「古典に還れ」とは鍼灸の世界でもよく使われる言葉であるが、「古典に還る」ということの弁証法的・認識論的意義はいかなる事になるのであろうか?
「古典に還る」ということの意義は弁証法的にいえば、この世界のあらゆる物事はその誕生を原点として、その原点のあり方が発展していっての現在の物事であるから、原点がいかなるものであるのかの構造をしっかりと分かること無しには、現在のその複雑に発展したあり方の持つ意味が分からない、それゆえそこからの更なる発展を図ることが叶わない、からの「古典(=原点)に還れ」という言葉があるのだということである。
そうであれば、そうであるだけに、「古典に還る」ということの意義を認識論的に、しっかりと分かっての「古典に還る」でなければならない。どういうことかといえば、「古典に還る」ということを、ある事柄について古典とされる文献の「〇〇ではこう言っている」「△△ではこう言っている」「××ではこうも言っている」と様々な資料の言葉を並べて、「どれが正しいのだろうか?」と考えるだけでは、それが仮に自身の実践の事実を十分に持って、それを踏まえてのであるにしても、不十分であるといわざるを得ない、と思える。
そうでは無くて、古典で述べられている事柄の、言葉の背後にある認識を分かって、その言葉の理解に努力するのでなければ、三浦つとむが説いているが如くに、「王様はハダカだ!」と叫んだ子供の言葉に感心して、それを最高の叡智としてしまう愚を犯すという事にもなりかねない。ということである。
これは例えば、「本と標」について、現代の鍼灸の教科書等では、本=証=本質、標=症=現象と説かれるようであるが、古典とされる『素問』『霊枢』においては、「本は先にある病、標は先にある病によって惹き起こされている病。まず先にある本の病から治療せよ。」と、本と標は、原因と結果という関係性において捉えられている。
古代中国という時代の人類の認識というものを考えてみると、本質と現象という抽象的な認識のレベルが可能な筈もなく、であるだけに、本=証=本質、標=症=現象と短絡的にやってしまって良いわけは無く、まずは古典=原点としての、古代中国という時代の『素問』『霊枢』の作者のアタマの中の像をアバウトにも描いてみることで「要するに、先にあるものは先に治療を!ということか」との「本と標」との把握を成した後にの、そこから発展したものとしての。あるいはそれとは別のものとしての、証=本質、症=現象との概念規定がなされるべきである、と思える。
そうでは無くて、現在の我々のアタマで古典を読んでいくのでは、それは決して「古典に還る」とはいえないのではないのか、と自身には思える。
次回は、(鍼灸への)唯物論的弁証法の適用という事について、説いていきたい。
「古典に還る」ということの意義は弁証法的にいえば、この世界のあらゆる物事はその誕生を原点として、その原点のあり方が発展していっての現在の物事であるから、原点がいかなるものであるのかの構造をしっかりと分かること無しには、現在のその複雑に発展したあり方の持つ意味が分からない、それゆえそこからの更なる発展を図ることが叶わない、からの「古典(=原点)に還れ」という言葉があるのだということである。
そうであれば、そうであるだけに、「古典に還る」ということの意義を認識論的に、しっかりと分かっての「古典に還る」でなければならない。どういうことかといえば、「古典に還る」ということを、ある事柄について古典とされる文献の「〇〇ではこう言っている」「△△ではこう言っている」「××ではこうも言っている」と様々な資料の言葉を並べて、「どれが正しいのだろうか?」と考えるだけでは、それが仮に自身の実践の事実を十分に持って、それを踏まえてのであるにしても、不十分であるといわざるを得ない、と思える。
そうでは無くて、古典で述べられている事柄の、言葉の背後にある認識を分かって、その言葉の理解に努力するのでなければ、三浦つとむが説いているが如くに、「王様はハダカだ!」と叫んだ子供の言葉に感心して、それを最高の叡智としてしまう愚を犯すという事にもなりかねない。ということである。
これは例えば、「本と標」について、現代の鍼灸の教科書等では、本=証=本質、標=症=現象と説かれるようであるが、古典とされる『素問』『霊枢』においては、「本は先にある病、標は先にある病によって惹き起こされている病。まず先にある本の病から治療せよ。」と、本と標は、原因と結果という関係性において捉えられている。
古代中国という時代の人類の認識というものを考えてみると、本質と現象という抽象的な認識のレベルが可能な筈もなく、であるだけに、本=証=本質、標=症=現象と短絡的にやってしまって良いわけは無く、まずは古典=原点としての、古代中国という時代の『素問』『霊枢』の作者のアタマの中の像をアバウトにも描いてみることで「要するに、先にあるものは先に治療を!ということか」との「本と標」との把握を成した後にの、そこから発展したものとしての。あるいはそれとは別のものとしての、証=本質、症=現象との概念規定がなされるべきである、と思える。
そうでは無くて、現在の我々のアタマで古典を読んでいくのでは、それは決して「古典に還る」とはいえないのではないのか、と自身には思える。
次回は、(鍼灸への)唯物論的弁証法の適用という事について、説いていきたい。
【これは「2/2」よりもよく書けていると思える。本と標という具体を取り上げて、現在の解釈と古代中国という時代・社会・精神のレベルを踏まえての解釈を対比させてのは、お見事と思える。
出来れば、「2/2」もこのレベルで解ければ、とは思うのだが......。】