韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

マッコルリ蒸しパン

2018-01-15 00:50:21 | 韓国料理の世界
FBで紹介したマッコルリ蒸しパンのレシピがこれです!
ぜひ、生マッコルリが手に入ったら、チャレンジを^^

=材料=
小麦粉 400g
生マッコルリ 200g
牛乳 200g
卵 2個
砂糖 120~140g
塩 8g
*トッピング材料 豆、干しブドウ、サツマイモ等々
(無くてもOK)

=作り方=
1 ボールに卵2個を入れ、かき混ぜる。


2 マッコルリ、牛乳、砂糖、塩を入れて、塩が溶けるまでかき混ぜる。

マッコルリを入れる!

3 小麦粉をふるって、2のボールに入れる。
気をつけて、小麦粉が外に出ないように^^ ダマが出来ないように混ぜるのがポイント!

4 発酵させる。目安は6時間、3倍ぐらいに膨らむまで。
コタツがないので、電車レンジ+お湯でやってます。

5 蒸し器で20分ぐらいが目安。中火~強火。

すみません、蒸し器の写真、忘れてしまった!
で、懐かしく優しい蒸しパンの出来上がり~~
このレシピ、甘くないので、あま~いのがお好きな方は、砂糖をもっと増やして下さい。

日本では、生マッコルリ、手に入れるのが大変ですが、頑張って!




カンギョンファ外務部長官の発表

2018-01-10 00:33:24 | 梧南里(オナムリ)便り~韓国ニュースあれこれ
1月9日、韓国外交部、康京和(カン•ギョンファ)長官の発表を日本語で紹介します。
この発表の中で、合意破棄をはっきりと言わなかったため、ハルモニたちや挺対協等からは批判の声が上がっているとマスコミでは報道されています。
一方、日本政府は合意内容の履行を韓国側に求め、継続措置の要求は一切受け入れられない、と言っています。
このような様々な意見が飛び交う中で、まず韓国外交部が発表でどんな事を言っているか確認したいと思い、日本語にしました。(田中博)

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2015年の日韓慰安婦合意の議論と関連して、康京和(カン・ギョンファ)外交部長官が政府の後続措置を発表しました。

[カン・ギョンファ長官]
こんにちは。
尊敬する国民の皆様、昨年12月27日、慰安婦TFの結果報告書の発表に先立ち、私は被害者の皆さんなどの意見を謙虚に収集して、韓日関係に及ぼす影響も考慮し、2015年、慰安婦の合意に対する政府の立場を慎重に樹立していくと申し上げたことがあります。

以後、短い期間でしたが、主務省庁である外交部と女性家族部を中心に被害者の方々や関連団体の声に耳を傾ける一方、隣の国である日本との関係も正常に発展させていく案を模索するため、真剣に検討してきました。

このような過程で、何よりも被害者の方々の尊厳と名誉が回復しなければならないことを確認しました。

また、韓日レベルを超えて戦時の女性の性的暴力に関する人権問題である慰安婦問題が人類歴史の教訓であり、女性の人権増進運動の国際的な道しるべとして位置付けをしなければならないという点を重視しました。

さらに、北東アジアの平和と繁栄に向けて、韓日間の正常な外交関係を回復しなければならないということも念頭に置き、政府の立場を慎重に検討してきました。

このような点と昨年末発表された慰安婦合意検討TFの結果土台で設けられた同合意に対する政府の基本的な処理方向を申し上げたいと思います。

第一、韓国政府は、慰安婦被害者の方々の名誉、尊厳の回復や心の傷の治癒のために韓国政府がやるべき仕事をして行くにあたりあらゆる努力を尽くしていきます。

第二、この過程で被害者関連団体、国民の意見を幅広く受け入れつつ被害者中心の措置を模索していきます。

一方、日本政府が出演した和解治癒財団の基金10億円は韓国政府予算で充当して、この基金の今後の処理方案については、日本政府と協議するようにします。

和解治癒財団の今後の運営に関連して、該当省庁で被害者関連団体や国民の意見を幅広く反映して後続措置を用意することです。

第三、被害当事者のハルモニたちの意思をきちんと反映していない2015年の合意では、日本軍慰安婦被害者問題の本当の問題解決ができません。


第四、2015年の合意が両国間の正式合意だったという事実は否定できません。

これを勘案し、韓国政府は本合意と関連し、日本政府に対して再交渉は求めません。

ただ、日本が自ら国際的、普遍的基準によって真実をありのままに認め、被害者の名誉、尊厳の回復と心の傷の治癒を向けた努力を継続してくれることを期待します。

被害者ハルモニたちが、一様に望んでいるのは、自発的で真の謝罪です。

第五、政府は真実と原則に立脚して、歴史問題を扱っていきます。

政府は、過去の歴史問題を賢明に解決するための努力をすると同時に日韓両国間の未来志向的な協力のために努力していきます。

最後に、本日申し上げた内容が被害者の皆様が望んでいることを全て満たすとは思っておりません。

この点について、本当に申し訳ないという言葉を申し上げます。

これからも政府は、真心と最善を尽くして被害者の皆様たちの意見を傾聴し、追加的な後続措置をまとめていきます。

ありがとうございます。

以上

慰安婦被害ハルモニを青瓦台へ招待~青瓦台ブリーフィング日本語訳

2018-01-07 06:55:52 | 梧南里(オナムリ)便り~韓国ニュースあれこれ
韓国の大統領府、青瓦台の記者会見を日本語訳にして、フェイスブックに載せたものを転載します。
ぜひ、多くの日本人に読んでもらいたい文です。また、見てもらいたい写真もありますので、リンク先をご覧ください。
今回のブリーフィングを初め、青瓦台の情報発信はとても積極的で、国民との意思疎通を回復しようという努力の現れです。
これからも、必要だと思われる情報を翻訳していきますので、ご期待下さい。

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<日本軍'慰安婦'生存者招待の昼食会結果のブリーフィング>

文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、今日の昼の大統領府本館、忠武室で'慰安婦'被害者の九名を招待し、一昨年の12.28合意が、慰安婦の女性たちを排除したまま行われたという調査結果について慰めの言葉を申し上げ、今後政府の立場を決めるにあたり被害当事者のハルモニたちの意見を傾聴するため、昼食を用意しました。

ムン大統領は金正淑夫人とともに玄関入口に立って入場されるハルモニたちを一人一人歓迎し、別に移動して遅く到着したハルモニを15分間、玄関で立ったまま待ってから一緒に入場しました。

ムン大統領は「新年にこのようにお会いできて光栄でうれしいです。 私の母が91歳なんですが、私が大統領になってから、あまり会えていません。今日、皆さんにお会いできて、必ず私の母にも会うつもりです。皆さんを一緒に大統領府にお招きするのが夢でしたが、今日、ついに一堂に会し大変嬉しいです。国家が道理を尽くそうと努力しているとご理解下さい。過去、国を失ったとき、国民を守る事ができず、おばあさんたちもひどい苦痛を受けましたが、解放によって国に戻ってきたハルモニたちの魂を慰めてあげて、恨みも晴らして上げればと思いますが、それができませんでした。 むしろ、皆さんの意見も聞かず、皆さんの意思に反する合意をしたことについて申し訳なくて、大統領として謝罪の言葉を申し上げます。この合意は真実と正義の原則にそぐわないだけでなく、政府が皆さんたちの意見を聞かず、一方的に進めた内容と手続き全てが間違えたものでした。大統領として、この合意が両国間の公式合意だったという事実は否定できませんが、その合意で慰安婦問題が解決したと受け入る事はできないと明言しました。今日、皆さんが気軽に様々な意見を言ってくだされば、政府の方針を決定する時に役にたつように努力します」と言いました。

イ•ヨンスさんは「私の年は90歳で、その間大統領府の近くにも来なかったが、ムン大統領が当選してもう二回も大統領府に入った。 2015年12月28日の合意以降、毎日胸がつかえいらいらして、恨めしかった。だが、大統領がこの合意が間違っているということをひとつひとつ明らかにしてくれ、胸がすっとしてありがたくて、その日は大泣きした。慰安婦問題に対する公式謝罪、法的賠償を26年も叫んてきており、必ず闘って解決したい。大統領がいろいろと努力して、負担になっているようだが、この問題は解決してもらわなければならない。 少女像を撤去しろと言っているが、少女像が怖いのなら、お詫びをすればよい。 国民が被害者の家族だ。慰安婦問題が解決されれば、世界平和が訪れる」と言いました。

イ•オクソンさんは「大統領が変わり、言葉を尽くしてくださって感謝してもう安心して暮らせるようになった。 私たち皆が90歳を超えて大きな希望はないが、解放後、73年を待っているのに、まだ謝罪をしない。 子供を引いて銃で、刀で、殴って死ぬことすらまでやっていながらし、今になってしなかったと言わせてて、いいのか。私たちがこれから生きても、どれくらい生きられるのか。謝罪だけはさせてほしい。 大統領と政府を信じる」と言いました。

また、別のイ•オクソンさんは「我々の願いは謝罪を受けることだ。 謝罪を受けられないかもしれないから毎日が心配だ。 大統領が謝罪を受けるようにしてほしい」と言いました。

13歳の時、平壌(ピョンヤン)で連行され、まだ家に復帰できなかったキル・ウォンオクさんは挨拶の代わりに「恨み多い大同江(テドンガン)」を歌い、昨年に発売したアルバム「キル・ウォンオクの平和」をムン大統領にプレゼントしました。

昼食会が終わった後、金正淑(キム・ジョンスク)女史はハルモニたちに一人一人マフラーを直接巻いてあげました。ハルモニたちにプレゼントしたマフラーはアジア貧困女性らが生産したエコ衣類や生活用品を公正な価格で取引して、女性の経済的自立を支援する韓国で初めてのフェアトレード•ファッションブランドを選びました。

最後にムン大統領は、「大統領と写真を撮ることを一番したかった」というハルモニたちの要請により、金正淑(キム・ジョンスク)女史と一緒に一人一人記念写真を撮影しました。

なお、この昼食に先立ち、ナヌムの家から出発したハルモニたちは大統領秘書室が提供した儀典車両を利用し、大統領府までの警察の護衛の下、国賓移動時と同じ最高の礼遇を受けており、警護処は交通の利便性だけでなく、健康上の不慮の事態に備えて救急車まで準備して車両の移動の際に提供し、昼食行事後、ナヌムの家への戻る時も同じ方法でお送りいたしました。

今日の昼食会には'慰安婦'被害者九名のほかにも挺身隊問題対策協議会の尹美香(ユン・ミヒャン)共同代表、正義記憶財団の池銀姫(チ・ウンヒ)理事長、ナヌムの家のアン・シングォン所長、康京和(カン・ギョンファ)外交部長官、鄭鉉栢(チョン・ヒョンベク)女性家族部長官、ナム•インスン国会女性家族委員長などが参加しました。

2018年1月4日
大統領府報道人パク・スヒョン

原文はこちらです。


1987年民主化運動、柳時春(ユシチュン)インタビュー2~韓国TBSラジオ<ニュース工場>より

2018-01-05 01:36:11 | 韓国の市民運動

さて、昨日の柳時春のインタビュー(12月26日分)の後半です。ちょっと、僕の体験を話すと、一番初めに韓国に来たのは、確か1986年の夏に在日韓国YMCAのツアーで来て、その後、年末、五月の連休、秋の連休と1987年には3回来ていました。当時は韓国語もようやく挨拶ができ、食事の注文ができる程度。町中では写真は撮れない雰囲気でした。当時のことは、また別の機会にしますので、柳時春のインタビューの後半をご覧ください。

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柳時春(ユ・シチュン):はい。 ビハインドストーリーをちょっと申し上げますと、最も重要なのが、そんなに爆発的な力を持つようになったのは最後に野党が合流し、共に組織を立ち上げたため、それだけ爆発的な力があるようになりました。 朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君拷問致死事件が起きて、それこそ民主化運動団体だけで2月7日、3月3日に追悼集会と平和大行進をしたのですが、そのときは青年学生たちと民主化運動団体だけ結合をしてデモをしましたが、大きな大衆的な反応を得られませんでした。

李政烈(イ・ジョンヨル):怖くもあった、事実上その状況が?

柳時春(ユ・シチュン):怖かったです。 しかしこれもビハインドストーリーですが、3・3の追悼集会、平和大行進が学生たちと在野団体だけでたいへん小規模で行われ、すぐに鎮圧を受けたので、全斗煥(チョン・ドゥファン)集団が自信を持ったようです。 そこで登場したのが4・13護憲宣言です。 「我々はお前たち要求を聞き入れる事はできない。我々だけで体育館に集まり大統領選ぶ。 私は盧泰愚(ノ・テウ)に譲渡する」宣言を4月13日に行うことになります。

李政烈(イ・ジョンヨル):「4・13護憲」も久しぶりに聞く言葉ですね。

柳時春(ユ・シチュン):はい。ところが、その直前に、数年前にシム・ウンギョンという名前で在韓米大使をしたスティーブンソンという女性の方がいらっしゃいます、韓国語が上手で。その時は、米大使館の参事官だったです。その方が私たちを訪ねて来ました。 友好的でしたね。私たち民主化運動勢力の所に来て、気をつけてと注意してくれました。「今、全斗煥(チョン・ドゥファン)は、なにも目に入らない。 明日か明後日ごろ、たぶん自分たち同士で体育館で再び権力を継承するという宣言をするつもりだ。そして弾圧がもっと深刻になるから、気を付けて行動して」と。その理由は、「2・7追悼集会と3・3平和大行進があなたたちだけの集会で終わったではないか。全斗煥(チョン・ドゥファン)が自信を持つようになったようだ。気をつけろ」と私たちにこっそり教えてくれました。

李政烈(イ・ジョンヨル):どうでした、その時の気分?

柳時春(ユ・シチュン):そうなってもそうでなくても、関係ない。私たちは、我が道を行く。

李政烈(イ・ジョンヨル):すごいですね。 座って話だけ聞いている私も背筋が寒くなります。

柳時春(ユ・シチュン):それで4・13護憲宣言が事実上、国本(国民運動本部)の結成に火をつけたことになります。到底、このままではダメだ。自分たちだけで、体育館に集まってひそひそ話し合って、「私、全斗煥は友達の盧泰愚(ノ・テウ)に大統領を譲る。お前たちは目を閉じて口を閉じて、じっとしていろ、与えるのも食べて」というような宣言だったという言葉です。 4・13護憲が出て、二日後に国本を結成する立ち上げの会議をすることになります。

李政烈(イ・ジョンヨル):その立ち上げの会議、国本を結成した。さっき、3・3大行進まで言われた。 4・13護憲まで出てきたので、およそ5月ごろですか。

柳時春(ユ・シチュン):違います。 4・13護憲出てこれは本当に我慢できない。このように思って、4月16日でしょうか? 牛耳洞レンギョウ山荘という粗末な家で、十人ほど集まって立ち上げたのです。その時は、野党、政党が合流するとは思いませんでしたが、宗教団体、在野団体、学生運動団体がみんなでひとつになることが必要がという立ち上げの会合をしたのが、たぶんその翌々日だったようです。

李政烈(イ・ジョンヨル):4月15日、16日。その時、私が覚えているにはその当時、87年度の状況を後から「6月抗争」と呼ばないですか? そして、その6月抗争と命名された理由が6月10日に大規模な集会があります。 6月10日、このあたり頃に国本や先生が。

柳時春(ユ・シチュン):はい。それで長い議論を経た上に最後に甲論乙駁を繰り広げたのが野党を参加させるかどうかでした。 そうでしたが、結果的に考えば、野党を参加させたのはとても良い判断でした。地域的には済州(チェジュ)からソウルまで、年齢的にも10代で70代の高齢者まで。 慶尚道と全羅道の区別がなかったし…。 その次に分野別でも農民、女性、貧民、学生、人権、法曹、文化、芸術、このすべてのジャンルで、民主化運動をしていたすべての団体が網羅されました。 それで6月10日の朝に、私たちがなぜそれが成功できたのかと言えば、韓勝憲(ハン・スンホン)弁護士のような方が非常に知的なユーモアで、ほとんど神話の段階にいらっしゃる方なので、後に回顧することを「6月抗争が成功したのは聖公会で開催したために成功した」と、こんなこともおっしゃっていたそうです。

李政烈(イ・ジョンヨル):今で言えば、それ、オヤジギャグですが。

柳時春(ユ・シチュン):オヤジギャグですか。その時は凄く新鮮でした。それで国本が発足した5月27日の朝は、昨日のように鮮明に覚えています。そこに出席した200余分の発起人たちは皆、私のように担当刑事が見張っている要注意人物です。

李政烈(イ・ジョンヨル):今のやり方で表現すれば「査察」。

柳時春(ユ・シチュン):ブラック、ブラック・ブラックリストに載っているんです。

李政烈(イ・ジョンヨル):どれだけ黒いば、3回言いますか?

柳時春(ユ・シチュン):そのために場所を事前に知らせる事ができませんでした。 定めませんでした。漏れていくかも知れないから。

李政烈(イ・ジョンヨル):今のように、インターネットでサイていがあるわけでもないし。

柳時春(ユ・シチュン):はい。なぜなら国本を結成したあいつらが何か事をおこすということは捜査機関も知っていましたたが、何月何日どこなのかは知らなかったんです。 5月27日は私たちが決めております。場所はその前日まで誰も知りませんでした。 それでまず、すべての団体が鍾路通りに隠れていることにしました。 光化門(クァンファムン)から、東大門まで鍾路(チョンノ)両方の道に適した場所にいることにして、伝令がメモを書いて通いました。

李政烈(イ・ジョンヨル):笑ってしまいますが。

柳時春(ユ・シチュン):でも、その時はとても切迫していました。それでうちの民家協(逮捕者の家族の組織)はどこにいたかというと鍾路2街の路地にある、その当時、民家協の会員がしていたカフェを夜明けに開けてもらい、そこに待っていました。 私が外に出ると、夜明けの光が輝く朝でした。 5月27日朝6時に、遠くから誰が来ました。キチュンさんです、明洞(ミョンドン)の青年連合の幹事をしていた。以前に大統領府でも働いていた。

李政烈(イ・ジョンヨル):キチュン、金淇春(キム・ギチュン)?

柳時春(ユ・シチュン):ではないです。やって来て、こんなふうに通り過ぎ、メモを、小さなメモ用紙を一枚を私の手に握ぎらせて、いきました。見たら「ヒャンリン教会」と書いてあるのです。その時、私たちがどこで会議をするかをめぐって民主化運動のメッカだった鍾路5街のキリスト教会館、その次に明洞聖堂、ヒャンリン教会、西大門にあるキリスト教社会問題研究院。その四ヶ所を考えていましたが、未明の5時ごろ行ってみたら気配を感じた警察が、警察隊たちを残りの三箇所は配置していきました。行ったり来たりしていますから。キリスト教会館とキ社研と明洞(ミョンドン)聖堂前は、戦警が敷かれていて、私服刑事たちが行ったり来たりします。

李政烈(イ・ジョンヨル):その側の立場で見れば予想問題じゃないですか。

柳時春(ユ・シチュン):そうです。 予想問題です。 ヒャンリン教会はなかったんです。 それでヒャンリン教会に決めたのが5時半ぐらい。そして6時にメモを書いて鐘路通を中心に散在していた団体に渡していったのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):まるで、映画ですね。

柳時春(ユ・シチュン):はい。 でも今回の映画には、その話までは出ませんでした。 映画は多分、国本を結成して6月抗争が起こる直前までの事実関係を追跡したものです。その後の話も、映画の前にしておかなければならないでしょう。 そうしてみんなヒャンリン教会に7時ごろに集まってきました。 一瀉千里に進行をして終わって出ると、その時になってようやく消息を聞いた警官らが、鶏を追っていた犬が屋根を見つめるように眺めていて、一方私たちが意気揚々と出てきました。 そんなにして、結成しました。

李政烈(イ・ジョンヨル):緊迫していましたね。さて、ヒャンリン教会で国本が発足をしました。 時間が早く行きますね。 今日、全て終わらせられませんね。 わ、大変だ。

柳時春(ユ・シチュン):それじゃ、6月10日に定めたのは。

李政烈(イ・ジョンヨル):先生、これは映画も映画ですが、もっと詳しく聞いて、それで先生にもう一度ご迷惑かもしれませんが、詳しく一回追加したらと思います。それでは、ヒャンリン教会で発足して、その次にさっきおっしゃった聖公会でしたからに成功したと、聖公会は、それでどのようにして出たんですか?

柳時春(ユ・シチュン):私たちが聖公会はその時、守らなかったために、そして聖公会にその時若い神父たちがたくさんいて、ほとんどが最近の486世代たちで、その時は20代、30代の若者で、私たちに非常に協力的でした。 そこは警察が守っていなかったのです。そして6月10日に決めたのは、初日の会議で全斗煥(チョン・ドゥファン)が盧泰愚(ノ・テウ)に権力を継承する民政党全党大会が6月10日12時なので、その日に私たちが対応をしたのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):その時、私も記憶が生々しいですけど、1987年6月10日に民主正義党全党大会で大統領候補を選出するが…。

柳時春(ユ・シチュン):ヒルトンホテル。

李政烈(イ・ジョンヨル):はい、そこで祝宴をそこでしました。 ヒルトンホテル、崇礼門の隣に。私がそのとき6月10日に崇礼門付近にあったんですよ。

柳時春(ユ・シチュン):催涙弾の煙、膨大なものだったでしょう。

李政烈(イ・ジョンヨル):南大門(ナムデムン)市場を初めて行ってみたのがその時でした。 逃げて行く、と。 時間がもうこんなになりましたね。 私が先生もう一回出てくれるように説得をして、明日、もう一度お迎えようと思います。先生、今日の話、ありがとうございます。

柳時春(ユ・シチュン):そうですが、 6月10日に機動隊が水が漏れる隙間もないぐらい取り囲んでいる3重、4重の機動隊の壁をかき分けて聖公会の進入に成功した二十人の話が一つ一つが映画です。

(続く)


 


1987年、柳時春(ユ・シチュン)インタビュー1~韓国TBSニュース工場より

2018-01-04 02:00:25 | 韓国の市民運動

韓国のTBS(交通放送)ラジオの人気番組<ニュース工場>12月26日のインタビューから。この日のインタビューは1987年の6月民主抗争で市民組織の中心にいた柳時春さん(女性)。1950年生まれの彼女は高麗大学国語国文学科を卒業、学校の教師をしながら小説家として1973年にデビュー。しかし、80年代以降、チョン・ドファンによって免職となり、その後は在野の民主化運動に参加します。韓国で人気のある元政治家(?)、今は作家の柳時敏(ユ・シミン)のお姉さんとしても知られ、もう60代後半ですが、その声も話の内容も若く魅力的です。2日間のインタビューを4回ぐらいに分けて紹介します。このインタビューに出てくる80年代後半の民主化運動は、2016~17年のキャンドル市民革命につながるもので、ぜひその内容と意義を聞いてください。

(なお、キム・オジュンが休暇で進行役はイ・ジョンヨル元判事が担当しています。聞きやすい声と発音ですので、何度か聞いて聞けばわかります。韓国語の原文はTBSのHPを見てください。訳文は自動翻訳にちょっと手直しをしましたので、不自然な部分があります)

[インタビュー、第1工場]
6月抗争当時の主役から聞く30年前の熱かったその日の話
-柳時春(ユ・シチュン)作家(6月民主抗争当時、民主争取国民運動本部常任執行委員)


李政烈(イ・ジョンヨル):映画「1987」が封切りを控えています。 監督から聞いた話ですが、<ニュース工場>があまりにも人気が高いので、本や映画の広報をお願いするという請託が非常にたくさん入ってきます。 金英蘭法に違反しない範囲でされようとしただろうから、どうであれ、ニュース工場で紹介があれば、大きく注目され成功する。ですが、「1987」の映画に関しては全くガム一個もらっていませんが、じゃあ、なぜ今日は「1987」の話を切り出すのか。 「1987」という映画が1987年6月民主抗争を背景にしています。 そこについて関心が高まっているが、この映画を見て深い感銘を受け聞きになっただけでなく、この時期に関する生きていらっしゃる、生きている歴史の方を一人お迎えしました。 1987年当時、民主政治国民運動本部常任執行委員だったでしょ。 柳時春(ユ・シチュン)作家さん、スタジオに直接出ました。 いらっしゃいませ

柳時春(ユ・シチュン):はい、こんにちは。

李政烈(イ・ジョンヨル):先生、ここでお会いしたからもっと嬉しいですね。 知ってらっしゃる方々はご存知でしょうが、柳時春(ユ・シチュン)作家さん本人も有名で立派な方なのに、あまりにも大きな方がいらして隠れてしまって、いつも聞かれていて、質問が飽き飽きしているかもしれませんが、 (弟の)柳時敏(ユ・シミン)元保健福祉部長官、今は作家ですが、彼と関連してどうかという、事実、柳時春(ユ・シチュン)先生も立派な方なのに、ユ・シミンの陰に隠れていてしゃくに触るとすが、うですが、

柳時春(ユ・シチュン):いいえ,ありません。

李政烈(イ・ジョンヨル):先生表情が本当になさそうです。 これが選挙を過ぎてからの話ですが、大統領選挙の時おじいさんおばあさんの遊説団をしましたよね。そして、出てきた話が、その当時にこのようなジョークがありました。 オデムン、どうせ大統領は文在寅(ムン・ジェイン)。アナムン、父が出ても文在寅(ムン・ジェイン)。その時代、柳時敏(ユ・シミン)作家さんしては、このような言葉がありました。 ユナムンと。 何かわかってますよね?

柳時春(ユ・シチュン):柳時敏(ユ・シミン)出ても文在寅(ムン・ジェイン)。

李政烈(イ・ジョンヨル):もう過ぎてする話ですが、いったん柳時敏(ユ・シミン)元長官から星感情ないとしてるんだから。 当然そうでたようで。 今日、来ていただいて聞きたい事から始めてみます。 <民主政治国民運動本部>、略して<国本>常任執行委員として活動して、この当時の本当に生きていた歴史ですが、ひとまず、映画の「1987」。どのようにご覧になったか、ちょっと。

柳時春(ユ・シチュン):はい。 映画が芸術としての本性を持っています。 また、そのどんな芸術と文学もその時代の社会現実と歴史から決して自由ではないです。 そのために対社会的な機能を持っていますよ。 私はこの両者のうちに後者により充実した、そして非常に立派なその機能を遂行した映画だと見ました。

李政烈(イ・ジョンヨル):歴史的な意味がある。 これでひとまず1987年にはもし1987年度に生まれたとしてももう三十じゃないですか。 だからその時代を記憶するというのがどう見ると、記憶している人たちなら先輩に話を聞くことができる、いったん、それではこの1987年6月抗争がなぜ、どんなきっかけに起きようになったのかその開始から言葉をお願いします。

柳時春(ユ・シチュン):とても長いから私が簡単に減らしてよくお話しします。 皆様ご存じのとおり、朴正煕(パク・チョンヒ)維新統治体制は事実終身執権体制でした。 ところで内部の分裂に朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領が殺害されて民主主義を渇望していた国民は民主政府が当然樹立されるととても合理的な推論をしていましたが、ひょんなことから、全斗煥(チョン・ドゥファン)と新軍部の一味が、光州(クァンジュ)で虐殺を敢行して、それこそ政権を奪取しました。 それから7年にわたって正統性も、民主性も、歴史性も不在したその政権を退けて新しい民主政府を立てたいという熱望が国民に広範囲に広がって、その中でも青年学生たちが勇気ある前衛に立ちました。 そのため、青年学生たちが刑務所にたくさん連れて行かれたんです。 特に、5・18光州(クァンジュ)民衆抗争の真相を明らかにすることを要求する学生たちは皆逮捕しました。 それで86年12月、当時に刑務所に約6千人あまりの青年学生をはじめとする良心の囚人たちが閉じ込められていました。

李政烈(イ・ジョンヨル):6千人なら、一学校学生数なのに。

柳時春(ユ・シチュン):そうです。 そのため、多くの生徒・学生を令状もなしに逮捕・拘禁して拷問していることがあまりに頻繁したが、メディアの口を封じ込めていたため誰もそれを報道することができなかったです。 それでいよいよ1987年の新年が明けたとき、1月14日に故朴鍾哲(パク・チョンチョル)君が被疑者でもない参考人と呼ばれて行ったら、もちろん令状もありませんでした。 家族にも知らせず、です。 秘密裏にでしたが、今の南営洞駅近くにある南營洞(ナムヨンドン)対共分室で参考人として事情聴取を受けていたが、水拷問によって残酷に殺害されます。 ところで、この朴鐘哲事件は決して偶然に起きた事件がありません。 それ以前にすでに多くの朴鐘哲がいました。 一々列挙できませんが、、1986年に出た、大韓弁護士会で発刊した人権報告書に見ると、軍隊に連れて行かれ、疑問の死を受けた学生たち、また、捜査機関に呼ばれて行ったらとてもかけ離れた線路沿いに遺体で発見されたり。 こんなに原因を明らかにできない、ただ、捜査機関による疑問の死と推定される様々な死がありました。 それが累積されて、起きました。 そして86年11月末に愛国学生闘争連合の1400人が民主政府樹立を要求し、建国(コングク)大学を占拠した事件がありました。

李政烈(イ・ジョンヨル):それ本当に記憶も新しいです。 建大事態。

柳時春(ユ・シチュン):はい、建国大学事態です。 そのとき全て官製マスコミ、政府の検閲を受けるマスコミは政府が言うとおりに、全斗煥(チョン・ドゥファン)が言うとおりに共産主義闘争、日本の赤軍派を模倣した左翼ゲリラ闘争だ。こんなに全部、赤く塗って罪を被せる時代でしたが、司法史上、前例がない1200人余りが拘束されました。それで刑務所があふれるばかりになり、ついに朴鍾哲(パク・チョンチョル)を拷問して殺した後、死体を隠すこともできずに、火葬できずにばれてしまうのです。ばれてしまってこの事件がとても国民の怒りを呼び起こし、です。 みなさんよくご存知の通り、その映画に詳しく出てきますが、本当にとんでもない、どのようにみると小学生の水準にも満たない、そのような対応を警察が出されます、「テーブルをパンと叩いたら、ウックと言って死んだ」

李政烈(イ・ジョンヨル):はい。 当時、カン・ミンチャン治安本部長と覚えています。

柳時春(ユ・シチュン):はい、そうですよ。 パク・チョウォン本部長もいます。彼らが2~3日間、頭を突き合わせて熟議した結果がやっとそんな子供だましの「テーブルをパンと叩いたら、ウックといって死んだ」という有名な言葉を残しました。 私はこの朴鐘哲事件を見ながら、「歴史は、たまに偶然を通じて必然を観察する」という言葉があります。偶然な事件のように見えますが、決して偶然な事件ではなく朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君拷問致死事件が起こることにより、そして、ついにその拷問まで操作、隠ぺいした情況が分かり、国民の怒りは空を突いたり、です。 そして、全ての国民がその誰も、検事の請求で裁判所の令状なしでは逮捕、拘禁されないという憲法の精神を実践することを要求し、体育館で自分たちでひそひそと大統領を選ぶのではなく、共和国の主人である国民の参政権を返してくれと要求するに至ったのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):そうです。 少し追加説明をしますと、当時に拷問に加わった人間が全部で5人かそうだったんです。 ところで二人がした事にして縮小し、二人がすべてかぶって逮捕され、拘置所の中から、実は他の三人がいたという話が外に流れ、それをカトリック正義具現司祭団が。

柳時春(ユ・シチュン):はい。 その話、私が説明しましょう。本当に歴史ですね、振り返って思えば、私は無神論者ですが、このときだけは、神がいたのかと言う気がします。 それで、その五人のうちにA、B、C、D、E中にD、Eが罪をかぶったということでしょう。 自分たちは後から腕をつかんでいる程度の補助でした。でも考えてみると、これの拷問致死という恐ろしい犯罪を二人が被ることを考えると(怖くなって)、泣きながら吐露したんです。それを刑務所にいた良心の囚人の一人がメモをして。

李政烈(イ・ジョンヨル):李富栄(イ・ブヨン)先生?

柳時春(ユ・シチュン):李富栄(イ・ブヨン)先生がいらっしゃったし、それをその当時の看守が伝達をしました。 ところが、果たしてこのものすごい事実を誰に伝えるのか、しばらく悩んみました。まず、改憲請願国民運動を繰り広げていた野党に伝えるか、それとも学生たちに伝えるか。 誰に伝えたら、これが最も国民に信頼を与えて義憤を巻き起こすだろうか、ということを悩んだ末に<正義具現司祭団>という神父の組織に伝えることになります。

李政烈(イ・ジョンヨル):その時、<ニュース工場>があればよかったんですが。

柳時春(ユ・シチュン):その時、<ニュース工場>があったら朴鐘哲事件が起きなかったのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):確かにそうですね。 そうして拷問をして人を殺しただけでなく、延いてはそれを隠蔽するまで。 そんな犯罪を犯したが、それが導火線になって実際の行動まで行きましたが、拷問致死事件に対する怒りを超えて、当時、国民が要求したのはさっきおっしゃった通り、大統領を直接国民の手で選ぶことができる、つまり大統領直選制。 国民の権利を保障するということでした。 それでその話と関連して先生がいた民主政治国民運動本部。その組織はどうでしたか? 規模とか。