韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

最初の一歩 9

2017-11-13 22:48:30 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 9>


今回から成田空港反対、いわゆる三里塚闘争のことを書くが、たぶん話が行ったり来たりして分かりにくいかもしれないが、ご理解ください。

僕が初めて三里塚闘争のことを意識したのは、高校生の時だったと思う。実は高校のとき写真部にいたので、アサヒカメラだったと思おうが、三里塚の写真が載っていた。立ち木の上に登って何か叫んでいる農民、そしてその木を倒そうとする作業員と警察、記憶が正しければ、そんな内容の写真だった。三里塚の代執行が71年だったから、テレビニュースや新聞などを覚えていてもよさそうなのに、ほとんど記憶がない。唯一の記憶が、この立ち木と農民の写真だった。ネットで探してみたが、福島菊次郎さんの写真に似たようなものがあるが、これとはちょっと違う気がする。


また、べ平連の事務所で、三里塚に援農に行ってきたという話を一つ上の仲間から聞いたことがあった。たしか73年の夏のころだったと思う。翌年、74年には空港反対同盟の代表の戸村一作が参議員選挙に立候補して、その集会や街頭演説などにも参加していた(当時、選挙権はなかったが)。最終日、たしか新宿の東口で街頭演説があり、ものすごい熱気だった。その時は、当選できると確信していたが、結局23万票で落選した。この選挙には、いわゆる新左翼と呼ばれた急進勢力が集まって行われたが、中核派が革マル派との内ゲバ戦争に入っていて、選挙という合法活動には対応が取れていなかった。そのため、何万という票を固めることができなかったと、10年ぐらいたってから選挙の裏方をしていた人から聞いたことがある。

初めて現地に行ったのが、77年の4月だったと思う。大学で知り合った数人と個人的に行ったのが初めてだった。現地といっても、反対農家がいる農村ではなく、よく集会に使われていた三里塚交差点の近くにある第一公園に行ったわけだ。当時、全国集会はこの第一公園で行われていて、その日は、上野駅から京成成田へ行き、そこから臨時バスが出ていた。デモは南のほうへ進んで、確か岩山(地名です)にあった野戦病院(救援救護対策の組織、集会の時は医者や看護婦が来ていたと思う)までデモをして、そのあと来た道を戻って五十石の臨時バス停で京成成田行きのバスに乗った記憶がある。実際に農家の家に援農に入ったのは、かなりたってから79年ごろではなかったかと思う。

三里塚闘争に関わった人なら当たり前のことがいくつかあるが、そんな人は最近は希少価値なので、僕の知っている範囲で追加の説明をしておこう。

まず、三里塚闘争が他の住民運動と異なったところは、新左翼の支援を受けて実力闘争を行ってきたという歴史がある。空港用地を確保するため行政代執行が決まり、測量用のくい打ち阻止、71年の第1次、第2次代執行阻止の闘い、77年の岩山鉄塔破壊への抗議闘争、そして78年2月の横堀要塞の闘い、3月の開港阻止の闘いと、成田空港建設反対の歴史を見ると、反対同盟の農民たちと支援と呼ばれた労働者や学生たちの実力闘争が行われていた。
この実力闘争の是非をめぐって、三里塚闘争は日本共産党との連携を切ったわけだが、市民の抵抗権という観点から、もう一度検討してみる課題だとおもう。
というのも、今年の7月に現地を訪問した九州、長崎県の石木ダム予定地では非暴力の直接行動によって工事を止めようと、水没予定地域の住民が毎日、建設用重機の前に座り込んでいる。ここは行政代執行の手続きはすべて終わっていて、最後のハンコだけが残っている段階だという。
一方、激しいぶつかり合いでいつも逮捕者やけが人を出していた韓国のデモは、昨年のパク・グネ退陣のキャンドル集会では、暴力的な衝突は最初にほんの少しだけあっただけで、その後は影を潜めた。といっても、あの集会が100%合法かというと、そうでもなく、ぎりぎりのところで抵抗をしていたのも事実だ。
この二つの事例を通すと、三里塚闘争の歴史的な意義というものが、もう一度明らかになるだろう。その点を、考えてみたい。(続く)

反対同盟委員長の戸村一作。戸村選挙のときの集会。


最初の一歩 8

2017-11-10 16:30:00 | 最初の一歩~どこまで行っても
<最初の一歩 8>

先週末から、日本の選挙が気になり、かつての出来事や体験をまとめる気になれませんでした。どうにかリベラル派の政党が新しくでき、自民+公明+希望vs立憲民主+共産+社民+市民連合の対決構造ができて、ほっとしています。
ただ、選挙の予想をとても甘く考えている人もいれば、反対に選挙制度自体に限界を感じている人もいて、どちらもいい加減にしてほしいと思います。というのも、ここ2、3年の間、これまで滅茶苦茶な状況にしてしまった要因の何パーセントかは、甘く考えている人にも、また限界を感じている人にもあると思うからです。
僕自身、べ平連という市民運動からはじまり、学生時代はかなりラジカルな運動をしていたわけですが、それにもかかわらず日本社会の右傾化がどんどん進行していったのを、直接見て体験しているわけです。なぜ、もう少しまともな状況にできなかったのか、特に変革を求める進歩的な運動を拡大することができなかったのかという、忸怩たる思いがあります。そのような思いを込めて、大学時代のことを書いてみます。
+  +  +  +  +

僕が70年代後半に入った法政大学は、学生会館が自主管理をしていることで有名だった。この時代を体験していない世代には<自主管理>という言葉の響きがどのようなものか、さっぱりわからないと思う。大学構内での<自主管理>は、68年ごろから全国で高揚する学園紛争の雰囲気というかニオイを感じさせる言葉だ。どんなものか、具体的に説明してみよう。ただ<自主管理>の事務的仕事には関わっていなかったので、事実誤認がある部分もあるかもしれないので、その点はご理解ください。
74年に作られた学生会館は、自治会(2部の民青系自治会を除く)やサークル、運動部から応援団まで同居する不思議なところだった。そのうえ、入り口には、ほぼ常時、旗をまいた竹竿で”武装”している中核派自治会の防衛隊が立っているという、シュールというか時代錯誤というか不思議な光景も見ることができた。(ちなみに竹竿だけだと、凶器準備集合罪が成立し、旗を巻いていると大丈夫と、当時は言われていたが、本当だったのだろうか?)
この学生会館は、サークルボックス棟とホール棟に分かれていて、サークルボックスが1フロアに20、確か8階ぐらいまであったから160ぐらいサークルボックスがあった。自治会や学部ごとに組織された学術団体、そして文化連盟と言われた<歴史>のある組織・サークルは1つのボックスを確保し、学生団体連合というサークル団体の場合は2~3つで同居しているところもあった。また、新しくできたサークルなどは文化連盟には入れず、学生団体連合にしか入れなく、入ってもすぐにはサークルボックスが割り当てられることはなかった。その意味では、きわめて閉鎖的な運営をしていたといえる。
そのため、学生会館のホール棟や校舎のホールなどをたまり場的に利用しているグループもかなり多かった。当時で学生数が2万人、小金井の工学部を除いても、1万5千以上、その半分ぐらい学校に来ていても7~8千人が大学構内にいるわけだから、160ぐらいのサークルボックスでは間に合わないのは当然だ。それにも関わらず、学生会館の増築や新築が要求として上がっていなかった点が、法政大学学生会館<自主管理>の限界だったと思う。いわば、本工主義労働組合の学生版だ。
ホール棟には確か400名ぐらい入れる大ホールと小ホール、会議室、音楽練習室、喫茶店などがあった。ホールも音響から照明まですべて整っている本格的なもので、当時でも学生が自主管理をしているホールは法政と京大の西部講堂だけだった。(西部講堂は今でも自主管理をしている)
学園祭のときは泊まり込みもOKだったので、オールナイトでコンサートや映画の上映などが行われていた。渡辺貞夫なども来た事があったっけ。
中にある喫茶店も、僕がいたことは応援団か体育会のリーダーがマネージャー担当で学生が運営という不思議なところで、メニューはコーヒーとカレーライスぐらいだった。
校内にはタテカン(分からなかったら、調べてください)があり、学生会館にはステッカーが張られ、ヘルメットを被った自治会の防衛隊と学ランを着た応援団が同居している不思議な空間は、独特のものだった。
当時この学生会館を管理していたグループが法大全共闘と名乗っていたノンセクト黒ヘルグループだ。こう書いても、今の人には分からないと思うので、ちょっと解説をしよう。セクトというのは党派、簡単に言えば革命を目指す政治組織のこと。ノンは否定だから、党派ではない、政治組織ではないという意味、つまりもっと緩やかで各自の自発性を尊重したグループだが、実態は違っていた。
また、当時は党派ごとにヘルメットの色を変えて自分たちをアピールしていたが、なぜかノンセクトは黒となっていた。(赤も少しあったそうだ)
全共闘というのは、全学共闘会議の略語で、もともとは学生自治会に代わる臨時組織だ。学生自治会が手続き上の複雑さや執行部の反対などで、政治的な緊急課題に取り組めないときに臨時に作ったものが<全学連>として定着、70年安保をリードしていった。70年代後半の法大全共闘がどのように人的、思想的につながっているかはよく分からない。
自治会は中核派が法学部、文学部、経済学部、経営学部を支配し、社会学部と第二教養学部がノンセクト黒ヘルのメンバーが活動していた。活動家の数でいえばノンセクト黒ヘルのほうがはるかに多いし、各サークルでサークル活動もしていたので影響力は大きかった。ただ、影響力といっても学内課題が2つ3つ(夜間立ち入り禁止の問題、町田移転の問題、期末試験など)、学外課題が三里塚や解放運動だったりしたが、政治的な核になるメンバーが弱かったので(いなかったのかもしれない)、課題について学習したという記憶はほとんどなかった。
大学は、学生会館の運営費を学生会館管理委員会(正式名称は忘れた)に渡していれば黒ヘル全共闘はそれなりにコントロールできると考えていただろう。また、中核派が支配している自治会には自治会費を渡し(4学部だからかなりの金額だ、その上、当時の中核派の学生対策責任者のは裏金も貰っていたというから、ひどい話だ)、平和共存をしていたと言える。また、当時は中核派も黒ヘル全共闘との平和共存路線をとっていたように思える。(その後、対立し、ほとんどの黒ヘル全共闘メンバーが学外へとたたき出される。何人かは暴行を受けたと聞いた。たしか79年ごろの話だ)
と、ここまで書いて、大学時代、何をやっていたのだろうか、という気持ちになってきた。中核派の”革命的”暴力支配によってクラスでの自由な討論をジャマされた当事者としては、今さらながら残念だし、腹が立つ。
当時の法政大学にはきちんと問題意識を持った学生も多かったし、社会の雰囲気もまだ今よりもはるかに自由だった。彼らの暴力的な介入がなければ、クラスでそれなりのレベルでの討論や具体的な行動ができる土壌はあったと思う。このような学内での圧殺の構造は法政だけでなく、他の大学でも同じ事例がたさんあった。それを考えると、70年代半ばから後半にかけての運動の後退は、内ゲバ党派(中核派、革マル派、解放派)の責任が大きい。
自主管理をしている学生会館に入り浸りはじめたころ、僕も仕方なく黒ヘル全共闘のメンバーとして活動を始めるようになる。そして、三里塚でも開港=空港の使用開始という大きな山場を迎えようとしていた。

写真は、上が学生会館、下が三里塚の婦人行動隊、漫画の「ぼくの村の話」


最初の一歩 7

2017-11-10 02:15:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 7>


大学での色々な経験はもう少し後で書くことにして、朝鮮半島との関わりがどんなきっかけで始めたのか、思い出しながら書いてみよう。
ただ、先日、チェジュでのバスツアーの時、福岡の後藤弁護士から僕が書いている時代についてよく分からないと言われて、どう書き進めていけば良いかちょっと悩んでいる。ちなみに後藤さんは、今年49歳、10歳ちょっと離れているので、世の中への感覚が違うのかも。

さて、72年の年末からベトナム戦争で<覚醒>した僕にとって、73年は朝鮮半島の分断と韓国の軍事独裁、それに反対する民主化運動、そして日本と韓国のいびつな関係に<覚醒>した年だった。

73年の8月8日、韓国野党の大統領候補だった金大中が東京のホテルグランドパレスから連れ去られ、5日後にソウルの自宅近くに現れるという拉致事件が起きた。
この不可解な事件は、当初から韓国の情報機関が関わっていたという疑いが強く、韓国では民主化を求める運動が大学や知識人の間に拡がって行った。
この民主化運動に対して大統領の朴正熙は独裁体制を強化していく中、翌年の1974年に民青学連事件をデッチ上げる。この民青学連事件では取材をした記者と通訳の2人の日本人も逮捕、起訴されて、日本でも大きく報道されることになる。また、詩人の金芝可も逮捕、起訴され、死刑判決が下される(後、無期懲役に減刑)。

このような状況の中で、金大中拉致事件の真相究明を求める運動や、民青学連や金芝可裁判の死刑判決を糾弾するデモや集会が各地で行われ、よく参加した覚えがある。
また、「朝日ジャーナル」や「世界」等の雑誌でも韓国の民主化運動についての記事がかなり載っていた。その中でも有名なのが「韓国からの通信」だ。牧師や神父などの宗教関係者が伝えた情報を、当時、日本にいた宗教政治学者の池明観が文章化したもので、毎月、3~4つのトピックが掲載されていた。

当時の雰囲気を思い出して見ると、韓国の民主化運動を支持するのが当然で軍事独裁はダメだという意見が多数だったと思う。ベトナム戦争に反対するのが、平和憲法を持っている日本として当然であるように、韓国の軍事独裁に反対するのも当然だった。
ただし、何故独裁政権が生まれたのか、もっと根本の問題としてなぜ南北に分断しているのか、ということに対しては日本の植民地支配ということをうっすらとした認識に止まっていた。
ただ、この当時、僕が参加した運動は和田春樹さんや青地晨さんなど、知識人たちの運動という色彩が濃かったような気がする。というのも、この時期のこの分野での活動についての記憶があまりないのだ。全電通会館等での講演会や日比谷野音での集会等に参加したのは事実だが、果たしてどんな内容だったのか、記憶が曖昧だ。多分、どこかに引っ掛かりがあって、全力投球できない、そんな気分だったと思う。

それは、大学を受験するかどうかで悩んでいたのかも知れない。あるいは、知識人中心の運動に参加することが免罪符だという自己批判があったのかも知れない。または、韓国はベトナムとは違うので軍事独裁は倒れないと考えていたのかも知れない。

そんな思いや惑いを抱きながら、1974年か75年頃に韓国への公害輸出に反対する運動が始まる。日本の公害規制が厳しくなり、規制の弱い韓国の工業団地に工場を移転するという動きが発覚する。これに対して、公害原論自主講座のメンバーやベ平連の中心メンバーだった井上澄夫さんなどが実行委員会をつくって反対運動を始めた。
むしろ、僕にはこの運動の方が、しっくりした。その夏、確か8月頃、毎日デモというのがあり、亀戸の駅前の公園から江東区の南にあった工場跡地までデモをした。確か六価クロムが問題の物質で、跡地の水溜まりは緑色になっていた記憶がある。

70年代の半ば、僕はこんな感じで韓国と関わり出したが、長続きはしなかった。
僕が再び韓国と関わるようになるまで、10年が必要だった。

 

最初の一歩 6

2017-11-06 14:40:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 6>

68年の時に中学生だった世代は、もう少し早く生まれていたら間に合ったのにと思ったことはなかっただろうか? 72年ごろからベ平連のデモに行くようになって社会に<覚醒>した僕も、かつてはそう思ったことがよくあった。

一つには、68年を前後した世界的な変革の流れに身を置くことが出来なかったという思いだ。たぶん、あの時代にたいしてなんとなくロマンを感じていたのだろうと思う。<覚醒>して間もない僕にとって、68年前後の社会変革の大きな動きは、それだけで魅力的だった。
その大きな動きは日本だけでなかった。ベトナム戦争でも旧正月に大きな戦いがサイゴン市内でも起き、フランスでも5月革命があったことを、<覚醒>して間もなく知り、勉強をした。その動きは朝鮮半島でも起きていて、北朝鮮のゲリラ部隊がソウルまで密かにやってきて、青瓦台を襲撃しようとした事件すら起きた。<大統領の理髪師>というソン・ガンホ主演の映画の時代背景が、この青瓦台襲撃事件になっている。
とにかく、感覚的に68年という時代にあこがれていたと言える。

一方、70年代半ばからの中核派と革マル派による内ゲバが日常化した。どの程度ひどかったのかというと、74年ごろから1年に10人以上の死者が発生したということだけでも、程度がわかるだろう。これにより、すべての新左翼的な運動は<内ゲバ勢力>と見られ、大きなマイナスになった。そんな状況のなか、僕は<覚醒>したわけだ。

大学に入って1年生の時だ。当時、大学自治会がまだ辛うじて残っていて、大雑把に言うと昼間部の自治会は中核派が支配し、夜間部の自治会は民青が指導していた。僕のクラスにも民青の活動家が2~3名いたので、彼らと一緒に最初は動いていた。動くといっても、クラスの親ぼくのための飲み会や野球大会などをし、2~3回、クラスで討論をしたぐらいだ。民青の活動家のH君やK君にしてみれば、僕は高校のときからベ平連などの活動をしていたから、オルグ(この言葉の意味、わかるかな?)対象になっていた。僕は僕で、彼らと討論すれば、勝てるとうぬぼれていた。(当時は、すでに共産党‐民青は議会主義で…と批判的に見ていた、まあ、僕も幼かったわけです)

そんなお互いの思惑が一致?したのか、仲良くクラスでの活動をやっていたとき、事件が起きた。その大学はお濠を挟んで内側が中核派と黒ヘルノンセクトの縄張り、お濠の外が民青の縄張りというすみ分け原則があったが、たまたま、お濠の内側の校舎でクラス単位で行う語学の授業があったので、その時間を借りて討論をすることになった。
討論を初めて10分ぐらい経ったころ、サングラスと帽子で顔を分からないようにした男、数人が突如、クラスに入ってきて、H君とK君、もう一人名前は忘れた男子学生にペンキか何かを掛け、そのまま教室から引きずり出し、校門の外まで追い出してしまった。廊下には、中核派の僕担当?のアワタという学生兼専従活動家がいて、一部始終を見ていた。中核派の仕業ということは直ぐに分かったので、何だこれは、と抗議したが、自治会とは関係ない、志のある学生が反革命の共産党を追い出したのだと、シラを切った。

そのあと、クラスでは僕が手引きをしたという噂になり、クラスでの活動は、全くできなくなった。もちろん、K君にもH君にも、その後、一度も会っていない。
そして、この一部始終が、革マル派の機関誌に詳しく載ったのには驚いた。僕の名前は出ていなかったが、どこかでキッチリ観察していたわけだ。

やはり、今、思い出しながら書いたが、いやな思い出だ。こうやって、どんどん、人々が運動から遠ざかっていった。また、進歩的な運動をする人達もトロツキスト暴力集団といって批判をした。 それにもかかわらず、僕は様々な課題に取り組んでいった。三里塚、日韓連帯、水俣病などの公害問題、解放、障碍者解放など、ベトナムから始まった僕の社会的な関心も広がっていった。

写真は、三里塚の少年行動隊、ご存じ、キューバのゲバラ、そして韓国映画"大統領の理髪師


最初の一歩 5

2017-10-20 13:30:00 | 最初の一歩~どこまで行っても
<最初の一歩 5>

1972~3年頃、地域に根ざした運動のなかで、僕が行ったり、チラシ等でどんな運動なのか知っていたものを思い出すと、こんな感じだ。
まず、もののべながおきさん達のちょうちんデモの会、武蔵野で活動していた老舗で、ベ平連ではない、といつも言っていたとべ平連事務局長の吉川勇一は書いている。
次に、小沢遼子で有名だった埼玉ベ平連、たしか事務所は浦和にあったはずだ。
新宿べ平連というのもあって、いつも和服で月例デモに来ていた古屋のおばちゃんという方がいた。とても自由な雰囲気の方で、僕たち若手グループとも自由に話をしてくれて、いろいろ教わった記憶がある。たしか、ヒロシマの原爆をアジア各国がどのように受け止めたのかという視点も大切だということを、古屋のおばちゃんから聞いた覚えがある。
大泉にもベ平連があって、代表は大学の先生だったはずだ。と書いて、調べてみたら、べ平連ではなかった。中心メンバーは和田春樹先生と清水知久先生(日本女子大)なので、この記憶はあっていた。なお、練馬区議の池尻さんが大泉の運動を記録した写真集の紹介をしています。
http://ikejiri.exblog.jp/d2010-11-01/

基地関係では、立川テント村、ヨコスカ市民グループ、横田基地反対の福生市民連合?などがあったが、ベ平連時代に知ったのか、それともそれ以降の活動で知ったのか、記憶があいまいだ。横田基地には80年代以降、何度か言ったことがあり、当時福生市議の遠藤洋一さんの案内で基地を見て、遠藤さんのハウスで昼ご飯をごちそうになったこともあったっけ。
相模原補給廠の反対運動を担っていたのが<ただの市民が戦車を止める会>と<相模原補給廠監視団>。戦車を止める会の梅林さんとは、そのあと、日韓の問題でもいろいろとお世話になった。
このような地域の運動にはすごいなと魅力を感じていたと同時に、僕がその地域に引っ越すわけにもいかないし、と考えていた。

今から考えると、この時代の僕の行動範囲には、地区労とか総評とかの労働組合はほとんどなかった。時々、全国一般南部支部などが来ていたかな?このあたりの記憶は74年以降の金大中救出運動とゴチャゴチャニなっていて、自信がない。市民運動と労働組合運動は、ほとんど接点がなかったという感じだったので、労働組合運動は大切だと頭では考えていたが、当時はきっかけがなかった。まあ、20年ほどあとに、ほんの少し体験することになるのだが。

もう一つ、通っていた新宿高校ではほとんど活動をしなかった。新宿高校は、僕の入学する前はバリケードを作ったりとかして、かなり派手な学園紛争があったところだったし、また定時制には世田谷区長、というより内申書裁判の保坂展人が通っていた。通った当時、71年から74年(だとおもう)には、1年留年した生徒や数人から10人ほどの<活動家ごっこ>をしている生徒がいた。(たしか、社会問題研究会のメンバーだったと思う)新左翼の党派(政治グループ)で言えば、ブンド(共産主義同盟)系列の影響を受けていたようだ。この辺りは、きちんと討論したこともなく、お互いやっているな、という距離感だったので、はっきりとはわからない。唯一の共同行動?が卒業式に校門や会場の体育館に掲げてある日の丸を捨てることで、これは彼らと一緒にやった記憶がある。僕の目から見ると彼らは明るく楽しい<活動家ごっこ>を一時的にやっているとしか見えなくて、当時、ネクラで純粋だった僕には、ついていけない連中だった。

そして、この時期は連合赤軍のリンチ事件や中核と革マルの内ゲバなど、政治をめぐる状況はだんだん悪くなっていた時代だった。市民運動をやりながら、なんであんな事が起きるのだという怒りと疑問があった。そのあたり、どう考えていたのか次に書いてみよう。

写真は、小田実が中心になって発行していた<週刊アンポ>というミニコミ。ここから本文を読むことができます。
http://www.jca.apc.org/…/635ShuukanAmpoZengougaPDFfileApplo…
次が、新宿西口のフォークゲリラ。当時、中学生だったので、参加はしていませんが、ニュースではよく見ました。


最初の一歩 4

2017-10-15 04:52:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 4>


ベ平連の事務所は東西線の神楽坂駅のすぐ上にあった。1階にコーヒー専門店とラーメン屋?がある小さな建物の2階だった。

僕の高校が新宿にあったので、飯田橋まで国鉄!で行って神楽坂の坂を登って事務所まで行った。
事務所は、確か4つに区切られていて、入り口の部屋に小西裁判を支援する会と三菱反戦一株運動の事務局が入っていた。右側が印刷機、と言ってもガリ板の輪転機、青焼きのコピーもあったと思う。
奥の二部屋の左が事務局のスペース、右が会議室だったと思う。事務局長は吉川勇一さんで、かなりオシャレな人だったと思う。実は、その後、代ゼミでお世話になった。(英語を教えていた)
ただ、金庫番というか事務局次長というか、確か吉田さんという人が事務を担当していた。ベ平連ニュースの編集が山口文憲さんだったと思うが、僕などとは10歳近く違うので、話した記憶はほとんどない。その他、室謙二さんや吉岡忍さんなどを見かけたが、大人の世界の人たちであまり近くには行かなかった。
僕が所属したというか、一緒に活動したグループが二つあって、一つは相模原補給厰から戦車、正確には装甲兵員輸送車のM113がベトナムに向けて再び運び出されたとき、ベ平連のメンバー4名が飛び出してトレーラーの下に潜って阻止しようとしたことがある。もちろん、現場で逮捕され、威力業務妨害に問われた裁判が始まっていた。その裁判を支える会の事務局として、会報を作ったり、裁判費用を作るためのバザーをしたり、裁判の傍聴なども高校生で体験した。事務局の中心が確か東洋大の純子さんと早稲田の中井?さん、今で言うフリーターのあんちゃん(本名、覚えていないな)、神奈川大の○○さんなどがいた。
被告は4名だったが、インディアンというあだ名のメンバーが未成年のため、3名で行われた。明大の大学院生、ペンギン、クロちゃんの3名だ。クロちゃんこと岡田理さんとはその後も関係があって、彼は僕が韓国に来る2年ほど前に韓国での暮らしを始めていた。僕が日本語教師をしていた頃に会ったのが最後だから、今から10年以上も会っていない。
もうひとつが、純生などと一緒に新宿の歩行者天国でビラを撒いたり、署名を集めたりしたが、あまり覚えていない。
こんな活動を、いわば学校の外でやっていたわけだが、何か物足りない、もっとラジカルな活動をしないと、という考えを持つようになった。その時、考えていたのが、地域の草の根の活動、労働組合運動、障がい者解放運動等の個別課題の活動、そして革命のための前衛党の活動の四つだった。

写真は新宿西口のフォークゲリラ、僕が<覚醒>する前の出来事。

最初の一歩 3

2017-10-15 04:45:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 3>


べ平連、ベトナムに平和を!市民連合が立ち上がったのが1965年のことだから、1972年の暮れから参加した僕などは、若手というか少年べ平連というか、はっきり言って、一番最後をヨチヨチついて行ったようなものだ。
べ平連を最初にキチンと知ったのが、三一新書の「ベ平連」だったと思う。ただ、当時は「朝日ジャーナル」とか「展望」(筑摩書房)、そして泣く子も黙る「世界」等が頑張っていて、読み始めていたと思う。この辺の記憶は曖昧で、もしかするとデモへの参加のほうが先かもしれない。高校生でこんなのを読んでいて、どのくらい理解していたか怪しいが、高校の時に書いた文章を読むと、今とあまり変わっていないので、驚いたことがある。
もう少し前、中学校に壁新聞形式の印刷された写真ニュースが張ってあって、その記事の中には、確かベトナムのソンミ村での虐殺のニュースがあった記憶がある。テレビのニュースでも、北ベトナムへの爆撃などが報道されていたし、ベトナム戦争が身近にあるという感じだった。
だから、<戦争を知らない子供たち>という歌が、タイトルからして嫌いで、日本だけの平和なんてナンセンス、と思っていた。
そんな時代に、高校生2年生で政治活動を始めたわけだ。僕の通っていた新宿高校は、めちゃくちゃ放任主義の学校で、制服は自由だし、連絡なしで欠席してもノータッチという、生徒の自主性に任せたところだった。なので、3年にもなると、週1、2回ぐらい学校が終わってから神楽坂の事務所に通っていた。月1回、ニュースが発行されていたから、ニュースの封筒入れとか、定例デモの準備とか、高校生でもやれる事はいろいろあった。
僕以外にも、高校生や20歳ぐらいの若手の固定メンバーが何人かいた。もう、45年も昔の事だから、分かる範囲で名前(あるいは、呼び名)を書くと、理工系大学の学生の純生、ひとつ年上の成り上がり、同い年は、小林君にゲホ君、フレンド学園の女の子達、エミちゃんだったかな姉妹で来てたっけ、純生の彼女もこの学校、2つぐらい上に、あんちゃん、ナカベ、そうそう、以前韓国にもいたクロちゃんこと、岡田君。
数人から10人ぐらい、若者グループがいた。
今では覚えていないけど、学習会等もやった覚えがある。
当時、神楽坂の事務所では定例会議があったようだが、1、2回しか出た記憶がない。確か大きな国際会議を準備する会議で、この時、小田実(おだまこと)も来ていて、体に似合わない甲高い早口で仕事の分担を指示していた記憶がある。 写真は小田実


最初の一歩 2

2017-10-11 13:05:55 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 2>

話しは今から45年も前の1972年から始まる。その年の夏、相模原補給厰から修理をおえベトナムに送られていた戦車を、横浜市が村雨橋で止め、2日ほど現場で睨みあいを続けたあげく、補給厰に戻るという出来事が起きた。
当時の横浜市長は社会党の飛鳥田一雄、村雨橋は横浜市のもの、戦車を積んだトレーラーが重量オーバーなので、管理責任者として止めた訳だ。米軍の港、ノースピアの入り口にこの橋があるので、他の道や橋は使えないし、国がしゃしゃり出てきても出来る事はない。横浜市長自らベトナム反戦運動を直接行動で示したと言える。
結局、トレーラーは補給厰に戻り、補給厰の前にはベトナムへの戦車搬出を阻止するために泊まり込み用のテント村が出来た。社会党や共産党はもちろん、新左翼の各グループやべ平連などの市民グループまで、10以上(20以上という話も聞いたことがある。正確な情報、お願いします)のテントが並び、"解放区"となった。補給厰の西門から国道16号線に繋がる道路はかなり広く、片側2車線+並木のあるグリーンベルト+1車線という構造だったので、テントを建てるスペースには困らなかった。法的な許可を取っていたのか不明だが、それが可能な世論があり、警察も手が出せない状況だった。
僕は当時、町田に住んでいたので、目と鼻の先の出来事だった。まだ、小田急の新原町田駅と横浜線の原町田駅は離れていて乗換え用の路地があったが、ヘルメットを被った学生等がそこを通ったという話も聞いていた。
政府が法律を改悪し、テント村が撤去され、9月18日の早朝、戦車はベトナムへ送られる事になる。
結局、テント村があった時には相模原に行かず、だいぶたってから現場に何度も行くことになる。
そして、12月、自分で事務所に電話して日時や場所を確認し、北ベトナムへの空爆に抗議するべ平連のデモに参加することなる。今から、45年も前の昔話だ。

#なお、この<最初の一歩>の文章はフェイスブックに載せましたが、検索ができないのブログに再度載せます。皆さんの感想や事実関係の確認、修正をお願いします。

写真は、上が村雨橋で横浜市と組合が戦車の通行を阻止している様子。下が国が法律を改正して戦車が再び送り出される様子


最初の一歩 1

2017-10-11 01:52:53 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩、その1>


日本の政治状況を韓国から眺めると溜め息ばかりです。アベ一族の身勝手な国家運営を黙って見ている一部の国民も問題ですし、憲法改正を阻止する陣営を作るために努力をしない政党にも腹がたちます。
どうして日本という国は、こんなにワガママで情けない国になったのでしょうか?
高校生の時から、ベトナム反戦デモなどに参加して、できる範囲で様々な運動に、時にはのんびりと時にはラジカルに関わってきました。そのなかで、差別は絶対ダメだ、日本は今もアジア各国を侵略し支配しようとしている、アジア各国の人々との友好が大事だ、民主主義を守るために直接行動も必要だ、等の考えを持つようになりました。
ところが、こんな考えがだんだん"絶滅危惧"になっているようです。この流れを変えて、多数派にならないとダメですが、その第一歩として、韓国のキャンドル集会1周年のスタディツアーを企画しました。これから、昔話も含めて、考えていることを皆さん、特に若い人たちに伝えようと思います。

写真は日本大使館前の少女像