風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

演歌は日本人の心のふるさと 180号

2007年10月12日 09時03分55秒 | 随想
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今も めぐりて、忘れがたき 故郷」は少年時代に歌った文部省唱歌「ふるさと」である。

「小川のせせらぎ 帰りの道で  妹ととりあった 赤い野苺 緑の谷間 なだらかに 仔馬は集い 鳥はなく ああ 誰にも故郷がある 故郷がある」は壮年時代に唄う演歌の「ふるさと」である。演歌は大人の童謡である。

演歌のルーツは、明治時代の自由民権運動の政治活動の高揚期に街頭での演説が弾圧された時の「民権数え歌」などである。世間が安定すると、バイオリン片手に道端で歌う演歌師が登場し、雪国の生活や漁師の生き様といった日本的な歌詞を、小節をきかせた歌い方で哀愁を感じさせ、人生の喜怒哀楽を表現することで、中高年の情緒の心に訴えかける。そして私を演歌の中毒患者にしてしまった。演歌は憎めない野郎だ。

カラオケ装置が開発され、酒を飲みながらの宴会の主役になっている。カラオケの語源は「空演奏」で、「生伴奏なし」と同義で、「カラオケね」は「伴奏なしでやろう」という意味だった。これは放送業界で生放送において伴奏へ多くの注意や経費を払わなくていいところから重宝された。

世間一般で第一に想起される「カラオケ」とは、演歌を、生演奏ではなく事前に録音された伴奏を再生し、合わせて歌うことである。

人間が万物の霊長である最大の特徴は、言葉を話し理解できることである。言葉を失うと生きた屍である。人生経験を積み重ねると、他人に対する配慮から、お互いに会話が空(す)くなくなる。昔の老人は、小唄・端唄・謡曲そして南無阿弥陀仏や般若心経を唱えることで、発声していた。現在は欧米教育の高学歴の若者に嫌われる。カラオケなら若者も頻繁に通うし、演歌の理解できる若者もいるから、摩擦は少ない。

韓流中毒患者で、会話が途絶え気味の女房も、齢を重ね友人の影響で、演歌カラオケに興味が移ってきたようである。先輩として指導することで主導権を握り、演歌の曲名選択で主義主張を述べ教化し、「かかぁ天下」から古き良き「亭主関白」の時代に戻す、チャンス到来と意気込んでいるのであるが、返り討ちに遭いそうな予感がする。

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