17歳で台湾から出兵して、日本に帰った父です。
引き上げた家族は、父、姉、兄が結核、弟妹は学生でした。
粉骨砕身、一人で家族を養い、病院費を捻出した父。
父親と兄は亡くなりましたが。
父が30歳の時に、くちこが産まれました。
早産重症仮死でしたが、辛うじてこの世に命を繋げました。
母は皮膚麻酔だけでの帝王切開でしたが。
このブログの為に久しぶりにアルバムを出してみました。
父のまなざしが自愛に満ちていたんだな。
気がつくのに55年必要でした。。。
基本、自分のアルバムは自分の顔しか見ないのでね。
今更ですが、
お父さん、ありがとう。
幼少時、父はバスの運転手で、我が家は親戚の借金も背負っていて、貧乏だったそうですが、くちこには記憶無し。
居間に父手作りのブランコがありました。
上には天窓があり光のシャワーが降り注いでいました。
子供部屋には、母が何処からか調達してきた滑り台もあったし、ビニールプールも。
産後の肥立ちの悪い母に代わって、父がくちこを背負い井戸水でおむつを洗っていたそうで。
昼間は、会社に連れて行き自分の運転するバスに乗せていたりね。
車掌さん達が面倒を見てくれていたような。
昔って、ゆるいよねえ。
何がどうだったのか?
父はどんどん出世しました。
が、
それと共に、接待、付き合い酒が急増し、
仕事面でも常に労使交渉の矢面にいたようです。
タクシー会社を一つ任されていた頃、
くちこ家は、やや金持ちでしたが、
父はアルコール依存症だったと思います。
立場上、出勤時間等も自由でしたが、ストレスも相当だったようで。
くちこは、子供の頃から父と料亭に出入りしていました。
女将さん達が我が子のように可愛がってくれて。。。
くちこは、父の名一つで自由にタクシーに乗れたので、
学校帰り(徒歩10分)も事務室からタクシーを呼ぶような、
今思えば、高慢な生徒でした。
自覚は皆無でしたが。
父とタンデムで、スケートやアーチェリーを楽しんだり、着物を着て父と出掛けたり。。。
どんどんいろんな体験をさせたかったようでした。
ある夜、ふと目を覚ましたら、
両親が真剣にくちこの足に包帯を巻いているんです。
単に、体重が掛かって一時的に赤くなった所があるだけなのに、それを怪我と思ったのか?
あの時は、こんな親で大丈夫かと、くちこは呆れましたが、
今思えば、バカバカしい程大事にされた記憶がくちこの「芯」になっているなあ、と。
くちこが15歳の時、父は胃癌になり、
くちこが18歳まで、自宅療養していました。
再びくちこの家はやや貧乏になり、
くちこは大学を断念して、
国費で全て賄って貰える看護学校に入りました。
父は自由に大学に進学するよう言いましたが、
何度も生死をさまよった父を見ていたのでね、
父に負荷を掛ける事も、父から遠く離れる事も出来ないと思ったくちこです。
療養中の父とくちこです。
この頃、くちこにはモテ期が到来していて。。。
ああ、諸行無常、盛者必衰、
驕れる者はひさしからずと痛感する昨今ですが。
こんな性格なので隠すこともなく、毎週末、いろんなBFの車で帰省していたくちこでしたが、
どんなBFを連れてきても父は、いつも無言でした。
ところが、そんな父が一度だけ激怒しました。
それは、BFがデート帰りにくちこを家まで送らなかった時。
くちこが自主的に途中で降りたと話してもダメでした。
「どんな事情があろうと、きちんと家まで送り届けない男はダメだ!」と。
が?
結婚して夫婦喧嘩し、くちこが怒ってとっとと実家に帰った時、一緒に腹を立ててくれると思った父は、
「別れる気が無いなら、明日は戻りなさい」と。
ちょっと体調が悪いと聞いただけで頼みもしないのに迎えに来てくちこを連れ帰る父だったのにね。
くちこが30歳と3日で、父は15年の闘病を終え亡くなりました、59歳と11ヶ月。
これじゃ、可愛がってくれても、有り難みは差し引き0だね。
父は、くちこの夢枕にイヤと言うほど出てきました。
「未だ死にたくなかった、もっと頑張るつもりだった」と。
あれだけ苦しんで、やっと楽になったのに。
15年も闘病したら、もう十分闘ったと感じていたのですが。
今思うと、こんな危ない娘を残して逝くのは不安だったのかな、と。
いろいろ気付くのに人より時間が掛かるくちこです。
で、不動の結論は、
「死んでもくちこを守る義務がある」
ということ。
くちこは辛いことがあると、仏壇の前で泣きます。
父へのあてつけです。