風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

竿頭進歩 148号

2007年08月25日 18時28分05秒 | 随想
無門関は、760年前の中国宋代に無門慧開によって編集された四十八話の公案集で四十六話が竿頭進歩である。
「石霜和尚云く、百尺竿頭、如何が歩を進めん。又た古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭、須らく歩を進めて、十方世界に全身を現ずべし。」

「禅僧が悟りを獲得した後は、どうするのですか?悟ったからといって終わりでなく、謙虚になり更に踏み出して、世間の役に立つにはどうするのですか?」

隣人に自動車エンジンの研究技術者で、定年退職した同年輩の人がいる。ご夫婦で、90歳になる母親の世話をして、陶芸三昧の悠々自適の日々を過ごしている。心臓疾患があるが散歩をしながら、道路のゴミを拾い集めるボランティア活動をしている姿を、朝夕拝見している。

その隣人が朝に「マレーシアに長期出張します。健康不安があり、女房に同行してもらいます。高齢の母親の世話は、親戚・介護システムに依頼して万難を排した施策を講じてあるが、よろしくお願い致します」と言う丁重な挨拶である。
後輩の責任者が、マレーシアの会社で問題が発生して、万策尽き最期の切り札として、先輩に泣きついた様である。「男意気に感応」し、老骨に鞭打ち、病体を長躯の旅に駆り立てた。

深刻な事態で、秘策は無く、善循環への可能性は極めて低い様なのだけれども、後輩の窮地を助ける崇高な行動の様に感じたのである。平穏無事な日々を捨て、母親の介護を他人任せにして、後輩を、いや昔に長期間世話になった会社を、退役した人間が助けようとする行動は古き良き日本人の心情で、人間業ではなく、仏様の行動である。

竿頭進歩の公案は、この事を言っている。山頂を極めたら、次にすることは、下山して、次の山の頂上を目指して、歩き始めることである。自分を磨き、その事で社会に貢献する利己的行動が完成した暁には、自分を捨て100%他人に奉仕する「己を忘れ、他を利する」忘己利他の実践なのである。奥さんも同じ心境で、長年連れ添った夫婦は同じ考えになるのである。年老いた母親も愚痴を言わないで、素直に息子の指示に従うことが、究極の利他行なのである。

自然を司る「何か偉大なもの」は、人により違いがあるが、私は阿弥陀様である。阿弥陀様は全てを観察し、決して悪い様にはしない。隣人の会社は立ち直り、意外と早い帰国になるような気がする。頭で理解した禅の公案を、身近な例で知った。

たまたま今日は名古屋の従兄が訪ねてくれ、マレーシア料理ではないが、昼飯を近くのタイ料理店「ナムチャイ」で食べ、本宮山の麓の「本宮の湯」で温泉に浸かり、心身ともに充実した大安吉日である。



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