太平洋戦争で戦死した人の中で、
運良く??????妻子を残した人はともかく、
独身のまま散ってしまった人は、
もう誰の記憶からも消えてしまうのではと、不安なくちこです。
例えば、くちこ家の、音松さん。
くちこの祖父の弟で、独身のまま、くちこ家から招集され、昭和20年に戦死しました。
既に音松さんの親兄弟はこの世になく、
生前の音松さんを覚えている人は、最早数人かと。
くちこ家は、本家なので、位牌もあるし、何度か法事をしたことも覚えています。
(不肖、くちこは一人っ子で跡取り娘でした)
写真によると、とてもハンサムです。
話によると、物静かで優しい人だったと。
「音やん」と呼ばれていたと・・・
誰からも忘れられてしまう前に、
せめて、くちこが此処に、音松さんのことを残しておこうと思って。
戦争がなければ、子々孫々が今、いたかもしれないのに、
国権によって、人生が断ち切られてしまった人です。
皆さん、読んでくれましたか?
「音松さん」という人がいたと言うこと。
くちこは、ここに伝えます。
さて、閑話休題。
父は、台湾から出兵して敗戦後に日本に復員しました。
そこには、結核を患った父、兄、姉。
そしてまだ学校に通う弟妹が・・・
収入もなく、「胸患い」がいる家と白眼視され、
父は、がむしゃらに働き、塩を舐めるようにして、病院代を作ったと。
そして、昭和22年23年、父、兄は相次いで他界。
貧乏ながらも兄弟肩を寄せ合って暮らしているすぐ側に、
裕福な分家が住んでいたとのこと。
(音松さんの兄、くちこの祖父の弟)
が、援助は一切なし。
父達は、叔父達が食べる山盛りの白いご飯がどれほど羨ましかったか・・・と、よく話していました。
そのうち、音松さんの遺族年金の話が出て、父が代表で全ての手続きをし、最後の段階で・・・
その裕福な叔父に横取りされてしまいました。
兄弟のほうが血が近いからと。
その叔父が亡くなるまでずっと。
墓、位牌、法事は、すべてくちこ家で続けましたが・・・
十数年前、ふと、くちこは、戦死者の遺族への弔慰金が、遺族年金とは別にあることに気付きました。
雑談としてくちこの叔父(父の弟)に話すと、
叔父は、数十年来の恨みを晴らさんと、口から火を噴くかとの勢いで走り回り、掛け合い、印を集め、その弔慰金をくちこ家(本家)に取り戻してくれました。
ただし、くちこの父は、とっくに他界。
その後、くちこの母も他界。
権利は、口から火を噴いた?叔父のところに戻りました。
いくら本家でもくちこは、血が遠すぎるのでね。
くちこは、くちこの家の墓参りに年に数度行きますが、
叔父は毎週行って、いつも綺麗にしてくれています。
くちこの父に恩があるからと。
その上、くちこに、毎年、自分が受け取った弔慰金を渡します。
どんなに辞退しても・・・ね。
「これは、本家のものだから」と。
ちなみに弔慰金とは、花代という感じで、年間4万円です。
くちこは、そのお金を貯めて、台湾に子供達とお墓参りに行っています。
台中の宝覚寺にあるのですが、そこには、日台戦死者(台湾人も日本軍として戦っています)の慰霊碑もあります。
お賽銭箱には、日本海軍のマーク?が入っています。
祖母のお墓と音松さん達の慰霊碑はほんの10メートルしか離れていなくて、くちこはとても、便利です。
これにて、音松さんの報告を終わります。