風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

シェアリングは贈答文化 167号

2007年09月24日 10時55分36秒 | 随想
繁華街の信号や停止標識を取り払う考え方は「Shared Space(共有空間)」と呼ばれ、ドイツ西部の町のボームテの町で実施され、車と人間が空間を共有すると交通事故は減るという。危険が増大するから、緊張して相手を気遣う意識が目覚めるのだろう。

不特定の人間が車を共有するレンタカーがあるが、会員だけが利用できる短時間の利用を目的する自動車共有システムをカーシェアリングといい、車を財産として所有するのではなく経費としてとらえる考え方である。

ワークシェアリングを仕事が少ない時に分け合う失業対策事業であると考えるのは、勤勉が善だと考える古風な日本人の消極的解釈である。機械文明が成熟して、高能率高賃金の時代は、足ることを知り時間的余裕を持ち趣味に生きることが見直されている。個人の隠れた能力を引き出すことに勤勉となり、自己実現を達成して、高度な社会創造に貢献するのが、積極的な本来的意味である。自分が理想とする仕事は少ないが、自分を仕事に合わて変えれば無尽蔵に仕事は転がっている。
 
社会体制は富のシェアリングの違いから、資本主義の自由競争経済と共産主義の統制経済に分かれる。資本主義では「能力に従い働き、成果に応じて富を私的に獲得する」ことであり、社会主義は「能力に応じて働き、労働に応じて分配される」、共産主義は「能力に応じて働き、必要に応じて支給される」と考える。
共産主義論は「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」と考えるようである。

哲学者梅原猛は共産主義社会の崩壊の原因を、人間の本性の誤認にあると指摘する。「個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々」はこの世の中には極めて少ないからである。個人の物欲を極端に抑え、他者に奉仕できるのは聖職者で、日本なら禅の高僧ぐらいであろう。

禅僧は心を矯正する精神科医で、自給自足の生活は出来るが、物を生産して他者に供給する物欲は希薄で、懲りない物欲の権化は大衆で民間活力を生み、御陰様で豊かな生活が出来るのである。一部の権力者が、民衆の我欲を押さえ込むことは至難で、自由意志の物欲を否定されると堕落し無気力となり崩壊の道を辿る事になる。出来ることはウオッカを飲みアルコール中毒になることで破滅に向うのである。禅僧だけの世界は娑婆世界には存在不可能で、阿弥陀様の極楽浄土にある。

古き良き日本には贈答文化があった。個人が精進努力をした成果の一部を、個人の意思で世話になった関係者におすそ分けする農山村の美風である。しかしこの風習も公務員の見返りを要求する利益誘導の手段に変質して廃れてしまった。今は旅行のアリバイ証明のお土産として残るだけである。御陰様で生かされていると思う布施の心の贈答文化が復活することを祈っている。


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