韓国のTBS(交通放送)ラジオの人気番組<ニュース工場>12月26日のインタビューから。この日のインタビューは1987年の6月民主抗争で市民組織の中心にいた柳時春さん(女性)。1950年生まれの彼女は高麗大学国語国文学科を卒業、学校の教師をしながら小説家として1973年にデビュー。しかし、80年代以降、チョン・ドファンによって免職となり、その後は在野の民主化運動に参加します。韓国で人気のある元政治家(?)、今は作家の柳時敏(ユ・シミン)のお姉さんとしても知られ、もう60代後半ですが、その声も話の内容も若く魅力的です。2日間のインタビューを4回ぐらいに分けて紹介します。このインタビューに出てくる80年代後半の民主化運動は、2016~17年のキャンドル市民革命につながるもので、ぜひその内容と意義を聞いてください。
(なお、キム・オジュンが休暇で進行役はイ・ジョンヨル元判事が担当しています。聞きやすい声と発音ですので、何度か聞いて聞けばわかります。韓国語の原文はTBSのHPを見てください。訳文は自動翻訳にちょっと手直しをしましたので、不自然な部分があります)
[インタビュー、第1工場]
6月抗争当時の主役から聞く30年前の熱かったその日の話
-柳時春(ユ・シチュン)作家(6月民主抗争当時、民主争取国民運動本部常任執行委員)
李政烈(イ・ジョンヨル):映画「1987」が封切りを控えています。 監督から聞いた話ですが、<ニュース工場>があまりにも人気が高いので、本や映画の広報をお願いするという請託が非常にたくさん入ってきます。 金英蘭法に違反しない範囲でされようとしただろうから、どうであれ、ニュース工場で紹介があれば、大きく注目され成功する。ですが、「1987」の映画に関しては全くガム一個もらっていませんが、じゃあ、なぜ今日は「1987」の話を切り出すのか。 「1987」という映画が1987年6月民主抗争を背景にしています。 そこについて関心が高まっているが、この映画を見て深い感銘を受け聞きになっただけでなく、この時期に関する生きていらっしゃる、生きている歴史の方を一人お迎えしました。 1987年当時、民主政治国民運動本部常任執行委員だったでしょ。 柳時春(ユ・シチュン)作家さん、スタジオに直接出ました。 いらっしゃいませ
柳時春(ユ・シチュン):はい、こんにちは。
李政烈(イ・ジョンヨル):先生、ここでお会いしたからもっと嬉しいですね。 知ってらっしゃる方々はご存知でしょうが、柳時春(ユ・シチュン)作家さん本人も有名で立派な方なのに、あまりにも大きな方がいらして隠れてしまって、いつも聞かれていて、質問が飽き飽きしているかもしれませんが、 (弟の)柳時敏(ユ・シミン)元保健福祉部長官、今は作家ですが、彼と関連してどうかという、事実、柳時春(ユ・シチュン)先生も立派な方なのに、ユ・シミンの陰に隠れていてしゃくに触るとすが、うですが、
柳時春(ユ・シチュン):いいえ,ありません。
李政烈(イ・ジョンヨル):先生表情が本当になさそうです。 これが選挙を過ぎてからの話ですが、大統領選挙の時おじいさんおばあさんの遊説団をしましたよね。そして、出てきた話が、その当時にこのようなジョークがありました。 オデムン、どうせ大統領は文在寅(ムン・ジェイン)。アナムン、父が出ても文在寅(ムン・ジェイン)。その時代、柳時敏(ユ・シミン)作家さんしては、このような言葉がありました。 ユナムンと。 何かわかってますよね?
柳時春(ユ・シチュン):柳時敏(ユ・シミン)出ても文在寅(ムン・ジェイン)。
李政烈(イ・ジョンヨル):もう過ぎてする話ですが、いったん柳時敏(ユ・シミン)元長官から星感情ないとしてるんだから。 当然そうでたようで。 今日、来ていただいて聞きたい事から始めてみます。 <民主政治国民運動本部>、略して<国本>常任執行委員として活動して、この当時の本当に生きていた歴史ですが、ひとまず、映画の「1987」。どのようにご覧になったか、ちょっと。
柳時春(ユ・シチュン):はい。 映画が芸術としての本性を持っています。 また、そのどんな芸術と文学もその時代の社会現実と歴史から決して自由ではないです。 そのために対社会的な機能を持っていますよ。 私はこの両者のうちに後者により充実した、そして非常に立派なその機能を遂行した映画だと見ました。
李政烈(イ・ジョンヨル):歴史的な意味がある。 これでひとまず1987年にはもし1987年度に生まれたとしてももう三十じゃないですか。 だからその時代を記憶するというのがどう見ると、記憶している人たちなら先輩に話を聞くことができる、いったん、それではこの1987年6月抗争がなぜ、どんなきっかけに起きようになったのかその開始から言葉をお願いします。
柳時春(ユ・シチュン):とても長いから私が簡単に減らしてよくお話しします。 皆様ご存じのとおり、朴正煕(パク・チョンヒ)維新統治体制は事実終身執権体制でした。 ところで内部の分裂に朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領が殺害されて民主主義を渇望していた国民は民主政府が当然樹立されるととても合理的な推論をしていましたが、ひょんなことから、全斗煥(チョン・ドゥファン)と新軍部の一味が、光州(クァンジュ)で虐殺を敢行して、それこそ政権を奪取しました。 それから7年にわたって正統性も、民主性も、歴史性も不在したその政権を退けて新しい民主政府を立てたいという熱望が国民に広範囲に広がって、その中でも青年学生たちが勇気ある前衛に立ちました。 そのため、青年学生たちが刑務所にたくさん連れて行かれたんです。 特に、5・18光州(クァンジュ)民衆抗争の真相を明らかにすることを要求する学生たちは皆逮捕しました。 それで86年12月、当時に刑務所に約6千人あまりの青年学生をはじめとする良心の囚人たちが閉じ込められていました。
李政烈(イ・ジョンヨル):6千人なら、一学校学生数なのに。
柳時春(ユ・シチュン):そうです。 そのため、多くの生徒・学生を令状もなしに逮捕・拘禁して拷問していることがあまりに頻繁したが、メディアの口を封じ込めていたため誰もそれを報道することができなかったです。 それでいよいよ1987年の新年が明けたとき、1月14日に故朴鍾哲(パク・チョンチョル)君が被疑者でもない参考人と呼ばれて行ったら、もちろん令状もありませんでした。 家族にも知らせず、です。 秘密裏にでしたが、今の南営洞駅近くにある南營洞(ナムヨンドン)対共分室で参考人として事情聴取を受けていたが、水拷問によって残酷に殺害されます。 ところで、この朴鐘哲事件は決して偶然に起きた事件がありません。 それ以前にすでに多くの朴鐘哲がいました。 一々列挙できませんが、、1986年に出た、大韓弁護士会で発刊した人権報告書に見ると、軍隊に連れて行かれ、疑問の死を受けた学生たち、また、捜査機関に呼ばれて行ったらとてもかけ離れた線路沿いに遺体で発見されたり。 こんなに原因を明らかにできない、ただ、捜査機関による疑問の死と推定される様々な死がありました。 それが累積されて、起きました。 そして86年11月末に愛国学生闘争連合の1400人が民主政府樹立を要求し、建国(コングク)大学を占拠した事件がありました。
李政烈(イ・ジョンヨル):それ本当に記憶も新しいです。 建大事態。
柳時春(ユ・シチュン):はい、建国大学事態です。 そのとき全て官製マスコミ、政府の検閲を受けるマスコミは政府が言うとおりに、全斗煥(チョン・ドゥファン)が言うとおりに共産主義闘争、日本の赤軍派を模倣した左翼ゲリラ闘争だ。こんなに全部、赤く塗って罪を被せる時代でしたが、司法史上、前例がない1200人余りが拘束されました。それで刑務所があふれるばかりになり、ついに朴鍾哲(パク・チョンチョル)を拷問して殺した後、死体を隠すこともできずに、火葬できずにばれてしまうのです。ばれてしまってこの事件がとても国民の怒りを呼び起こし、です。 みなさんよくご存知の通り、その映画に詳しく出てきますが、本当にとんでもない、どのようにみると小学生の水準にも満たない、そのような対応を警察が出されます、「テーブルをパンと叩いたら、ウックと言って死んだ」
李政烈(イ・ジョンヨル):はい。 当時、カン・ミンチャン治安本部長と覚えています。
柳時春(ユ・シチュン):はい、そうですよ。 パク・チョウォン本部長もいます。彼らが2~3日間、頭を突き合わせて熟議した結果がやっとそんな子供だましの「テーブルをパンと叩いたら、ウックといって死んだ」という有名な言葉を残しました。 私はこの朴鐘哲事件を見ながら、「歴史は、たまに偶然を通じて必然を観察する」という言葉があります。偶然な事件のように見えますが、決して偶然な事件ではなく朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君拷問致死事件が起こることにより、そして、ついにその拷問まで操作、隠ぺいした情況が分かり、国民の怒りは空を突いたり、です。 そして、全ての国民がその誰も、検事の請求で裁判所の令状なしでは逮捕、拘禁されないという憲法の精神を実践することを要求し、体育館で自分たちでひそひそと大統領を選ぶのではなく、共和国の主人である国民の参政権を返してくれと要求するに至ったのです。
李政烈(イ・ジョンヨル):そうです。 少し追加説明をしますと、当時に拷問に加わった人間が全部で5人かそうだったんです。 ところで二人がした事にして縮小し、二人がすべてかぶって逮捕され、拘置所の中から、実は他の三人がいたという話が外に流れ、それをカトリック正義具現司祭団が。
柳時春(ユ・シチュン):はい。 その話、私が説明しましょう。本当に歴史ですね、振り返って思えば、私は無神論者ですが、このときだけは、神がいたのかと言う気がします。 それで、その五人のうちにA、B、C、D、E中にD、Eが罪をかぶったということでしょう。 自分たちは後から腕をつかんでいる程度の補助でした。でも考えてみると、これの拷問致死という恐ろしい犯罪を二人が被ることを考えると(怖くなって)、泣きながら吐露したんです。それを刑務所にいた良心の囚人の一人がメモをして。
李政烈(イ・ジョンヨル):李富栄(イ・ブヨン)先生?
柳時春(ユ・シチュン):李富栄(イ・ブヨン)先生がいらっしゃったし、それをその当時の看守が伝達をしました。 ところが、果たしてこのものすごい事実を誰に伝えるのか、しばらく悩んみました。まず、改憲請願国民運動を繰り広げていた野党に伝えるか、それとも学生たちに伝えるか。 誰に伝えたら、これが最も国民に信頼を与えて義憤を巻き起こすだろうか、ということを悩んだ末に<正義具現司祭団>という神父の組織に伝えることになります。
李政烈(イ・ジョンヨル):その時、<ニュース工場>があればよかったんですが。
柳時春(ユ・シチュン):その時、<ニュース工場>があったら朴鐘哲事件が起きなかったのです。
李政烈(イ・ジョンヨル):確かにそうですね。 そうして拷問をして人を殺しただけでなく、延いてはそれを隠蔽するまで。 そんな犯罪を犯したが、それが導火線になって実際の行動まで行きましたが、拷問致死事件に対する怒りを超えて、当時、国民が要求したのはさっきおっしゃった通り、大統領を直接国民の手で選ぶことができる、つまり大統領直選制。 国民の権利を保障するということでした。 それでその話と関連して先生がいた民主政治国民運動本部。その組織はどうでしたか? 規模とか。