風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

統計学の落とし穴 181号

2007年10月12日 13時01分41秒 | 随想
天然自然や人間生活の現象を数字で捉えて分析する学問が統計学である。
終戦直後の物の不足する少年時代は、家計の消費支出に占める飲食費のパーセントのエンゲル係数が高いほど生活水準は低いとされ、間違えは無かった。豊かな日本では、高額の外食が多ければ貧乏と判定されてしまうし、禅僧のような質素な食事なら飲食費は掛からないから、裕福であると評価される。現実と合わないから、議論されることは無い。

平均値は、観測されるデータから、その散らばり具合を "平らに均す(ならす)" 事によって得られる、統計的な指標である。世帯の貯蓄の事例では、一部の大金持ちの巨大な貯蓄が平均値を引き上げてしまうため、最も多い数の貯蓄額が仮に300万円だとしても平均は700万円くらいになる。世界一の億万長者ビル・ゲイツが日本国籍を取得したと仮定すると、現実離れの貯蓄額になる。一般的な世帯の貯蓄について考察するのが目的ならば中央値や最頻値を用いるべきである。平均より高くて喜んでも、少なくて落ち込んでも、自分の貯蓄の増減は無いのである。些細な情報で心が揺らいではならない。

天気予報は、過去の天気や各地の現況の天気・気圧・風向・風速・気温・湿度など大気の状態に関する情報を収集し、地域の天気を予測し伝えるための、科学技術のことである。
降水確率は雨などが地域に、ある時間内に降水量1mm以上の雨または雪の降る確率を(%)で表したもので、0%・10%・20%の10%ごとの値となる。四捨五入だから5%未満は0%になる。例えば、降水確率50%なら1mm以上の雨という予報が100回だされたうち、およそ50回は1mm以上の雨が降るという事で、降水確率では雨の強さは予報していない。

降水確率0%を信じ、傘を持たずに大雨でずぶ濡れになっても、損害賠償の裁判で負ける。0は0でなく、零と読むようで、零の意味は極めて稀に雨が降るかもしれないという責任転嫁の無責任な表現なのである。信じる貴方が愚かなのである。折り畳み傘を常時カバンに忍ばすことが智恵である。天気予報の半井小絵の立ち居振る舞いを見て楽しみ、その内容は無視する無頼漢の私は不良である。

日本初の天気予報をしたのはドイツ人で、日本全国を一文で述べた。「全国一般の風向きは定まりなし 天気は変わり易し、但し雨天がち」これなら必ず当たる。

選挙の当選確実は公式の情報ではなく、マスコミが統計学の手法を駆使して、早い時間に判定しようとする自己満足である。選挙管理委員会の開票作業は公開されていて、投票箱を開けて候補者別に票を山分けし、数字は出ていないが、マスコミ記者は遠くから双眼鏡でその山の大きさを確認して当選者が予想できる。

一眠りした朝には結果が判明しているから、急いで知ることも無いだろう。予想結果が違った場合は、マスコミは責任者更迭人事のトカゲの尻尾切で世間に詫びるが、多くの人には対岸の火事で影響は無い。

統計の数字や言葉のマジックで、錯覚に陥ると、騙されることがある。悪徳商法の詐欺行為や悪徳政治家の利権誘導や弱肉強食の手法である。多面的な統計の盲点を考え、自分の独自の見解を考えないと痛い目にあう。最高裁判所大法廷の多数決の論理の決定には少数意見が添付されるように、統計の解釈にも少数意見が存在する。

人は皆自分が大事で、自分の都合で活動するのであるから、私も自己責任で、情報を利用して、大事な主人公である自分を守る智恵を獲得すれば、怖いものは無くなる。

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