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風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

比叡山居士林の懐古 

2009年11月22日 04時21分58秒 | 比叡山

両親が霊界に旅立ち、彦根市に転勤した時、諸行無常を実感した。世間は移り変わり、環境は変化し、絶対に確実な存在は無い事を分かるのが、空観である。又多くのお陰で生かされている私を発見する諸法無我も空の心である。

そんな時期の滋賀銀行メセナの参禅会の案内は、手書きの美しい女文字の芸術で、筆者の妙齢のご婦人への好奇心が比叡山に登らせ、連続七年の夏の一日を過ごす端緒を開いた。

山田恵諦師の命名の縁号、福号のケーブル駅から根本中堂に至り、講堂・戒壇院・弁慶水・浄土院・椿堂・弁慶の担い堂・釈迦堂を経由する林間コースを徒歩20分で西塔居士林に到着する。玄関前には明日はヒノキになろうのアスナロの大木がある。

11時の入所案内・正食・講和・写経・非食・開浴・21時放心・5時覚心・山内散策・釈迦堂の座禅止観・作務・小食・法話そして10時に解散する一泊三食の研修、空き時間は座禅三昧である。3時に覚心、根本中堂の座禅も体験した。

オンコロコロセンダリマトウギソワカの薬師瑠璃光如来が本尊の仏壇は仏様と参拝者の目線が等高線になる天台様式である。仏も人も同じ仏を象徴している。仏にいたる道程の厳しさは奈落の底から這い上がる苦行を象徴している深い谷がある。南無阿弥陀仏の易行道と違う難行道で、一切皆苦である。奈良仏教の表現は巨大な大仏である。

只管打座、ひたすら座り、心コロコロの偏り・囚われ・拘りを減らし空っぽを目指すが、春の竹の子の様に雑念がにょきにょきと出てくる。だから生涯付き合う心を修める為に座禅を継続する。行住坐臥の生活が道場である。

苦しい人生、臨機応変に知恵を働かせ、森羅万象と共生し、吾唯足知の生活は現世を極楽にする。

牛に引かれて善光寺参りの故事と同様、動機は不純だったが、法華経の常不行菩薩の但行礼拝の千日回峰の荒行を知り、奈良仏教の唯識、天台・真言の平安仏教、禅・浄土・法華の鎌倉仏教等、仏教に興味が向かう始発駅になった体験だった。

優れた書道家の妙齢のご婦人を捜し当てたのは七年目だった。担当を外れる最後の年だった。赤松光真居士林所長の「ひとり一人ちがっていい」の三部作をプレゼントしてくれ、本棚を飾っている。

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