さて、いろいろ考えをまとめてみると、やはり90年代以降の韓国の進歩的な運動の様子を考えてみたほうがよさそうですね。僕は韓国生活を始めて間もなくのころで、高麗大学の大学院!に通い、その後、日本語の先生になった時期です。当時は、実際の運動には参加はしていません。というのも、日本人が参加する場も見つかりませんでしたし、それよりも運動経験のある日本人が参加すると迷惑がかかりそうな時代だったので、まだ距離を置いていました。(ちなみに、生まれて初めてのデモは、たしか1972年の暮れにあったべ平連のデモです^^ 古いですね~~)この時代のことも、以前、フェイスブックに書いてあるので、紹介します。
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今回のキャンドル集会とパク・グネ政権退陣運動が何であったのかを考えるとき、少なくとも80年代後半の民主化運動からひも解く必要があるでしょう。そして、同時に日本の進歩的な運動の停滞と限界がどこにあるかという問題を、同時に考えなければならないと思います。
今回の運動が進歩勢力(パク・グネ支持派や三K新聞などからみると北に操られた勢力)だけの運動でなかったのは、すでに述べました。また、特定の政治グループに指導された大衆運動でもなく、市民団体の代表などで<状況室>という事務局ができてはいましたが、ここが指導部であったというわけでもありません。とくに、既成政党とは一線を画し、野党の議員や代表がキャンドル集会に参加しても全体集会の中では発言を許可せず、政党からは自立した市民運動であることを貫きました。
この点は日本とちょっと違いがありそうで、どなたか研究者の方、分析してくれませんか? 記憶だけに頼るので間違っているかもしれませんが、僕としてはこんな風にとらえています。
まず、80年代後半から90年代全般にかけて、韓国社会の民主化が一定のレベルまで進む中で、軍事独裁に対する闘いから他の分野の闘いへと活動領域が広がっていきます。具体的には、労働運動であったり、国会議員を持つ進歩政党の結成であったり、生協運動であったり、女性解放運動であったり、環境運動であった、とにかくいろいろな分野で新しい活動が80年代後半の民主化運動の体験を共通言語として始めるわけです。
日本のばあい、活動家や中心メンバーが大量に生まれた時期は60年代後半からの70年安保や全共闘・全学連の闘いになってしまうので、韓国とは20年近くの違いがあるわけです。僕のかかわっている環境運動も日本側のメンバーは60代から70代が多いのですが、韓国は40代~50代となっているのも、このような背景があるからです。
このような全国的な運動による活動家や核心メンバーの大量排出という時代の違いも大切ですが、ここでは政治グループ(政党)と市民団体との関係に注目したいと思います。
日本の場合、進歩的な運動は社会党と共産党、そしてそれ以外の新左翼と呼ばれた複数の政治集団によって作られたり、あるいは政治的な指導を受けたりという関係が多かったように見られます。とくに進歩的な運動の中で労働組合の持つ力が強く、いい意味でも悪い意味でも労働運動が日本の大衆運動(市民運動ではありませんよ)を代表していたと思います。そして、現在では労働運動も社会的な影響力やメッセージ力はほとんどなくなってしまい、日本の進歩勢力の体力の低下につながったと思います。
一方で、環境運動などをみればわかりますが、韓国の市民運動は政治的な主張をはっきりと行い、政府や行政との闘いというのも躊躇しません。(もちろん、政府のいいなりの環境運動もありますが、影響力は小さいです)今回のパク・グネ退陣運動でも中心グループとして活躍しました。
日本の場合、政府の政策に反対することはありますが、例えば戦争法反対の集会に、環境団体がそっくりそのまま参加するということは、ほとんどないと思います。(60年安保の時はあったかもしれませんね)ですので、韓国の場合は政治的な発言や立場を市民団体が独自に打ち出すという経験と能力を備えていて、さまざまな市民団体と共通行動をとってきた信頼関係と歴史があると思います。
日本の場合は、ようやく一昨年の戦争法案反対の運動から、そんな動きが出てきましたが、韓国の力量やレベルと比べるとまだまだ、という感じですね。
そうそう、ひとつ書き忘れましたが、宗教グループの社会的・政治的発言とか主張というのも、韓国では大きな力を持っています。もちろん、金儲けに忙しい宗教者もいますし、パク・グネ支持派の集会でミサをするプロテスタントの教会もありますが、進歩的な市民や運動とともに歩んできたという韓国の宗教者の影響力もとても大きなものがあります。
次に指導部の問題ですが、日本の場合、政党同士、あるいは政治グループ同士の足の引っ張り合いどころか、暴力での妨害や破壊まで、ときには発生したわけで(僕も大学の時、自治会の白いオジサン・オニイサンたちにやられまして、おかげで色々勉強させてもらいました^^)これは大変なマイナスですよね。さっき、70年安保のことを書きましたが、政党や政治グループが違うと、70年安保の説明自体が違ってしまうので、困ります。
このように、日本の場合は、活動家や中心メンバー同士でも、大きな溝というか壁があって、共同行動をするための信頼関係を作るのに失敗し続けてきたような気がします。(もちろん、一生懸命やっている人たちがいるのはわかりますが、韓国と比較すると、成功したとは思えません)。韓国でも、議員がいる既存政党と議員がいない政党(というより政治グループですね)の間に、いろいろな対立があったり、学生運動の中で統一が先か、反米独立が先かというような対立があり、一時期はかなり厳しい状況だったようですが、そういう対立を飲み込んでしまうエネルギーが運動の中にあったと思います。今回のキャンドル集会の中でも、最初の1、2回は、直接行動至上主義のような人たちが警察バスの上に乗って扇動していたようですが、多くの市民の参加によって、不発におわったと聞いています。
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これをかいたのが、3月の終わりごろかな。まあ、おおざっぱなところでは正しいと思います。いくつか付け加えると、退陣運動の<状況室>は指導部といれば指導部です。ただ、その性格が中央集権的な指導部、あるいは前衛党的な指導部ではないとおもいます。共同室長が5名いる集団指導体制ですし、全体会議でも多数決による採決を取らないことは、すでに述べたと思います。しかし、会場を準備することが中心の<事務屋>というわけでもありません。キャンドル広場に来る市民やネットへの書き込みなどをチェックしながら、市民と足並みをそろえながら、後からついていくのでなく、半歩ぐらい先を歩いて、、明日の展望というか未来の希望というか、私たちが望む世の中を示していこうとしたそうです。その点では、素晴らしい<指導部>だと、ぼくは思います。そして、この<状況室>の在り方が、21世紀の進歩的な社会運動のやり方のヒントではないかなと、考えています。
また、学生運動、とくに全大協(87年~93年)韓総連(93年~??)の影響力をあまり考えていませんでした。92年の全大協の全国大会には6万人集まっていますから、その影響力は半端ではないですね。実は、今回一緒に福岡へ行った二人も、この学生運動の中で活動家として鍛えられた世代で、かなり過激なこともしたそうです。この学生運動については、次回、まとめてみましょう。
写真は「退陣行動」解散式の様子