日牟禮八幡宮の横から八幡山ロープウェイが出てる、いく予定はなかったけど
せっかくなので八幡山へ行くことに・・
可愛らしい小さなロープウェイ
駅から歩きます・・
すぐに石垣あと
登ること10分ほどで
村雲御所瑞龍寺へ
村雲御所と称して日蓮宗唯一の門跡寺院、後継者は皇族五摂家華族から出て
代々尼宮が住持する習わしとの事です。
花手水がきれいにしてある・・
宗派は違うがお参り
寺から右へ北丸跡へ
北丸跡が八幡山の山頂になります。
という事で三角点も標高271mの低山です。
安土山や西湖を望みます・・
北丸跡から西丸跡へ・・
広々とした広場の西丸・・
ここから琵琶湖が一望です・・
271mといえども結構な高度感・・
続・・・
佐倉市から印旛沼をすぎ県立印旛沼公園の師戸城から車で15分ほどに岩戸城あとがあります。
場所がわかりにくいのですが・・
この西福寺が岩戸城の址になるようです。
ネットのこの情報を頼りにいきました。
土塁のあと・・・か・・
今は荒れ地になってるこのあたりが中心部か・・
土塁のところに石仏・・
近くの印西市歴史民俗資料館へ
館員の方に聞いてみた・・岩戸城は西明寺のところだとのこと
これが地形図
調査資料を見せてもらった。
千葉氏の一族の臼井氏に仕えていた岩戸五郎胤安 1314年ということ・・・
沿革もどちらかといえば伝承のような感じがする。
四街道駅の南側は住宅地が広がる、もともとは和良比集落だった、今も地名で和良比の住所はあるが
あとから開発したところは美しが丘 めいわとかになっている。
スーパーせんどう美しが丘店から歩くこと3分ほどで城址がある。
今は小さな公園になっています。
石垣はもちろんあとから組んだものでしょ
小さいながらになんとなく城址らしい感じの・・
宅地開発する前に発掘したようだ、そこそこの大きさがあったようです。
ここも千葉氏一族の臼井氏の支配下にあったようです、おそらく家臣の城だったでしょう。
しかしながら臼井氏はあちこちに狭い範囲で築城をしている。
伊東市の北側の海沿いの宇佐美に城があったということで行ってみた。
ネットの情報で国道から漁港へ向かう道を入り海の駐車場に止めて歩く
こんな立派な石碑があるが・・
ここは海水浴の駐車場にもなっているとりあえず、入る
上がっていくとまた駐車場で行き止まり
ここが城址なのか?ととりあえず・・私有地のようだし
雨も降りそうだし
降りてきた
築城の年は不明確だが・・・
平安後期の築城で 宇佐美三郎衛門祐茂が城主
源頼朝とともに挙兵し戦功をあげた。
伊東氏の居館の址
伊東市役所の前に物見塚公園があり、そこが跡地になる。
公園には伊東氏の伊東祐親の像がある。
築城年数は定かでないが平安時代中期ぐらいかと思われる。
源頼朝が伊豆に流された時に平家方の監視役に伊東祐親がなる。
源頼朝が挙兵した時に石橋山の戦いで大庭氏と一緒に平家方として戦うで頼朝を破る
その後富士川の戦いでとらえられ自刃した。
その後は孫の伊東祐光が伊東の土地を安堵された、戦国時代は北条氏の支配下にあった。
伊東市役所の前
公園内、居館があったとされる。
師戸城址 今は千葉県立印旛沼公園になっています。
子どもが小さいころはよく遊びにきました。
印旛沼に西のほとりの高台に立っている城址
印旛沼の展望台
広い芝生の公園で野球場にもなっている。
綺麗な緑の多い公園
空堀のあと
土塁のあとになります。
師戸城の歴史
1300年頃に築城
千葉氏の一族の臼井氏の本城 臼井城の支城であった・・・
臼井氏の家臣の師戸四郎がおさめたといわれている。
この城の作りを見ると印旛沼と直結してるので運搬とか船着き場とか利用価値は大きかったのではないかと
思えます。
臼井城からすぐ向かい側の山にある。
八千代市 村上 16号から少し西へはいったところに正覚院はある。
正覚院館として城であった、
寺のある谷の部分と北側の台地に城があったと思われるとのこと
城というよりほとんど寺です。
釈迦堂・・
古いお堂
谷部分の寺にいく階段、ここが土塁の役割
城になった由来は不明
八千代市の資料によると・・
(1)正覚院が防衛のために、戦国期に武装して、堀をそなえるようになった
(2)谷戸部に営まれていた寺院が、なんらかの軍事的緊張時に、手を入れられ、陣城として使用するために、拡張工事が行われた。
との由来が考えられるとのこと・・・
すぐ近くの対岸には、大田道灌が、米本城を攻撃する際に陣城として取り立てたといわれる権現山砦がある。「軍事的緊張感」が高まった時代としては、その際のことがまず想定できる。
との考えもあるとのこと
寺が城といわれるとやはり一向宗の石山本願寺の要塞を思い浮かべることができるが・・
船橋市の北の端部分 千葉ニュータウンの手前あたりの小室地区 小野田にある。
ここも光明寺を中心とした一帯が城郭と言われている。
歴史は不明
向かい側に安房神社
ここも城郭の一部になる。
この道路沿いが土塁の部分か
光明寺と安房神社がちょうど道路の一番上の部分になる。
いずれにしても歴史的に不明となれば戦国以前 いや・・・鎌倉あたりであろうか・・・
柏の南部、今は城址公園となっている増尾城址
戦国時代後期500年前ぐらいの城
詳細は不明ですが、松戸の小金城主高城氏の家臣平川若狭守の居城と言われている。
曲輪や土塁もしっかり保存されている。
城址主郭あたりの広場
あたりは日中といえども薄暗い・・
千葉県佐倉市 印旛沼のほとり 臼井城の南側の山に臼井田宿内砦址があります。
臼井城の支城の一つ防衛のための砦
臼井城は 桓武平氏の千葉氏の一族臼井氏の居城
文明11年(1479年)関東管領上杉氏と古河公方との争いで太田道灌の弟太田資忠と千葉自胤によって攻められ、臼井城は落城した。
永禄4年(1561年)臼井興胤の時、里見義尭の家臣正木時茂によって攻められ、興胤は結城に退去。その後に生実城を本拠とした原氏が臼井城を居城とする。
木が生えてなかったら印旛沼がよく見えるだろうけど・・
多分佐倉市民花火大会の時はここはいっぱいだろうな・・・
長源寺の駐車場に止めて登るとすぐに到着。
城址訪問近くに結構多いのでちょっとした歴史探訪て感じです。
佐倉市南部の岩富に城があった・・・
岩富城
セブンイレブンから少し入ったところに登り口があります。
すぐに城址に到着
今は神社がある。
城の沿革
戦国時代に岩富原氏の城であった・・
原氏とともの岩富原氏が滅びたあとに、徳川家臣となった北条氏勝が支配 1万石
その後廃城になる。
城郭が残り城下町の面影・・・は想像するのだが
道路も城郭の一部だったんだろう・・
いつもいく南図書館に車をおいて歩く
歩くこと20分ほどで小篠塚城址に到着
ここの城があるとはまったく知らなかった・・・
沿革
平安時代にできた城、平忠常の乱後に子孫が築いた城・・両総平氏と呼ばれていた・・
鎌倉からは千葉家 家臣が所領 以後室町時代 古河公方も一時動座した城でもある。
こんもりとした丘の上にある
城全体の丘
裏側から急な登り
切り落し
この土塁で防禦をしていたとなる
本丸跡
本丸には今は咲耶姫神社がある・・
城址として保存してる・
佐倉市は結構史跡をきっちりと保存しているようだ・・
住所 佐倉市小篠塚字城
佐倉ふるさと広場からウォーキングを早朝することに
天気がいまひとつ
印旛沼サイクリング道路を歩く・・自転車はまだ走っていない・・
サイクリング道路には桜並木が続く・・・
舟戸の渡し跡の野良桜
千葉県水産総合研究センター内水面水産研究所前
臼井城跡へ
城址広場
静かな城址 だれもいない早朝
戦国大名 千葉氏の支城
サクラの古木
朝からよく歩いた15500歩
白河駅からすぐ隣が、白河藩の城 小峰城跡があります。
3・11の爪痕で石垣が崩れたようで、いまだに修理工事がおこなわれています。
今でさえピケを立てて文明の力で修理できるが
昔の石を積むのにどれほどの労力がかかったのかと思うと気が遠くなる感じがする。
結構立派な石垣 高い石垣
鎌倉時代に結城氏がおさめて、南北朝時代に結城親朝が築城したのがはじまり
江戸時代 白河藩主となった丹羽長重が大改修をおこない今の形になるとともに、白河の町の整備を
おこったた。
本丸跡
三重櫓は復元されている。
ので中に入れたので入る。
外部の敵に石を落とす石落し
鉄砲だし
平成3年に復元築城したようです。