韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

最初の一歩 9

2017-11-13 22:48:30 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 9>


今回から成田空港反対、いわゆる三里塚闘争のことを書くが、たぶん話が行ったり来たりして分かりにくいかもしれないが、ご理解ください。

僕が初めて三里塚闘争のことを意識したのは、高校生の時だったと思う。実は高校のとき写真部にいたので、アサヒカメラだったと思おうが、三里塚の写真が載っていた。立ち木の上に登って何か叫んでいる農民、そしてその木を倒そうとする作業員と警察、記憶が正しければ、そんな内容の写真だった。三里塚の代執行が71年だったから、テレビニュースや新聞などを覚えていてもよさそうなのに、ほとんど記憶がない。唯一の記憶が、この立ち木と農民の写真だった。ネットで探してみたが、福島菊次郎さんの写真に似たようなものがあるが、これとはちょっと違う気がする。


また、べ平連の事務所で、三里塚に援農に行ってきたという話を一つ上の仲間から聞いたことがあった。たしか73年の夏のころだったと思う。翌年、74年には空港反対同盟の代表の戸村一作が参議員選挙に立候補して、その集会や街頭演説などにも参加していた(当時、選挙権はなかったが)。最終日、たしか新宿の東口で街頭演説があり、ものすごい熱気だった。その時は、当選できると確信していたが、結局23万票で落選した。この選挙には、いわゆる新左翼と呼ばれた急進勢力が集まって行われたが、中核派が革マル派との内ゲバ戦争に入っていて、選挙という合法活動には対応が取れていなかった。そのため、何万という票を固めることができなかったと、10年ぐらいたってから選挙の裏方をしていた人から聞いたことがある。

初めて現地に行ったのが、77年の4月だったと思う。大学で知り合った数人と個人的に行ったのが初めてだった。現地といっても、反対農家がいる農村ではなく、よく集会に使われていた三里塚交差点の近くにある第一公園に行ったわけだ。当時、全国集会はこの第一公園で行われていて、その日は、上野駅から京成成田へ行き、そこから臨時バスが出ていた。デモは南のほうへ進んで、確か岩山(地名です)にあった野戦病院(救援救護対策の組織、集会の時は医者や看護婦が来ていたと思う)までデモをして、そのあと来た道を戻って五十石の臨時バス停で京成成田行きのバスに乗った記憶がある。実際に農家の家に援農に入ったのは、かなりたってから79年ごろではなかったかと思う。

三里塚闘争に関わった人なら当たり前のことがいくつかあるが、そんな人は最近は希少価値なので、僕の知っている範囲で追加の説明をしておこう。

まず、三里塚闘争が他の住民運動と異なったところは、新左翼の支援を受けて実力闘争を行ってきたという歴史がある。空港用地を確保するため行政代執行が決まり、測量用のくい打ち阻止、71年の第1次、第2次代執行阻止の闘い、77年の岩山鉄塔破壊への抗議闘争、そして78年2月の横堀要塞の闘い、3月の開港阻止の闘いと、成田空港建設反対の歴史を見ると、反対同盟の農民たちと支援と呼ばれた労働者や学生たちの実力闘争が行われていた。
この実力闘争の是非をめぐって、三里塚闘争は日本共産党との連携を切ったわけだが、市民の抵抗権という観点から、もう一度検討してみる課題だとおもう。
というのも、今年の7月に現地を訪問した九州、長崎県の石木ダム予定地では非暴力の直接行動によって工事を止めようと、水没予定地域の住民が毎日、建設用重機の前に座り込んでいる。ここは行政代執行の手続きはすべて終わっていて、最後のハンコだけが残っている段階だという。
一方、激しいぶつかり合いでいつも逮捕者やけが人を出していた韓国のデモは、昨年のパク・グネ退陣のキャンドル集会では、暴力的な衝突は最初にほんの少しだけあっただけで、その後は影を潜めた。といっても、あの集会が100%合法かというと、そうでもなく、ぎりぎりのところで抵抗をしていたのも事実だ。
この二つの事例を通すと、三里塚闘争の歴史的な意義というものが、もう一度明らかになるだろう。その点を、考えてみたい。(続く)

反対同盟委員長の戸村一作。戸村選挙のときの集会。


最初の一歩 8

2017-11-10 16:30:00 | 最初の一歩~どこまで行っても
<最初の一歩 8>

先週末から、日本の選挙が気になり、かつての出来事や体験をまとめる気になれませんでした。どうにかリベラル派の政党が新しくでき、自民+公明+希望vs立憲民主+共産+社民+市民連合の対決構造ができて、ほっとしています。
ただ、選挙の予想をとても甘く考えている人もいれば、反対に選挙制度自体に限界を感じている人もいて、どちらもいい加減にしてほしいと思います。というのも、ここ2、3年の間、これまで滅茶苦茶な状況にしてしまった要因の何パーセントかは、甘く考えている人にも、また限界を感じている人にもあると思うからです。
僕自身、べ平連という市民運動からはじまり、学生時代はかなりラジカルな運動をしていたわけですが、それにもかかわらず日本社会の右傾化がどんどん進行していったのを、直接見て体験しているわけです。なぜ、もう少しまともな状況にできなかったのか、特に変革を求める進歩的な運動を拡大することができなかったのかという、忸怩たる思いがあります。そのような思いを込めて、大学時代のことを書いてみます。
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僕が70年代後半に入った法政大学は、学生会館が自主管理をしていることで有名だった。この時代を体験していない世代には<自主管理>という言葉の響きがどのようなものか、さっぱりわからないと思う。大学構内での<自主管理>は、68年ごろから全国で高揚する学園紛争の雰囲気というかニオイを感じさせる言葉だ。どんなものか、具体的に説明してみよう。ただ<自主管理>の事務的仕事には関わっていなかったので、事実誤認がある部分もあるかもしれないので、その点はご理解ください。
74年に作られた学生会館は、自治会(2部の民青系自治会を除く)やサークル、運動部から応援団まで同居する不思議なところだった。そのうえ、入り口には、ほぼ常時、旗をまいた竹竿で”武装”している中核派自治会の防衛隊が立っているという、シュールというか時代錯誤というか不思議な光景も見ることができた。(ちなみに竹竿だけだと、凶器準備集合罪が成立し、旗を巻いていると大丈夫と、当時は言われていたが、本当だったのだろうか?)
この学生会館は、サークルボックス棟とホール棟に分かれていて、サークルボックスが1フロアに20、確か8階ぐらいまであったから160ぐらいサークルボックスがあった。自治会や学部ごとに組織された学術団体、そして文化連盟と言われた<歴史>のある組織・サークルは1つのボックスを確保し、学生団体連合というサークル団体の場合は2~3つで同居しているところもあった。また、新しくできたサークルなどは文化連盟には入れず、学生団体連合にしか入れなく、入ってもすぐにはサークルボックスが割り当てられることはなかった。その意味では、きわめて閉鎖的な運営をしていたといえる。
そのため、学生会館のホール棟や校舎のホールなどをたまり場的に利用しているグループもかなり多かった。当時で学生数が2万人、小金井の工学部を除いても、1万5千以上、その半分ぐらい学校に来ていても7~8千人が大学構内にいるわけだから、160ぐらいのサークルボックスでは間に合わないのは当然だ。それにも関わらず、学生会館の増築や新築が要求として上がっていなかった点が、法政大学学生会館<自主管理>の限界だったと思う。いわば、本工主義労働組合の学生版だ。
ホール棟には確か400名ぐらい入れる大ホールと小ホール、会議室、音楽練習室、喫茶店などがあった。ホールも音響から照明まですべて整っている本格的なもので、当時でも学生が自主管理をしているホールは法政と京大の西部講堂だけだった。(西部講堂は今でも自主管理をしている)
学園祭のときは泊まり込みもOKだったので、オールナイトでコンサートや映画の上映などが行われていた。渡辺貞夫なども来た事があったっけ。
中にある喫茶店も、僕がいたことは応援団か体育会のリーダーがマネージャー担当で学生が運営という不思議なところで、メニューはコーヒーとカレーライスぐらいだった。
校内にはタテカン(分からなかったら、調べてください)があり、学生会館にはステッカーが張られ、ヘルメットを被った自治会の防衛隊と学ランを着た応援団が同居している不思議な空間は、独特のものだった。
当時この学生会館を管理していたグループが法大全共闘と名乗っていたノンセクト黒ヘルグループだ。こう書いても、今の人には分からないと思うので、ちょっと解説をしよう。セクトというのは党派、簡単に言えば革命を目指す政治組織のこと。ノンは否定だから、党派ではない、政治組織ではないという意味、つまりもっと緩やかで各自の自発性を尊重したグループだが、実態は違っていた。
また、当時は党派ごとにヘルメットの色を変えて自分たちをアピールしていたが、なぜかノンセクトは黒となっていた。(赤も少しあったそうだ)
全共闘というのは、全学共闘会議の略語で、もともとは学生自治会に代わる臨時組織だ。学生自治会が手続き上の複雑さや執行部の反対などで、政治的な緊急課題に取り組めないときに臨時に作ったものが<全学連>として定着、70年安保をリードしていった。70年代後半の法大全共闘がどのように人的、思想的につながっているかはよく分からない。
自治会は中核派が法学部、文学部、経済学部、経営学部を支配し、社会学部と第二教養学部がノンセクト黒ヘルのメンバーが活動していた。活動家の数でいえばノンセクト黒ヘルのほうがはるかに多いし、各サークルでサークル活動もしていたので影響力は大きかった。ただ、影響力といっても学内課題が2つ3つ(夜間立ち入り禁止の問題、町田移転の問題、期末試験など)、学外課題が三里塚や解放運動だったりしたが、政治的な核になるメンバーが弱かったので(いなかったのかもしれない)、課題について学習したという記憶はほとんどなかった。
大学は、学生会館の運営費を学生会館管理委員会(正式名称は忘れた)に渡していれば黒ヘル全共闘はそれなりにコントロールできると考えていただろう。また、中核派が支配している自治会には自治会費を渡し(4学部だからかなりの金額だ、その上、当時の中核派の学生対策責任者のは裏金も貰っていたというから、ひどい話だ)、平和共存をしていたと言える。また、当時は中核派も黒ヘル全共闘との平和共存路線をとっていたように思える。(その後、対立し、ほとんどの黒ヘル全共闘メンバーが学外へとたたき出される。何人かは暴行を受けたと聞いた。たしか79年ごろの話だ)
と、ここまで書いて、大学時代、何をやっていたのだろうか、という気持ちになってきた。中核派の”革命的”暴力支配によってクラスでの自由な討論をジャマされた当事者としては、今さらながら残念だし、腹が立つ。
当時の法政大学にはきちんと問題意識を持った学生も多かったし、社会の雰囲気もまだ今よりもはるかに自由だった。彼らの暴力的な介入がなければ、クラスでそれなりのレベルでの討論や具体的な行動ができる土壌はあったと思う。このような学内での圧殺の構造は法政だけでなく、他の大学でも同じ事例がたさんあった。それを考えると、70年代半ばから後半にかけての運動の後退は、内ゲバ党派(中核派、革マル派、解放派)の責任が大きい。
自主管理をしている学生会館に入り浸りはじめたころ、僕も仕方なく黒ヘル全共闘のメンバーとして活動を始めるようになる。そして、三里塚でも開港=空港の使用開始という大きな山場を迎えようとしていた。

写真は、上が学生会館、下が三里塚の婦人行動隊、漫画の「ぼくの村の話」


最初の一歩 7

2017-11-10 02:15:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 7>


大学での色々な経験はもう少し後で書くことにして、朝鮮半島との関わりがどんなきっかけで始めたのか、思い出しながら書いてみよう。
ただ、先日、チェジュでのバスツアーの時、福岡の後藤弁護士から僕が書いている時代についてよく分からないと言われて、どう書き進めていけば良いかちょっと悩んでいる。ちなみに後藤さんは、今年49歳、10歳ちょっと離れているので、世の中への感覚が違うのかも。

さて、72年の年末からベトナム戦争で<覚醒>した僕にとって、73年は朝鮮半島の分断と韓国の軍事独裁、それに反対する民主化運動、そして日本と韓国のいびつな関係に<覚醒>した年だった。

73年の8月8日、韓国野党の大統領候補だった金大中が東京のホテルグランドパレスから連れ去られ、5日後にソウルの自宅近くに現れるという拉致事件が起きた。
この不可解な事件は、当初から韓国の情報機関が関わっていたという疑いが強く、韓国では民主化を求める運動が大学や知識人の間に拡がって行った。
この民主化運動に対して大統領の朴正熙は独裁体制を強化していく中、翌年の1974年に民青学連事件をデッチ上げる。この民青学連事件では取材をした記者と通訳の2人の日本人も逮捕、起訴されて、日本でも大きく報道されることになる。また、詩人の金芝可も逮捕、起訴され、死刑判決が下される(後、無期懲役に減刑)。

このような状況の中で、金大中拉致事件の真相究明を求める運動や、民青学連や金芝可裁判の死刑判決を糾弾するデモや集会が各地で行われ、よく参加した覚えがある。
また、「朝日ジャーナル」や「世界」等の雑誌でも韓国の民主化運動についての記事がかなり載っていた。その中でも有名なのが「韓国からの通信」だ。牧師や神父などの宗教関係者が伝えた情報を、当時、日本にいた宗教政治学者の池明観が文章化したもので、毎月、3~4つのトピックが掲載されていた。

当時の雰囲気を思い出して見ると、韓国の民主化運動を支持するのが当然で軍事独裁はダメだという意見が多数だったと思う。ベトナム戦争に反対するのが、平和憲法を持っている日本として当然であるように、韓国の軍事独裁に反対するのも当然だった。
ただし、何故独裁政権が生まれたのか、もっと根本の問題としてなぜ南北に分断しているのか、ということに対しては日本の植民地支配ということをうっすらとした認識に止まっていた。
ただ、この当時、僕が参加した運動は和田春樹さんや青地晨さんなど、知識人たちの運動という色彩が濃かったような気がする。というのも、この時期のこの分野での活動についての記憶があまりないのだ。全電通会館等での講演会や日比谷野音での集会等に参加したのは事実だが、果たしてどんな内容だったのか、記憶が曖昧だ。多分、どこかに引っ掛かりがあって、全力投球できない、そんな気分だったと思う。

それは、大学を受験するかどうかで悩んでいたのかも知れない。あるいは、知識人中心の運動に参加することが免罪符だという自己批判があったのかも知れない。または、韓国はベトナムとは違うので軍事独裁は倒れないと考えていたのかも知れない。

そんな思いや惑いを抱きながら、1974年か75年頃に韓国への公害輸出に反対する運動が始まる。日本の公害規制が厳しくなり、規制の弱い韓国の工業団地に工場を移転するという動きが発覚する。これに対して、公害原論自主講座のメンバーやベ平連の中心メンバーだった井上澄夫さんなどが実行委員会をつくって反対運動を始めた。
むしろ、僕にはこの運動の方が、しっくりした。その夏、確か8月頃、毎日デモというのがあり、亀戸の駅前の公園から江東区の南にあった工場跡地までデモをした。確か六価クロムが問題の物質で、跡地の水溜まりは緑色になっていた記憶がある。

70年代の半ば、僕はこんな感じで韓国と関わり出したが、長続きはしなかった。
僕が再び韓国と関わるようになるまで、10年が必要だった。

 

スンチョン湾スタディツアー ~ 湿地の保全と賢明な利用

2017-11-08 23:14:24 | 日韓環境情報センターの活動

久しぶりにスンチョン湾へ行こうと思います。来年はラムサール条約の締約国会議もドバイで行われます。もう一度、初心に戻り、湿地の保全と賢明な利用を実践しているスンチョン湾へ行き、その秘密と原動力を探りませんか?
12月から3月まで、毎月1回ずづ行いますので、ぜひ、多くの方の参加をお待ちしています。
日韓環境情報センター 田中博

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年間、300万人以上の観光客が訪れる全羅南道の順天湾干潟の保全方法と賢明な利用の最近の様子を学び、関係者と意見交換をするスタディツアーを行います。今回は地域住民がどのように干潟の保全に関わり、地域作りを行っているか。行政、住民、環境NGO、専門家の協同(ガバナンス)の現状と課題等を聞こうと思います。

また、ナベツルなど冬の渡り鳥のバードウォッチング、伝統家屋が残る楽安邑城(ナガムウプソン)の見学と伝統楽器の体験、スンチョン市内の伝統市場見学等もあります。

スケジュール&参加費は次の通りです。5名以上参加者がいる場合、随時、実施可能です。チケットが確保できれば、1月~2月の連休でも可能です。

第1回 12月15日(金)~18(月)
第2回 1月5日(金)~8日(月・祝日)または
    1月12日(金)~15日(月)
第3回 2月9日(金)~12日(月・祝日)
第4回 3月2日(金)~5日(月)または
    3月9日(金)~12日(月)

参加費 55,000円(5名以上参加、人数が増えれば金額が変わります)

参加費に含まれるもの=往復KTX、専用車2日間、宿泊費3泊、食事代(朝昼/夕食は現地清算)、通訳&コーディ代
*韓国現地集合・解散ですので、航空券は各自で購入してください。

<3泊4日行程>
1日目(12月15日・金)
6時までのソウル市内の指定ホテルに集合、市場で夕食。
宿泊=ソウル市内ホテル

2日目(12月16日・土)
8時~9時ごろのKTX(高速鉄道)でスンチョンへ移動
12時ごろ、スンチョン駅に到着。昼食後、専用車でスンチョン湾へ移動、生態館、葦原、遊覧船、龍山展望台などを見学&関係者と面談、質疑応答(市担当者、NGOなどと面談予定)
夕食はムツゴロウ鍋、またはバイ貝定食
#宿泊=スンチョン湾周辺の民宿

3日目(12月17日・日)
早朝 スンチョン湾見学(希望者のみ)
朝食後、楽安邑城へ移動(1時間)、民俗村見学&伝統音楽の体験(チャンゴ&民謡)
昼食後、スンチョン市内へ移動、伝統市場見学
4時~5時ごろのKTXでソウルへ移動
(帰国便が早朝の場合、インチョン空港へ移動、付近のホテル泊)
#宿泊=ソウル市内ホテルまたはインチョン空港近くのホテル

4日目(12月18日・月)
帰国便が夕方の場合、ソウル市内観光(宗廟など)
空港鉄道ソウル駅で解散

*スケジュールは現地事情により変更になる場合があります。


最初の一歩 6

2017-11-06 14:40:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 6>

68年の時に中学生だった世代は、もう少し早く生まれていたら間に合ったのにと思ったことはなかっただろうか? 72年ごろからベ平連のデモに行くようになって社会に<覚醒>した僕も、かつてはそう思ったことがよくあった。

一つには、68年を前後した世界的な変革の流れに身を置くことが出来なかったという思いだ。たぶん、あの時代にたいしてなんとなくロマンを感じていたのだろうと思う。<覚醒>して間もない僕にとって、68年前後の社会変革の大きな動きは、それだけで魅力的だった。
その大きな動きは日本だけでなかった。ベトナム戦争でも旧正月に大きな戦いがサイゴン市内でも起き、フランスでも5月革命があったことを、<覚醒>して間もなく知り、勉強をした。その動きは朝鮮半島でも起きていて、北朝鮮のゲリラ部隊がソウルまで密かにやってきて、青瓦台を襲撃しようとした事件すら起きた。<大統領の理髪師>というソン・ガンホ主演の映画の時代背景が、この青瓦台襲撃事件になっている。
とにかく、感覚的に68年という時代にあこがれていたと言える。

一方、70年代半ばからの中核派と革マル派による内ゲバが日常化した。どの程度ひどかったのかというと、74年ごろから1年に10人以上の死者が発生したということだけでも、程度がわかるだろう。これにより、すべての新左翼的な運動は<内ゲバ勢力>と見られ、大きなマイナスになった。そんな状況のなか、僕は<覚醒>したわけだ。

大学に入って1年生の時だ。当時、大学自治会がまだ辛うじて残っていて、大雑把に言うと昼間部の自治会は中核派が支配し、夜間部の自治会は民青が指導していた。僕のクラスにも民青の活動家が2~3名いたので、彼らと一緒に最初は動いていた。動くといっても、クラスの親ぼくのための飲み会や野球大会などをし、2~3回、クラスで討論をしたぐらいだ。民青の活動家のH君やK君にしてみれば、僕は高校のときからベ平連などの活動をしていたから、オルグ(この言葉の意味、わかるかな?)対象になっていた。僕は僕で、彼らと討論すれば、勝てるとうぬぼれていた。(当時は、すでに共産党‐民青は議会主義で…と批判的に見ていた、まあ、僕も幼かったわけです)

そんなお互いの思惑が一致?したのか、仲良くクラスでの活動をやっていたとき、事件が起きた。その大学はお濠を挟んで内側が中核派と黒ヘルノンセクトの縄張り、お濠の外が民青の縄張りというすみ分け原則があったが、たまたま、お濠の内側の校舎でクラス単位で行う語学の授業があったので、その時間を借りて討論をすることになった。
討論を初めて10分ぐらい経ったころ、サングラスと帽子で顔を分からないようにした男、数人が突如、クラスに入ってきて、H君とK君、もう一人名前は忘れた男子学生にペンキか何かを掛け、そのまま教室から引きずり出し、校門の外まで追い出してしまった。廊下には、中核派の僕担当?のアワタという学生兼専従活動家がいて、一部始終を見ていた。中核派の仕業ということは直ぐに分かったので、何だこれは、と抗議したが、自治会とは関係ない、志のある学生が反革命の共産党を追い出したのだと、シラを切った。

そのあと、クラスでは僕が手引きをしたという噂になり、クラスでの活動は、全くできなくなった。もちろん、K君にもH君にも、その後、一度も会っていない。
そして、この一部始終が、革マル派の機関誌に詳しく載ったのには驚いた。僕の名前は出ていなかったが、どこかでキッチリ観察していたわけだ。

やはり、今、思い出しながら書いたが、いやな思い出だ。こうやって、どんどん、人々が運動から遠ざかっていった。また、進歩的な運動をする人達もトロツキスト暴力集団といって批判をした。 それにもかかわらず、僕は様々な課題に取り組んでいった。三里塚、日韓連帯、水俣病などの公害問題、解放、障碍者解放など、ベトナムから始まった僕の社会的な関心も広がっていった。

写真は、三里塚の少年行動隊、ご存じ、キューバのゲバラ、そして韓国映画"大統領の理髪師


参与連帯で衝撃を受けたこと、続き

2017-11-04 00:25:02 | 韓国の市民運動

<参与連帯>の事務所でいろいろ話しながら、今まで疑問に思っていたことを聞いてみました。ただ、とても微妙な問題で、とくに日本の運動圏(あまり日本では使いませんが、韓国で使うのであえて使います)の状況を知っていないと、何を聞きたいのかわからないのですが、どうにか伝わり、質疑応答が続きました。

僕の質問というのは、市民団体(大衆運動と言い換えてもいいです)と政党(労働者に基盤を置く政党や、進歩政党)との関係はどうなっているのか、という質問でした。というのも、日本の市民団体の場合、とくに政治課題を扱う市民団体の場合、政党の影響が、ときには<革命的指導>が行われた場合があるためでした。

この質疑応答には<参与連帯>の国際連帯の担当の専従スタッフと、7月に福岡で講演をした<市民社会団体連帯会議>のイスンフンさんが同席していましたが、二人の年代や活動経験が違うので、答えも若干違い、とても興味深いものでした。たぶん、一緒に参加していた日本人の皆さんも、よくわからない部分があったと思うので、僕の補充説明も含めてポイントを書いてみます。

すでに書いてあるように、<参与連帯>は政府や行政、政党、企業などから直接の補助金は一切もらっていません。政府や行政機関、企業などを監視し、対案を出すのが主な活動ですので、当然といえば当然です。環境団体の場合、例えば湿地の調査を5年ごとにしていますが、この調査作業は大学の研究所や環境団体が担当する場合が多いといえます。現場で保存活動をしている環境団体などが、その経験や知識、人材を提供して調査活動をするわけですが、一方で環境団体の財源的な基盤にもなっています。

このような調査や研究課題などを実行する能力は<参与連帯>にも十分ありますが、活動の目的のために、一線を引いていると理解できます。

では、政党はどうでしょうか。政党も国会議員や地方議員が持っている調査費などを活用して、シンポジウムなどを行う場合があります。この場合も、市民団体の専門性を活用して、講師の交渉やシンポジウムの運営などを市民団体が担当する場合もあります。以前、冬季オリンピックと自然保護のテーマでシンポジウムをしたとき、長野オリンピックに反対したグループの代表を招待したことがあります。これなども、グリーンコリアがシンポジウムを主管し、僕がコーディネートと通訳を担当しました。環境団体は、このやり方で国会議員会館でよくシンポジウムをやります。

これだけ政治的な課題について発言をしているのなら、政党との関係、とくに進歩的な政党との関係がもっと緊密だと思いましたが、建前ではどの政党とも<等距離外交>と答えていました。もちろん、個別メンバーはそれぞれ支持政党がありますし、政党の公認を得て地方議員になった環境運動連合の仲間もいますし、グリーンコリアの専従スタッフをやめて<緑の党>で活動している知り合いもいます。もしかすると、労働者階級に基盤を置く政党が市民団体の中にメンバーを送る、または市民団体のメンバーを党員として獲得する、という活動をしている場合もあるかもしれませんが、それほどの影響力はないようです。

質疑応答の中で、イ・スンフンさんが興味深い比較をしてくれましたが、政党は<権力>を目的にしていて、市民団体は<監視>や<告発>を目的にしている。政党が現実主義なのにたいして、市民団体は理想主義と言われると説明してくれました。たぶん、彼の大学時代の仲間の中には<政党>で活動している仲間がいるようですが、なかなか興味深い対比でした。

ここでは、政党と市民団体が同じレベルで認識されているな、と感じました。とくに<参与連帯>のような20年以上も続けて活動をしている市民団体の能力と影響力は、政党の大衆運動部門をはるかに凌駕しているなと、感じました。昨年のキャンドル集会でも国会議員は前のほうに座って参加していましたが、発言は初めの3~4回であっただけで、あとはすべて市民からの発言だったそうです。政党が躊躇したり、意見がまとまらない時、とくにパク・グネ弾劾なのか、自発的な辞職なのか、国会の中で意見がまとまらなかった時、市民は弾劾を主張するのを変えませんでした。このような、政治判断の正しさ、国民の意見をまとめる能力、そして状況を引っ張っていく力量と、政党をはるかに上回っていたと思います。そして、ここが大事ですが、政党も市民団体の政治判断や能力・力量を尊重したと思います。もちろん、お互いに不満や誤解や葛藤はあったと思いますが、それを乗り越える信頼関係が進歩的な政党と市民団体の中にあったと思います。今回の<参与連帯>との対話の中で、こんなことを考えました。

では、日本はどうでしょうか。<参与連帯>のメンバーは日本にも行ったことがあるメンバーで反核運動の交流をしようと思うと、二つの団体を訪問しないとダメなので、ちょっと……、と言っていました。この二つの団体、言葉を変えると二つの勢力がきちんと協力して活動をすればいいのですが、果たしてどうなのか。今回の選挙でも野党共闘ができた地域でも、果たしてどれだけ信頼関係を持ち、ともに行動したのか、そのへんは疑問です。二つの勢力の間できちんとした討論すらやってこなかった歴史があり、時にはお互いに裏切者とか日和見とか批判をしていたわけで、その点を乗り越えないといけないのですが、大変だなと思います。

ただ、希望があるのは、総がかり行動や市民連合ができて、すくなくとも土台はできたので、その土台をどれだけ強固にできるか、一人ひとりが何をするかが大切だと思います。例えば、僕のFBの友人を見ると、どちらかの勢力に属するのがはっきりしている人、ある勢力を最近やめた人、やめされられた人、あっちは今でも会いたくないという人など、いろいろいます。まず、これらの人と過去のいくつかのポイントについて、きちんと討論をして違いを確認して、信頼関係を築きたいと考えています。たぶん、韓国の運動の中でも、このような討論が積み重ねて来たのだと思います。このあたりのこと、韓国の仲間と機会があれば、もう少し話したいなと思います。年末年始、あるいは1~2月ぐらいに、討論会をきちんとやりたいなと思っているのですが、いかがでしょうか?


参与連帯で衝撃を受けたこと

2017-11-03 00:12:35 | 韓国の市民運動

キャンドル集会1周年のスタディツアーで<参与連帯>という市民団体の事務所を訪問しましたが、一緒に訪問して意見交換をした参加者の皆さんは、とてもショックを受けたようです。わずか1時間半しかいませんでしたが、韓国の市民運動の強さとレベルの高さを実感したようです。意見交換で出た内容と、僕が知っていたり調べた情報を合わせて、<参与連帯>がどのような団体なのか、どんな社会的な動きの中から出てきたのか、僕たちが学ぶべきことは何なのか、などを書いてみましょう。いちおう、カテゴリーを<韓国の市民運動>と新しく作りましたので、僕が知っている韓国の市民運動の様々な姿を紹介して行こうと思います。

<参与連帯>の事務所では日本語になったパンフレットをもらいましたので、その中から大事なことを、いくつか紹介しましょう。まず、<参与連帯>の説明をしましょう。

<参与連帯>は1994年、「参加と人権を二つの軸とする希望の共同体」を実現するために、活動家、学者、法曹家たちが設立した非営利民間団体です。<参与連帯>は政治、経済、社会の各分野の権力の乱用と集中、機会の独占を監視し告発することで、市民の民主的参加に基づく法の支配を定着させるために、活動に取り組んできました。構成員すべてに人間らしい暮らしが権利として保障されるように、多くの政策と代案を提案し、制度化することに専念しました。正義と平和のために行動するすべての市民と進んで連帯し、国境を越えて仲間愛を広げてきました。

まず、設立された1994年がどのような時期なのかを確認しましょう。韓国では民主化運動が70年代ごろから格化しますが、軍事独裁政権に対抗して民主化を求める闘いの頂点が、1987年6月民主化運動、そして7月~9月の労働運動の高揚、8月の全国大学生代表者協議会の結成と続きます。

詳しくは別の機会にしますが、1987年からの民主化運動の広がりは90年代に入って、労働運動、市民運動、農民運動、生協運動、労働者に基盤を置く政党作りなど、様々な分野に広がります。87年以降の民主化運動を体験した世代が中心になって、それらの組織を立ち上げ、会員を集め、事務所を準備し、活動をしていくという流れの中、<参与連帯>が結成されるわけです。

今、<参与連帯>には、15000人の会員がいて、毎月、1000~2000円の会費を払って組織と専従スタッフを支えています。会費収入だけで月に1500~2000万円以上の資金が確保されます。ソウルにある本部事務所には50人以上の専従スタッフがいますが、これらの専従スタッフとボランティアの専門家が300人ほどいて、日常の活動をしています。

現在は、次の12のセンター(または委員会)に分かれて活動しています。

1)司法監視センター=法治国家の番人となり、裁判所・検察・弁護士を正します。専任の弁護士もいます。

2)議会政治監視センター=国民が選んだ国会議員を国民が監視します。

3)行政監視センター=公職社会の腐敗や権力の乱用を監視します。

4)公益通報支援センター=不正義に抵抗する公益通報者を支援します。

5)公益法センター=公益訴訟で人権と民主主義を守ります。

6)労働社会委員会=差別のない労働のための労働政策代案を提示します。

7)民生希望本部=庶民が幸せに生きる社会のために民生代案を提示します。

8)社会福祉委員会=施しでない権利としての福祉を作ります。

9)経済金融センター=公正で民主的な経済秩序のために活動します。

10)租税財政改革センター=租税正義の具現のために活動します。

11)国際連帯委員会=国境を越え、人権を民主主義のために共にします。

12)平和軍縮センター=朝鮮半島の平和のために非核軍縮運動を広げます。


このような広範囲の活動を20年以上にわたって実践しているわけで、それぞれのセンターには専従スタッフだけでなくボランティアで参加している専門家(大学教授や弁護士、新聞記者など)が加わって、監視をしたり、対案を出したりしている。なので、シンクタンクだという評価を受ける時があると言っていた。

僕などは、市民団体というより、政党の大衆運動部門の各パートという感じがした。なにしろ、90年代の中ごろからのデータがあり、また分析や批判の蓄積があるわけだから、ものすごい話だ。そして、民主化運動の中から生まれたので、政府に対する批判や抗議もしっかり行っている。昨年のキャンドル集会でも<参与連帯>の中心スタッフは退陣行動の事務局スタッフとして活動をしていた。

さて、このような説明を聞いて、ふと思った。<参与連帯>と政党との関係はどうなっているのだろう? 政党が大衆団体である市民運動を「指導」しているのだろうか? あるいは、政党の介入などもあるのだろうか?