枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その18 水ノ浦教会堂(下五島、福江島)

2018-05-24 | 教会・天主堂を訪ねて
水の浦天主堂は、楠原に近くやはり福江島の北部ですが、複雑な地形の入江に面した小高い丘の上に位置します。島の唯一の国道、384号を行くと純白の天主堂が目に入ってきます。心ときめく出会いです。

堂崎(奥浦)や楠原と同様、水の浦の信徒も大村からの移住者の子孫であり、明治の禁教令撤廃に至る経緯も同様の道を辿ります。ただ、水の浦のことを語る多くの人は、信徒のために尽した二人の人の名を欠かさないようです。今も、天主堂を見おろす墓地の一番高い所で眠っているのですから・・

長崎に大浦天主堂(フランス寺)が出来た翌年(慶応3年、1867)水の浦の帳方(隠れキリシタンにおいて教会暦を操る組織の最高責任者)水浦久三郎は秘かに大浦に辿り着き神父に祝福を受けて帰還します。
神父からもらった聖具を皆に配布し、信徒であることを表明するに及び、明治2年、久三郎を含む数十人が捕えられ、拷問により棄教を迫られる・・それは、明治4年まで続いたといいます。
明治6年2月、禁教令は撤廃されますが、その一月後、久三郎は70年の生涯を閉じます。令撤廃のことを知っていたのかどうか・・。久三郎の遺志は娘に引き継がれ、明治17年、33歳の水浦カネは自らの生家をおんな部屋(修道院)とするのです。その修道院は今も天主堂の近くで引き継がれています。


この地区には、早くも明治13年天主堂が建てられていたといいますが、老朽化と狭隘のため昭和13年、今の御堂が再建されました。鉄川与助の設計・施工、26棟目の御堂。現存する最大規模の木造天主堂。鉄川のリブ・ヴォールト天井を持つ天主堂の最後のもので、随所に自らが蓄積してきた様々な技術と心を注ぎ込んだであろう、その跡をしっかりと感じます。
平面は三廊式ですが、側廊部に比して主廊部を広くとっているため、極めてダイナミックな空間が造られています。リブ・ヴォールト天井も高く、その美しさは比類のないものです。正面を見ると、特異な曲線が上部を飾る入口、三つの縦長の尖頭窓、広い平面に縦桟木をあしらい軒下の装飾帯に繋げる・・側面も同様、その巧みなデザインに唖然とします。
天主堂の南、山の斜面に沿って広がる信者墓地、その途中には、袴姿で天上を仰ぐヨハネ五島の像もあります。その墓地の道を上りながら、振り返れば、民家と肩を接して建つ御堂、その背後には紺碧の海が・・
純白の姿に、木造特有の柔らかな優しさを秘めた天主堂、きっと鉄川が残した最上の贈り物の一つに違いない・・という思いがしたものでした。(2010年5月)










































































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