経絡・経穴は機能である。とは鍼灸の世界ではよく言われることである。これはどういうことなのであろうか?
鍼灸の世界では、例えば鍼灸学校では、経絡・経穴は機能である。という説明が日常的になされる。
これはなによりも、経絡・経穴はウソ、迷信の類である。その証拠に解剖して見ても経絡・経穴はどこにも無いではないか!との外野?からの批判に対しての、であると思う。
しかしながら、経絡・経穴というものは、解剖して見つからないにしても患者のへの施術において確かにその存在が実感出来る。だから間違いなくそれはあるのだ!との治療家の先生たちの思いには同感出来る部分があるものの、論理的には、可笑しな反論であると思う。
何故ならば、論理的には、機能とは実体の機能であり、両者は直接(弁証法でいう)の関係にあるものであるだけに、実体の機能でしかないだけに、実体のない機能というものは、アタマの中で空想することは出来ても、それはあり得ないことである。
逆に、経絡・経穴を機能と言ってしまうならば、その実体をなんとしても見つけなければならない、ということになる。
では、経絡・経穴は存在しないのか?ウソ、迷信の類なのか?との反問があると思う。
自身の見解としては、端的には、経絡・経穴は、有る。
但し、それは観念的なものとして、人間の身体という実体の機能である、コリ、ハリ、衰え等を観念的にとらえ返しての、と思える。
そういう意味では、経絡・経穴は機能的なもの、という言い方ならば、可能である、と思える。(経絡・経穴の実体、実在については、夢講義を参照いただければ、と思う。)
鍼灸の世界では、例えば鍼灸学校では、経絡・経穴は機能である。という説明が日常的になされる。
これはなによりも、経絡・経穴はウソ、迷信の類である。その証拠に解剖して見ても経絡・経穴はどこにも無いではないか!との外野?からの批判に対しての、であると思う。
しかしながら、経絡・経穴というものは、解剖して見つからないにしても患者のへの施術において確かにその存在が実感出来る。だから間違いなくそれはあるのだ!との治療家の先生たちの思いには同感出来る部分があるものの、論理的には、可笑しな反論であると思う。
何故ならば、論理的には、機能とは実体の機能であり、両者は直接(弁証法でいう)の関係にあるものであるだけに、実体の機能でしかないだけに、実体のない機能というものは、アタマの中で空想することは出来ても、それはあり得ないことである。
逆に、経絡・経穴を機能と言ってしまうならば、その実体をなんとしても見つけなければならない、ということになる。
では、経絡・経穴は存在しないのか?ウソ、迷信の類なのか?との反問があると思う。
自身の見解としては、端的には、経絡・経穴は、有る。
但し、それは観念的なものとして、人間の身体という実体の機能である、コリ、ハリ、衰え等を観念的にとらえ返しての、と思える。
そういう意味では、経絡・経穴は機能的なもの、という言い方ならば、可能である、と思える。(経絡・経穴の実体、実在については、夢講義を参照いただければ、と思う。)