韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

1987年、柳時春(ユ・シチュン)インタビュー1~韓国TBSニュース工場より

2018-01-04 02:00:25 | 韓国の市民運動

韓国のTBS(交通放送)ラジオの人気番組<ニュース工場>12月26日のインタビューから。この日のインタビューは1987年の6月民主抗争で市民組織の中心にいた柳時春さん(女性)。1950年生まれの彼女は高麗大学国語国文学科を卒業、学校の教師をしながら小説家として1973年にデビュー。しかし、80年代以降、チョン・ドファンによって免職となり、その後は在野の民主化運動に参加します。韓国で人気のある元政治家(?)、今は作家の柳時敏(ユ・シミン)のお姉さんとしても知られ、もう60代後半ですが、その声も話の内容も若く魅力的です。2日間のインタビューを4回ぐらいに分けて紹介します。このインタビューに出てくる80年代後半の民主化運動は、2016~17年のキャンドル市民革命につながるもので、ぜひその内容と意義を聞いてください。

(なお、キム・オジュンが休暇で進行役はイ・ジョンヨル元判事が担当しています。聞きやすい声と発音ですので、何度か聞いて聞けばわかります。韓国語の原文はTBSのHPを見てください。訳文は自動翻訳にちょっと手直しをしましたので、不自然な部分があります)

[インタビュー、第1工場]
6月抗争当時の主役から聞く30年前の熱かったその日の話
-柳時春(ユ・シチュン)作家(6月民主抗争当時、民主争取国民運動本部常任執行委員)


李政烈(イ・ジョンヨル):映画「1987」が封切りを控えています。 監督から聞いた話ですが、<ニュース工場>があまりにも人気が高いので、本や映画の広報をお願いするという請託が非常にたくさん入ってきます。 金英蘭法に違反しない範囲でされようとしただろうから、どうであれ、ニュース工場で紹介があれば、大きく注目され成功する。ですが、「1987」の映画に関しては全くガム一個もらっていませんが、じゃあ、なぜ今日は「1987」の話を切り出すのか。 「1987」という映画が1987年6月民主抗争を背景にしています。 そこについて関心が高まっているが、この映画を見て深い感銘を受け聞きになっただけでなく、この時期に関する生きていらっしゃる、生きている歴史の方を一人お迎えしました。 1987年当時、民主政治国民運動本部常任執行委員だったでしょ。 柳時春(ユ・シチュン)作家さん、スタジオに直接出ました。 いらっしゃいませ

柳時春(ユ・シチュン):はい、こんにちは。

李政烈(イ・ジョンヨル):先生、ここでお会いしたからもっと嬉しいですね。 知ってらっしゃる方々はご存知でしょうが、柳時春(ユ・シチュン)作家さん本人も有名で立派な方なのに、あまりにも大きな方がいらして隠れてしまって、いつも聞かれていて、質問が飽き飽きしているかもしれませんが、 (弟の)柳時敏(ユ・シミン)元保健福祉部長官、今は作家ですが、彼と関連してどうかという、事実、柳時春(ユ・シチュン)先生も立派な方なのに、ユ・シミンの陰に隠れていてしゃくに触るとすが、うですが、

柳時春(ユ・シチュン):いいえ,ありません。

李政烈(イ・ジョンヨル):先生表情が本当になさそうです。 これが選挙を過ぎてからの話ですが、大統領選挙の時おじいさんおばあさんの遊説団をしましたよね。そして、出てきた話が、その当時にこのようなジョークがありました。 オデムン、どうせ大統領は文在寅(ムン・ジェイン)。アナムン、父が出ても文在寅(ムン・ジェイン)。その時代、柳時敏(ユ・シミン)作家さんしては、このような言葉がありました。 ユナムンと。 何かわかってますよね?

柳時春(ユ・シチュン):柳時敏(ユ・シミン)出ても文在寅(ムン・ジェイン)。

李政烈(イ・ジョンヨル):もう過ぎてする話ですが、いったん柳時敏(ユ・シミン)元長官から星感情ないとしてるんだから。 当然そうでたようで。 今日、来ていただいて聞きたい事から始めてみます。 <民主政治国民運動本部>、略して<国本>常任執行委員として活動して、この当時の本当に生きていた歴史ですが、ひとまず、映画の「1987」。どのようにご覧になったか、ちょっと。

柳時春(ユ・シチュン):はい。 映画が芸術としての本性を持っています。 また、そのどんな芸術と文学もその時代の社会現実と歴史から決して自由ではないです。 そのために対社会的な機能を持っていますよ。 私はこの両者のうちに後者により充実した、そして非常に立派なその機能を遂行した映画だと見ました。

李政烈(イ・ジョンヨル):歴史的な意味がある。 これでひとまず1987年にはもし1987年度に生まれたとしてももう三十じゃないですか。 だからその時代を記憶するというのがどう見ると、記憶している人たちなら先輩に話を聞くことができる、いったん、それではこの1987年6月抗争がなぜ、どんなきっかけに起きようになったのかその開始から言葉をお願いします。

柳時春(ユ・シチュン):とても長いから私が簡単に減らしてよくお話しします。 皆様ご存じのとおり、朴正煕(パク・チョンヒ)維新統治体制は事実終身執権体制でした。 ところで内部の分裂に朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領が殺害されて民主主義を渇望していた国民は民主政府が当然樹立されるととても合理的な推論をしていましたが、ひょんなことから、全斗煥(チョン・ドゥファン)と新軍部の一味が、光州(クァンジュ)で虐殺を敢行して、それこそ政権を奪取しました。 それから7年にわたって正統性も、民主性も、歴史性も不在したその政権を退けて新しい民主政府を立てたいという熱望が国民に広範囲に広がって、その中でも青年学生たちが勇気ある前衛に立ちました。 そのため、青年学生たちが刑務所にたくさん連れて行かれたんです。 特に、5・18光州(クァンジュ)民衆抗争の真相を明らかにすることを要求する学生たちは皆逮捕しました。 それで86年12月、当時に刑務所に約6千人あまりの青年学生をはじめとする良心の囚人たちが閉じ込められていました。

李政烈(イ・ジョンヨル):6千人なら、一学校学生数なのに。

柳時春(ユ・シチュン):そうです。 そのため、多くの生徒・学生を令状もなしに逮捕・拘禁して拷問していることがあまりに頻繁したが、メディアの口を封じ込めていたため誰もそれを報道することができなかったです。 それでいよいよ1987年の新年が明けたとき、1月14日に故朴鍾哲(パク・チョンチョル)君が被疑者でもない参考人と呼ばれて行ったら、もちろん令状もありませんでした。 家族にも知らせず、です。 秘密裏にでしたが、今の南営洞駅近くにある南營洞(ナムヨンドン)対共分室で参考人として事情聴取を受けていたが、水拷問によって残酷に殺害されます。 ところで、この朴鐘哲事件は決して偶然に起きた事件がありません。 それ以前にすでに多くの朴鐘哲がいました。 一々列挙できませんが、、1986年に出た、大韓弁護士会で発刊した人権報告書に見ると、軍隊に連れて行かれ、疑問の死を受けた学生たち、また、捜査機関に呼ばれて行ったらとてもかけ離れた線路沿いに遺体で発見されたり。 こんなに原因を明らかにできない、ただ、捜査機関による疑問の死と推定される様々な死がありました。 それが累積されて、起きました。 そして86年11月末に愛国学生闘争連合の1400人が民主政府樹立を要求し、建国(コングク)大学を占拠した事件がありました。

李政烈(イ・ジョンヨル):それ本当に記憶も新しいです。 建大事態。

柳時春(ユ・シチュン):はい、建国大学事態です。 そのとき全て官製マスコミ、政府の検閲を受けるマスコミは政府が言うとおりに、全斗煥(チョン・ドゥファン)が言うとおりに共産主義闘争、日本の赤軍派を模倣した左翼ゲリラ闘争だ。こんなに全部、赤く塗って罪を被せる時代でしたが、司法史上、前例がない1200人余りが拘束されました。それで刑務所があふれるばかりになり、ついに朴鍾哲(パク・チョンチョル)を拷問して殺した後、死体を隠すこともできずに、火葬できずにばれてしまうのです。ばれてしまってこの事件がとても国民の怒りを呼び起こし、です。 みなさんよくご存知の通り、その映画に詳しく出てきますが、本当にとんでもない、どのようにみると小学生の水準にも満たない、そのような対応を警察が出されます、「テーブルをパンと叩いたら、ウックと言って死んだ」

李政烈(イ・ジョンヨル):はい。 当時、カン・ミンチャン治安本部長と覚えています。

柳時春(ユ・シチュン):はい、そうですよ。 パク・チョウォン本部長もいます。彼らが2~3日間、頭を突き合わせて熟議した結果がやっとそんな子供だましの「テーブルをパンと叩いたら、ウックといって死んだ」という有名な言葉を残しました。 私はこの朴鐘哲事件を見ながら、「歴史は、たまに偶然を通じて必然を観察する」という言葉があります。偶然な事件のように見えますが、決して偶然な事件ではなく朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君拷問致死事件が起こることにより、そして、ついにその拷問まで操作、隠ぺいした情況が分かり、国民の怒りは空を突いたり、です。 そして、全ての国民がその誰も、検事の請求で裁判所の令状なしでは逮捕、拘禁されないという憲法の精神を実践することを要求し、体育館で自分たちでひそひそと大統領を選ぶのではなく、共和国の主人である国民の参政権を返してくれと要求するに至ったのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):そうです。 少し追加説明をしますと、当時に拷問に加わった人間が全部で5人かそうだったんです。 ところで二人がした事にして縮小し、二人がすべてかぶって逮捕され、拘置所の中から、実は他の三人がいたという話が外に流れ、それをカトリック正義具現司祭団が。

柳時春(ユ・シチュン):はい。 その話、私が説明しましょう。本当に歴史ですね、振り返って思えば、私は無神論者ですが、このときだけは、神がいたのかと言う気がします。 それで、その五人のうちにA、B、C、D、E中にD、Eが罪をかぶったということでしょう。 自分たちは後から腕をつかんでいる程度の補助でした。でも考えてみると、これの拷問致死という恐ろしい犯罪を二人が被ることを考えると(怖くなって)、泣きながら吐露したんです。それを刑務所にいた良心の囚人の一人がメモをして。

李政烈(イ・ジョンヨル):李富栄(イ・ブヨン)先生?

柳時春(ユ・シチュン):李富栄(イ・ブヨン)先生がいらっしゃったし、それをその当時の看守が伝達をしました。 ところが、果たしてこのものすごい事実を誰に伝えるのか、しばらく悩んみました。まず、改憲請願国民運動を繰り広げていた野党に伝えるか、それとも学生たちに伝えるか。 誰に伝えたら、これが最も国民に信頼を与えて義憤を巻き起こすだろうか、ということを悩んだ末に<正義具現司祭団>という神父の組織に伝えることになります。

李政烈(イ・ジョンヨル):その時、<ニュース工場>があればよかったんですが。

柳時春(ユ・シチュン):その時、<ニュース工場>があったら朴鐘哲事件が起きなかったのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):確かにそうですね。 そうして拷問をして人を殺しただけでなく、延いてはそれを隠蔽するまで。 そんな犯罪を犯したが、それが導火線になって実際の行動まで行きましたが、拷問致死事件に対する怒りを超えて、当時、国民が要求したのはさっきおっしゃった通り、大統領を直接国民の手で選ぶことができる、つまり大統領直選制。 国民の権利を保障するということでした。 それでその話と関連して先生がいた民主政治国民運動本部。その組織はどうでしたか? 規模とか。


参与連帯で衝撃を受けたこと、続き

2017-11-04 00:25:02 | 韓国の市民運動

<参与連帯>の事務所でいろいろ話しながら、今まで疑問に思っていたことを聞いてみました。ただ、とても微妙な問題で、とくに日本の運動圏(あまり日本では使いませんが、韓国で使うのであえて使います)の状況を知っていないと、何を聞きたいのかわからないのですが、どうにか伝わり、質疑応答が続きました。

僕の質問というのは、市民団体(大衆運動と言い換えてもいいです)と政党(労働者に基盤を置く政党や、進歩政党)との関係はどうなっているのか、という質問でした。というのも、日本の市民団体の場合、とくに政治課題を扱う市民団体の場合、政党の影響が、ときには<革命的指導>が行われた場合があるためでした。

この質疑応答には<参与連帯>の国際連帯の担当の専従スタッフと、7月に福岡で講演をした<市民社会団体連帯会議>のイスンフンさんが同席していましたが、二人の年代や活動経験が違うので、答えも若干違い、とても興味深いものでした。たぶん、一緒に参加していた日本人の皆さんも、よくわからない部分があったと思うので、僕の補充説明も含めてポイントを書いてみます。

すでに書いてあるように、<参与連帯>は政府や行政、政党、企業などから直接の補助金は一切もらっていません。政府や行政機関、企業などを監視し、対案を出すのが主な活動ですので、当然といえば当然です。環境団体の場合、例えば湿地の調査を5年ごとにしていますが、この調査作業は大学の研究所や環境団体が担当する場合が多いといえます。現場で保存活動をしている環境団体などが、その経験や知識、人材を提供して調査活動をするわけですが、一方で環境団体の財源的な基盤にもなっています。

このような調査や研究課題などを実行する能力は<参与連帯>にも十分ありますが、活動の目的のために、一線を引いていると理解できます。

では、政党はどうでしょうか。政党も国会議員や地方議員が持っている調査費などを活用して、シンポジウムなどを行う場合があります。この場合も、市民団体の専門性を活用して、講師の交渉やシンポジウムの運営などを市民団体が担当する場合もあります。以前、冬季オリンピックと自然保護のテーマでシンポジウムをしたとき、長野オリンピックに反対したグループの代表を招待したことがあります。これなども、グリーンコリアがシンポジウムを主管し、僕がコーディネートと通訳を担当しました。環境団体は、このやり方で国会議員会館でよくシンポジウムをやります。

これだけ政治的な課題について発言をしているのなら、政党との関係、とくに進歩的な政党との関係がもっと緊密だと思いましたが、建前ではどの政党とも<等距離外交>と答えていました。もちろん、個別メンバーはそれぞれ支持政党がありますし、政党の公認を得て地方議員になった環境運動連合の仲間もいますし、グリーンコリアの専従スタッフをやめて<緑の党>で活動している知り合いもいます。もしかすると、労働者階級に基盤を置く政党が市民団体の中にメンバーを送る、または市民団体のメンバーを党員として獲得する、という活動をしている場合もあるかもしれませんが、それほどの影響力はないようです。

質疑応答の中で、イ・スンフンさんが興味深い比較をしてくれましたが、政党は<権力>を目的にしていて、市民団体は<監視>や<告発>を目的にしている。政党が現実主義なのにたいして、市民団体は理想主義と言われると説明してくれました。たぶん、彼の大学時代の仲間の中には<政党>で活動している仲間がいるようですが、なかなか興味深い対比でした。

ここでは、政党と市民団体が同じレベルで認識されているな、と感じました。とくに<参与連帯>のような20年以上も続けて活動をしている市民団体の能力と影響力は、政党の大衆運動部門をはるかに凌駕しているなと、感じました。昨年のキャンドル集会でも国会議員は前のほうに座って参加していましたが、発言は初めの3~4回であっただけで、あとはすべて市民からの発言だったそうです。政党が躊躇したり、意見がまとまらない時、とくにパク・グネ弾劾なのか、自発的な辞職なのか、国会の中で意見がまとまらなかった時、市民は弾劾を主張するのを変えませんでした。このような、政治判断の正しさ、国民の意見をまとめる能力、そして状況を引っ張っていく力量と、政党をはるかに上回っていたと思います。そして、ここが大事ですが、政党も市民団体の政治判断や能力・力量を尊重したと思います。もちろん、お互いに不満や誤解や葛藤はあったと思いますが、それを乗り越える信頼関係が進歩的な政党と市民団体の中にあったと思います。今回の<参与連帯>との対話の中で、こんなことを考えました。

では、日本はどうでしょうか。<参与連帯>のメンバーは日本にも行ったことがあるメンバーで反核運動の交流をしようと思うと、二つの団体を訪問しないとダメなので、ちょっと……、と言っていました。この二つの団体、言葉を変えると二つの勢力がきちんと協力して活動をすればいいのですが、果たしてどうなのか。今回の選挙でも野党共闘ができた地域でも、果たしてどれだけ信頼関係を持ち、ともに行動したのか、そのへんは疑問です。二つの勢力の間できちんとした討論すらやってこなかった歴史があり、時にはお互いに裏切者とか日和見とか批判をしていたわけで、その点を乗り越えないといけないのですが、大変だなと思います。

ただ、希望があるのは、総がかり行動や市民連合ができて、すくなくとも土台はできたので、その土台をどれだけ強固にできるか、一人ひとりが何をするかが大切だと思います。例えば、僕のFBの友人を見ると、どちらかの勢力に属するのがはっきりしている人、ある勢力を最近やめた人、やめされられた人、あっちは今でも会いたくないという人など、いろいろいます。まず、これらの人と過去のいくつかのポイントについて、きちんと討論をして違いを確認して、信頼関係を築きたいと考えています。たぶん、韓国の運動の中でも、このような討論が積み重ねて来たのだと思います。このあたりのこと、韓国の仲間と機会があれば、もう少し話したいなと思います。年末年始、あるいは1~2月ぐらいに、討論会をきちんとやりたいなと思っているのですが、いかがでしょうか?


参与連帯で衝撃を受けたこと

2017-11-03 00:12:35 | 韓国の市民運動

キャンドル集会1周年のスタディツアーで<参与連帯>という市民団体の事務所を訪問しましたが、一緒に訪問して意見交換をした参加者の皆さんは、とてもショックを受けたようです。わずか1時間半しかいませんでしたが、韓国の市民運動の強さとレベルの高さを実感したようです。意見交換で出た内容と、僕が知っていたり調べた情報を合わせて、<参与連帯>がどのような団体なのか、どんな社会的な動きの中から出てきたのか、僕たちが学ぶべきことは何なのか、などを書いてみましょう。いちおう、カテゴリーを<韓国の市民運動>と新しく作りましたので、僕が知っている韓国の市民運動の様々な姿を紹介して行こうと思います。

<参与連帯>の事務所では日本語になったパンフレットをもらいましたので、その中から大事なことを、いくつか紹介しましょう。まず、<参与連帯>の説明をしましょう。

<参与連帯>は1994年、「参加と人権を二つの軸とする希望の共同体」を実現するために、活動家、学者、法曹家たちが設立した非営利民間団体です。<参与連帯>は政治、経済、社会の各分野の権力の乱用と集中、機会の独占を監視し告発することで、市民の民主的参加に基づく法の支配を定着させるために、活動に取り組んできました。構成員すべてに人間らしい暮らしが権利として保障されるように、多くの政策と代案を提案し、制度化することに専念しました。正義と平和のために行動するすべての市民と進んで連帯し、国境を越えて仲間愛を広げてきました。

まず、設立された1994年がどのような時期なのかを確認しましょう。韓国では民主化運動が70年代ごろから格化しますが、軍事独裁政権に対抗して民主化を求める闘いの頂点が、1987年6月民主化運動、そして7月~9月の労働運動の高揚、8月の全国大学生代表者協議会の結成と続きます。

詳しくは別の機会にしますが、1987年からの民主化運動の広がりは90年代に入って、労働運動、市民運動、農民運動、生協運動、労働者に基盤を置く政党作りなど、様々な分野に広がります。87年以降の民主化運動を体験した世代が中心になって、それらの組織を立ち上げ、会員を集め、事務所を準備し、活動をしていくという流れの中、<参与連帯>が結成されるわけです。

今、<参与連帯>には、15000人の会員がいて、毎月、1000~2000円の会費を払って組織と専従スタッフを支えています。会費収入だけで月に1500~2000万円以上の資金が確保されます。ソウルにある本部事務所には50人以上の専従スタッフがいますが、これらの専従スタッフとボランティアの専門家が300人ほどいて、日常の活動をしています。

現在は、次の12のセンター(または委員会)に分かれて活動しています。

1)司法監視センター=法治国家の番人となり、裁判所・検察・弁護士を正します。専任の弁護士もいます。

2)議会政治監視センター=国民が選んだ国会議員を国民が監視します。

3)行政監視センター=公職社会の腐敗や権力の乱用を監視します。

4)公益通報支援センター=不正義に抵抗する公益通報者を支援します。

5)公益法センター=公益訴訟で人権と民主主義を守ります。

6)労働社会委員会=差別のない労働のための労働政策代案を提示します。

7)民生希望本部=庶民が幸せに生きる社会のために民生代案を提示します。

8)社会福祉委員会=施しでない権利としての福祉を作ります。

9)経済金融センター=公正で民主的な経済秩序のために活動します。

10)租税財政改革センター=租税正義の具現のために活動します。

11)国際連帯委員会=国境を越え、人権を民主主義のために共にします。

12)平和軍縮センター=朝鮮半島の平和のために非核軍縮運動を広げます。


このような広範囲の活動を20年以上にわたって実践しているわけで、それぞれのセンターには専従スタッフだけでなくボランティアで参加している専門家(大学教授や弁護士、新聞記者など)が加わって、監視をしたり、対案を出したりしている。なので、シンクタンクだという評価を受ける時があると言っていた。

僕などは、市民団体というより、政党の大衆運動部門の各パートという感じがした。なにしろ、90年代の中ごろからのデータがあり、また分析や批判の蓄積があるわけだから、ものすごい話だ。そして、民主化運動の中から生まれたので、政府に対する批判や抗議もしっかり行っている。昨年のキャンドル集会でも<参与連帯>の中心スタッフは退陣行動の事務局スタッフとして活動をしていた。

さて、このような説明を聞いて、ふと思った。<参与連帯>と政党との関係はどうなっているのだろう? 政党が大衆団体である市民運動を「指導」しているのだろうか? あるいは、政党の介入などもあるのだろうか?