奥白根を登り終えて、湯元スキー場に降りてきた夕刻に驚いたこと、何と広大な斜面のあちこちにシカのファミリーが、三々五々スキー場の草を食んでいた。写真を撮り損ねたが、200頭前後はいただろうか。
リーダーが警戒音を上げると、ファミリーがいっせいにこちらに視線を向けたが、大方は、すぐに逃げるのでもなく、こちらが大声で反応しても、しばらくは警戒をしていたが、また何事もなかったように草を食み始めた。この場所は、彼らの夕食会場としての大広間だったのか。
奥白根の山上では、大きな針葉樹の樹皮がヒトの背丈以上の高さまで無残にはがされていたのを何度も目撃して、はじめクマの爪立のせいかなとも思ったが、きれいに剥がされていたで、これはシカたちが冬場に食材が不足してので食べたのだろうと分かった。木の皮を上手に剥いで、かたい樹皮の内側の柔らかいところだけ上手に食べたようで、樹皮そのものは開いた花弁のように残されていた。翌日歩いた戦場ヶ原では、あちこちに木の幹に金属ネットが貼られていたが、このようなシカの食害から樹木を守るためのものだったと理解した。。
さらに、奥白根の山上を歩いて、この季節にしては高山植物の種類が少ないことが気になっていた。ハンゴウソウやマルバダケブキが群落をなしていたが、あるいは、それ以外おおくの植物がかつて繁茂していたのかもしれない。湯元スキー場で保護されていたヤナギランは、「かつてはスキー場に繁茂していた」と説明表示されていたが、この草もシカたちの食材としてお腹に消えていったものではないだろうか。
シカの増加が、山の風景そのものを変えようとしているのか。シカに罪はないのだが、ヤナギランの咲き匂う草原を歩きたかった。
スキー場で、たまたま目にした数で「あれだけ」だったので、この山域に暮らすシカの数は一体どれだけなのだろう。山のあちこちでシカの鳴くのを聴いたし、観光地化し、大勢のヒトで行きかう龍頭の滝の近くの草むらでも、まるで奈良公園のシカよろしく、まったく警戒しないで草を食むヤツもいた。、戦場ヶ原一帯を取り囲むようにシカ防御ネットが張り巡らされていたが、もう環境省の税金によるシカ防御ネットでは限界だろう。トランプの国境の壁みたいなもので、金をかけても根本原因解消とはならない。
増え続けるシカを抑えることはできない段階に来ているようだ。今の世は、完全に生物界のバランスを欠いたフェーズに至っているようだ。
歩きながら、ふと思った。「本州には、オオカミやヒグマのような天敵がいないので、増え続けているのだろうが、どうしてマタギに代表される猟師が捕まえるなどして、日本のヒトはシカを「積極的に」食べてこなかったのだろう。クマよりも絶対捕まえやすくて、おいしいだろうに・・・シシナベ(ボタン鍋)やクマナベは聞くが、シカナベ(モミジ鍋)はあまり聞かない。」
この、伝統的食文化の問題は、「賢治の鹿踊りのはじまりなど参考にこれから調べてみることにして」、ならば現代において、ジビエ文化を興隆させることも目途として、地域の自治体がシカの捕獲を押し進め、シカの個体数をコントロールすればいいのに。(シカに罪はないが、オイラは賢治のようなベジタリアンではない。)
そういう疑問を抱きながら、奥日光の森を歩き続けた。
おまえに罪はないし、お前を見てもよだれが出ないのだが・・・分かってくれ
家に帰って、山村に暮らす気鋭の若者たちが、少なからず果敢にもジビエ文化の盛り上げに参戦していることがわかったが、「ああ、これだ」という文化の発展に重大な阻害要因があることが分かった。
・・・・・・・・福島第一原発・・・。
捕獲肉の出荷が制限され、自家消費の制限があったのか・・・ 。ゲンパツというやつはどこまで罪深い存在なのか。ますます、罪のないシカやシシは増え続け、山岳の植相風景は変わっていくのだろう。そして、これからも永く日本のヒトの食文化に「シカ」はないのだろう。
(ツキノワグマやニホンザルの人里跋扈は、ちょっと次元が異なるのだろうが、どこかでつながっているのだろう研究しよう。彼らに罪はないのだが。)
奥日光高山1667.5m山頂の木立からちょっとだけ顔をのぞかせた奥白根山
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