
仏教は少年時代に戦後の親の職場の無宗派の信州善光寺の門前町で、神道は青年時代の就職先である名古屋の熱田神宮で、修験道は壮年時代の転勤先の滋賀県彦根市で比叡山延暦寺の千日回峰行で知った。
還暦過ぎの老人時代には本田善光が難波の堀に捨て置かれた一光三尊阿弥陀仏を最初に南信州にお祭りした元善光寺の里の果樹農家で援農に足繁く通った。振り出しに戻ったのだろう。
旅心も旺盛で日本全国西東、雲が定めなく行き、水が流れてやまないように、一所にとどまらない自由な旅行が趣味の風来坊参男坊である。
徒然なるままに旅を回顧すると、四国遍路旅の終わりに和歌山県高野山金剛峰寺の弘法大師空海の奥の院を参拝した。
女性の輝く社会、女尊男卑の世間に対する深層心理が導いたのだろうか、女人禁制の修験道の大峯奥駈道の宿場の奈良県吉野郡天川村洞川温泉花屋徳兵衛に宿泊した。
恒例となった伊勢神宮初詣のついでに熊野市界隈の道の駅を走破したが、和歌山県熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の参詣路の熊野古道伊勢路を走行した事になる。和歌山県新宮の熊野速玉大社は参拝せず引き返したが、熊野那智大社は昔々の西国観音霊場巡礼の一番青岸渡寺参拝の折に二礼二拍手一礼。
紀伊・伊勢・大和に及ぶ紀伊半島の山地は最澄・空海の大乗仏教、天照大御神の天津神・大国主大神の国津神の神道、役小角を開祖とする神仏習合の修験道、三位一体となった宗教の聖地で世界遺産は当然なのだろう。