<最初の一歩 9>
今回から成田空港反対、いわゆる三里塚闘争のことを書くが、たぶん話が行ったり来たりして分かりにくいかもしれないが、ご理解ください。
僕が初めて三里塚闘争のことを意識したのは、高校生の時だったと思う。実は高校のとき写真部にいたので、アサヒカメラだったと思おうが、三里塚の写真が載っていた。立ち木の上に登って何か叫んでいる農民、そしてその木を倒そうとする作業員と警察、記憶が正しければ、そんな内容の写真だった。三里塚の代執行が71年だったから、テレビニュースや新聞などを覚えていてもよさそうなのに、ほとんど記憶がない。唯一の記憶が、この立ち木と農民の写真だった。ネットで探してみたが、福島菊次郎さんの写真に似たようなものがあるが、これとはちょっと違う気がする。
また、べ平連の事務所で、三里塚に援農に行ってきたという話を一つ上の仲間から聞いたことがあった。たしか73年の夏のころだったと思う。翌年、74年には空港反対同盟の代表の戸村一作が参議員選挙に立候補して、その集会や街頭演説などにも参加していた(当時、選挙権はなかったが)。最終日、たしか新宿の東口で街頭演説があり、ものすごい熱気だった。その時は、当選できると確信していたが、結局23万票で落選した。この選挙には、いわゆる新左翼と呼ばれた急進勢力が集まって行われたが、中核派が革マル派との内ゲバ戦争に入っていて、選挙という合法活動には対応が取れていなかった。そのため、何万という票を固めることができなかったと、10年ぐらいたってから選挙の裏方をしていた人から聞いたことがある。
初めて現地に行ったのが、77年の4月だったと思う。大学で知り合った数人と個人的に行ったのが初めてだった。現地といっても、反対農家がいる農村ではなく、よく集会に使われていた三里塚交差点の近くにある第一公園に行ったわけだ。当時、全国集会はこの第一公園で行われていて、その日は、上野駅から京成成田へ行き、そこから臨時バスが出ていた。デモは南のほうへ進んで、確か岩山(地名です)にあった野戦病院(救援救護対策の組織、集会の時は医者や看護婦が来ていたと思う)までデモをして、そのあと来た道を戻って五十石の臨時バス停で京成成田行きのバスに乗った記憶がある。実際に農家の家に援農に入ったのは、かなりたってから79年ごろではなかったかと思う。
三里塚闘争に関わった人なら当たり前のことがいくつかあるが、そんな人は最近は希少価値なので、僕の知っている範囲で追加の説明をしておこう。
まず、三里塚闘争が他の住民運動と異なったところは、新左翼の支援を受けて実力闘争を行ってきたという歴史がある。空港用地を確保するため行政代執行が決まり、測量用のくい打ち阻止、71年の第1次、第2次代執行阻止の闘い、77年の岩山鉄塔破壊への抗議闘争、そして78年2月の横堀要塞の闘い、3月の開港阻止の闘いと、成田空港建設反対の歴史を見ると、反対同盟の農民たちと支援と呼ばれた労働者や学生たちの実力闘争が行われていた。
この実力闘争の是非をめぐって、三里塚闘争は日本共産党との連携を切ったわけだが、市民の抵抗権という観点から、もう一度検討してみる課題だとおもう。
というのも、今年の7月に現地を訪問した九州、長崎県の石木ダム予定地では非暴力の直接行動によって工事を止めようと、水没予定地域の住民が毎日、建設用重機の前に座り込んでいる。ここは行政代執行の手続きはすべて終わっていて、最後のハンコだけが残っている段階だという。
一方、激しいぶつかり合いでいつも逮捕者やけが人を出していた韓国のデモは、昨年のパク・グネ退陣のキャンドル集会では、暴力的な衝突は最初にほんの少しだけあっただけで、その後は影を潜めた。といっても、あの集会が100%合法かというと、そうでもなく、ぎりぎりのところで抵抗をしていたのも事実だ。
この二つの事例を通すと、三里塚闘争の歴史的な意義というものが、もう一度明らかになるだろう。その点を、考えてみたい。(続く)
反対同盟委員長の戸村一作。戸村選挙のときの集会。