはかなさを知る繊細な心を、情緒と言い大切にするのが、日本人であった。
若い時には、男と女で結合している夫婦も、老境に入るとどちらかが中性となる。熟年離婚が話題になる頃、その危機を脱して崩壊しない役割を果たす中間子は、子供なのか、孫なのか、はたまた金なのか。子供・孫に志向すれば東洋哲学であり、金・物にこだわるなら西洋思想である。
平成時代の日本は、田舎では、若者が金の狩猟民族となり、猟場である都会を目指し、農耕民族の老人が残るだけで過疎が進んでいる。老人は、盆暮れに、大きく社会に貢献している息子・娘が孫を連れ、帰省し家族団欒するささやかな楽しみを夢見て農作業に励むのが、美しい国・日本であった。財政豊かな都会は、金の暴力による便利性で人々の良識を麻痺させ、田舎に残る宿命の老人までもが、息子・娘の小さな親切で都市集中して超過密となり、反面、田舎は疲弊しているのが現状である。一極集中は危険で、臨界量を超えると爆発する。ウラン235が臨界量を超えると連鎖反応で核爆発することを自然が教えてくれる。分散すると安全性が向上することを教えてくれる。核拡散が安全であるということでは、決して無い。核拡散は「狂人に刃物」で極めて危険である。
多数決の論理の結論は、「都会暮らしが便利」に帰着する。堅実に生きてきた私は、この年齢に来て、大博打に打って出て、大穴的中を狙ってみたいと思う。田舎暮らしに賭けるのである。大博打であるから、周到な準備が必要で、研究・勉強をしなければならない。情報を集め、人の体験談を聞き、焼酎を飲みながら思索・検討しなければならない。時間の経過と共に、田舎暮らしが多数決となった場合は、皆に田舎暮らしの楽しさを譲る謙虚さは持っている。博徒でなくても、堅実に生きても、私の人生は「どうにかなる」のだから、人生は楽しい。田舎暮らしは夢である。
古代インドでは、四大(地=個体・水=液体・風=気体・火=エネルギー)を、古代中国では、陰・陽即ち闇と光で、更に木・火・土・金・水の5要素(五行)に分かれているとする陰陽五行説がある。
西洋化学は元素説で、百数個の元素が構成要素であると考えるのである。
東洋哲学は物を性質の面から眺める唯心的で、西洋哲学は物を物質と観察する唯物的である。戦後の学校教育は西洋文化の狂信者で、唯物論者を育成する富国強兵(経済戦士)が国策であるから、西洋化学の元素説が一般的である。西洋化学の元素説も、構成物質を性質面から見れば元素論で、物と見ると原子論である。原子論の究極は、原子核内の陽子と中性子、原子核を周回する電子で成立するとする素粒子論である。
水素はプラス電荷の陽子1個の原子核周囲を、マイナス電荷の電子が周回している。原子番号8の酸素は核内に陽子8個と中性子8個があり、8個の電子が周回している。中性子は電荷が無く、何故陽子と結合しているのか、不思議である。湯川秀樹博士が、その中継ぎをする中間子を、数式を駆使した机上の空論で仮定したところ、事実であることが証明され、日本最初のノーベル賞を受賞した。瓢箪から駒が出たのである。
東洋哲学の物質論は、酸素が無いと生物が存在できないし、水素と酸素が結合した、水の存在が、美しい星を作っているとする「物質の性質」に着目する考え方である。人類初の宇宙飛行士ガガーリン少佐の言葉「地球は青かった」は、「地球には水が有る」と同義語なのである。仏教哲学は、物の働きや、物と物の関係を自然から真理(法・ダルマ)として学び、実践しようとする。時の流れの春の散る桜に、わが人生を重ねて、命のはかなさを知る繊細な心を、情緒と言い大切にするのが、日本人であった。
若い時には、男と女で結合している夫婦も、老境に入るとどちらかが中性となる。熟年離婚が話題になる頃、その危機を脱して崩壊しない役割を果たす中間子は、子供なのか、孫なのか、はたまた金なのか。子供・孫に志向すれば東洋哲学であり、金・物にこだわるなら西洋思想である。
平成時代の日本は、田舎では、若者が金の狩猟民族となり、猟場である都会を目指し、農耕民族の老人が残るだけで過疎が進んでいる。老人は、盆暮れに、大きく社会に貢献している息子・娘が孫を連れ、帰省し家族団欒するささやかな楽しみを夢見て農作業に励むのが、美しい国・日本であった。財政豊かな都会は、金の暴力による便利性で人々の良識を麻痺させ、田舎に残る宿命の老人までもが、息子・娘の小さな親切で都市集中して超過密となり、反面、田舎は疲弊しているのが現状である。一極集中は危険で、臨界量を超えると爆発する。ウラン235が臨界量を超えると連鎖反応で核爆発することを自然が教えてくれる。分散すると安全性が向上することを教えてくれる。核拡散が安全であるということでは、決して無い。核拡散は「狂人に刃物」で極めて危険である。
多数決の論理の結論は、「都会暮らしが便利」に帰着する。堅実に生きてきた私は、この年齢に来て、大博打に打って出て、大穴的中を狙ってみたいと思う。田舎暮らしに賭けるのである。大博打であるから、周到な準備が必要で、研究・勉強をしなければならない。情報を集め、人の体験談を聞き、焼酎を飲みながら思索・検討しなければならない。時間の経過と共に、田舎暮らしが多数決となった場合は、皆に田舎暮らしの楽しさを譲る謙虚さは持っている。博徒でなくても、堅実に生きても、私の人生は「どうにかなる」のだから、人生は楽しい。田舎暮らしは夢である。