(20/05/05 10:33)
痩せる太るは、食物として摂取するエネルギーと運動で消費されるエネルギーとの差の結果であり、摂取するエネルギーが消費するエネルギーよりも多ければ太る、少なければ痩せる、とされている。それ故、食べる量を減らして運動量を増やせば当然痩せる、とされている。
ところが、現実を見渡してみると、食べても太らない、逆に食べなくても太る、あるいは運動しても痩せない、逆に運動しなくても痩せる、という例がある。こういった場合に、本当は食べているから、とか運動が足りないとか、という結論を出して......終わる場合がほとんどである。また、ダイエットは、失敗=リバウンドが多い、とも言われる。どうして食事を制限しても痩せない場合があるのだろうか?あるいは一度、痩せたものが簡単に戻っていってしまうのだろうか?
ダイエットで痩せるといった場合に、常識レベルでは、体重が減ればそれで良しとしてしまっている。その結果、現象しか見ないで、体重の増減に一喜一憂している。しかしながら、体重が減ったとか増えたとか、太っているとか痩せているとかは現象でしかなく、それは実体が現象していると捉えるべきなのである。
それ故に、本来は痩せたいと思うならば、痩せるだけの中身、実体を創り上げて、その上で痩せるのでなければ、食事制限や運動で苦労して痩せてみても、言ってみればそれは無理やり痩せているだけに過ぎないものであり、痩せた状態を保つことは難しい、簡単にリバウンドしてしまう、ということになってしまう。
これは例えば、変な例えではあるが、空手を学ぶのに、貧弱な人間体としての実体のままに、必死に空手の技を学んだとしてもなかなかに上達し難く、その上それなりに上達しても、その技は簡単に崩れ去ってしまう、というなんとも悲しい現実を持つようなものである。本来は、ここはしっかりとした人間体を創るべく、食事・運動・睡眠を整えていくことである程度の人間体の実体を創り上げてから、少なくともその作業と並行しての、空手のまなびでなければならない、のと同じことである、と思う。
つまり、大事なことは、痩せる中身(実体)を、食・運動・睡眠の整えで創った上で痩せるということが必要なのであり、痩せるを実体の現象したものとの二重構造で捉えて取り組むことが求められるということである。これは、別の観点から言えば、痩せたという結果のみを見てもダメなのであり、痩せるということの過程的構造というものを、しっかりと分かっての取り組みが求められる、ということである。そのように考えると、痩せるということにも弁証法性がある=絶対精神の自己運動がある、と捉えてやらねばならないのだ、と思える。
【書いていることにはそれほど異論は無い。しかしながら、では、ダイエットを可能とする太らない、別言すれば、人間本来の体型・体重となるための方法如何が述べられねば、と思う。
それは、人類本来の食(植物性雑食+動物性雑食)を民族の伝統食によってであり、それとともにの人類本来の運動体(「股関節重心」)による「系統発生の繰り返し」としての運動以外には無い。と現在では思う。】